現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

小倉佳の次男は琵琶師

2020-03-14 13:34:50 | テレビ・映画・芸能人

「赤旗新聞」3/15 日曜版に 小倉佳とその次男の話が掲載されていました。

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小倉佳といえば、「シクラメンのかほり」「愛燦燦」「夢芝居」「愛しき日々」「山河」などヒット曲を作詞・作曲。

東大卒で第一勧銀に入行。浜松支店長、本店財務サービス部長を歴任したエリートでありながらの音楽活動。「二足のわらじ」の成功者として私の憧れの人でした。

1993年49歳で銀行を退職。私も保険会社と尺八の二足のわらじで、50歳の誕生日に退職。似ているが雲泥の差。

ちなみに、本名は「神田紘爾(こうじ)」。芸名の「小椋」は、大学3年生の時に法律の勉強で福島県耶麻郡北塩原村の学生村に約2ヶ月間滞在中、周りの住民の姓のほとんどが「小椋」姓であったことにより命名したとのこと。北塩原村は会津盆地の東北から裏磐梯にかけての地区。たしかに「小椋」とは、林業に携わる人(木こり)の姓で会津には多い。私の大学の友達にも会津出身で「小椋」さんがいた。それだけに小椋佳には、より親近感があった。

そして、小椋佳の次男「宏司」さんが、なんと琵琶の製作師。それも、14歳で若年性脳梗塞を患い、植物人間の状態から10年の療養で奇跡の復活。それからの琵琶師と聞いて驚く。小椋佳子自身も胃がんを患っている。

小椋佳の父親も琵琶奏者で、小倉佳自身も 銀行を退職してから 琵琶を習い始めたようだ。実は私も今 琵琶を習い始めたからますます関心がある。

その宏司さんのお嫁さん(神田亜矢子)が、またなんと、琵琶のコンクールで日本一になったと云うから、琵琶一家だ。これから琵琶ブームが起きそう。私も70の手習い。尺八が吹けなくなったら、次は琵琶でござる。

「小椋佳 宏司 妻」の画像検索結果

 


慶応卒の芸人

2020-03-14 12:58:57 | 虚無僧日記

「第7世代」の登場もあって、新たなお笑いブームとなっている昨今。若手芸人のプロフィールに注目してみると、意外な事実に気がついた。それはズバリ、慶応義塾大出身の芸人が増えているのだ。

 

 お笑い界では、高校卒業後にプロダクションの養成所に入って芸人になるというキャリアが一般的だが、今や大卒芸人も珍しい存在ではなくなっている。むしろ、大学での経験を強みにする芸人も多くなってきているのだ。

「関西の大学は、サークル活動で落語研究会やお笑い研究会が多く、近年では大学生限定のお笑い大会も活発に行われています。在学中、もしくは卒業後に吉本に入るパターンも少なくない。関東圏だと大卒芸人は落研の強い明治大や早稲田大、生徒数も多く芸術学部のある日本大出身者などが多い印象です。高学歴芸人として有名なのはクイズ番組で活躍したロザン・宇治原史規さんが京都大卒、『やりすぎ都市伝説』などに出演していたお笑いコンビ・田畑藤本の藤本淳史さんは東京大卒として有名です」(民放バラエティ制作スタッフ)

 今、人気のお笑い第7世代でいえば霜降り明星・粗品が同志社大(中退)。ハナコ・岡部大は早稲田大卒だ。では、慶応大出身の芸人には誰がいるのか。

「最近だと昨年の『NHK新人お笑い大賞』で優勝したラフレクランの西村真二。慶応大を出て、一度、広島ホームテレビのアナウンサーになり3年ほど務めた後に芸人になったという異色の経歴です。また『キングオブコント』やバラエティ番組で存在感をみせているゾフィーの上田航平や昨年『マイナビ Laughter Nightチャンピオン大会 』で優勝した真空ジェシカの川北茂澄も慶応大卒ですね。あとは、空気階段の水川かたまりは、慶応大に入学した直後に中退しお笑いを志したそうです。さらに若手でいうと、令和ロマンはコンビ揃って慶応大卒で、同大学のお笑いサークルの出身。吉本の芸人養成所東京NSC を首席で卒業したという実力派です」(同)

 とはいえ、数年前までは慶応大出身の芸人はほとんどいなかった。ふかわりょう(45)は1994年、慶応在学中にデビューしたが、当時は芸人の学歴はあまりネタにされなかった。その後、バラエティなどで徐々にいじられキャラになり、慶應大卒という肩書がむしろ邪魔になっていったのかもしれない。

 TVウォッチャーの中村裕一氏は、慶応大出身の芸人についてこう分析する。

「ほかの慶応大芸人としては、かつて『号泣』というコンビを組んでいた、手相占いで有名な島田秀平が通信制の卒業生、『パンケーキ食べたい』で昨年プチブレイクした夢屋まさるが在学中、また、ロンブー・田村淳も大学院のメディアデザイン研究科に籍を置いています。一般の会社でも『早稲田閥』『慶応閥』という派閥があるように、お笑い界でも他と比べて目立つ存在になりつつあります。慶応大とお笑いとの相関関係を明確に定義するのは難しいですが、知的で他にはない視点・切り口を持ち、自ら先頭に立って道を切り開くというイメージがあるので、慶応大の校風を含め、大学生活を通じて培われる何かがあるのかもしれません。お笑い芸人も昔と違い、笑いにプラスアルファを求められる今の時代にあって、今後、慶応大芸人のニーズは高まっていくと思います」

■従来の芸人像を打破するオリラジ中田

 そして今、彼らが単なる高学歴芸人として終わらない時代になってきている。その代表格がオリエンタルラジオの中田敦彦だろう。

「オリラジのあっちゃんは在学中にNSCに入学し、卒業後すぐに人気が出たためすぐに“慶應大卒芸人”としても注目が集まった。クイズ番組への出演やトーク番組でのうんちく披露から徐々に“成功のメソッド”のようなトークが増えてきて、意識高い系から支持を集めていました。最近ではすっかり教育系ユーチューバーとして動画を配信したり、ビジネス系メディアで社会問題について討論したりするなど、ビジネス方面の展開で話題になっています。『中田敦彦のYouTube大学』はたびたび内容をめぐって炎上していますが、ファンも多く、再生回数もかなり多い」(放送作家)

 中田と似たケースではAO入試で入学した女性芸人・たかまつななもいる。現在、自ら会社を設立し、講演活動を始めとしたビジネスを手掛ける起業家として注目されており、本人も「お笑い界の池上彰」を目指しているという。

「あっちゃんやたかまつななのように、慶応大卒の芸人さんはお笑いの定義を変え、さまざまな方法で人を楽しませるビジネスに変換させていくことが得意なのかもしれません。芸人であってもビジネスマンとして顔出しで人を引きつける企画を立てたり、高いコミュニケーションスキルにあこがれている。経営戦略をたて、自己プロデュースをしながらビジネスをしていくこともまた、ひとつのタレント力です」(同)

 慶応大芸人がお笑い界をリードし、新風を巻き起こすかもしれない。(今市新之助)

 

 

 


時代劇と虚無僧

2020-03-14 12:54:44 | テレビ・映画・芸能人

スカパーで時代劇を見るのは「虚無僧」が登場しないか、それが関心事だからでもあります。

先日は『影狩り』を見ました。
1983年10月6日、フジテレビで放映されたもの。

徳川幕府は、諸大名の取潰しのため、隠密や忍者が諸大名の些細な落ち度を暴こうとして暗躍した。各藩では、隠密や忍者を“影”と称して恐れ、潜入してくる“影”を殲滅することだった。という設定。ドラマでは、『御槍拝借』と同じく
「森藩」と「影」との戦いになっている。

そして幕府の隠密が「虚無僧」姿だった。「虚無僧は幕府の隠密」と俗に言われているからでしょう。でもでも、このドラマでも明らかな通り、虚無僧姿でウロウロすれば、もう「幕府隠密」とバレバレ。虚無僧姿では目立ち過ぎ。

そして虚無僧が次々に襲いかかり切られる。虚無僧では脇差しか持てないし、天蓋や偈箱がブラブラして、動きが鈍る。とても 穏密活動できまい。

『水戸黄門』でも「虚無僧」がよく登場する。
「東野英治郎」の水戸黄門が虚無僧姿で登場し、「今日は、お忍びだから、かまわん」というようなセリフがあった。「お忍び」といっても目立ちすぎる、葵のご紋の印籠を下げた堂々とした立派な衣装の虚無僧でござった。


『子連れ狼』のラストシーンにも虚無僧が登場。
フジテレビ系の時代劇スペシャルで 1976年9月26日に放映されたもの。「拝一刀」は「萬屋錦之介」。「佐藤慶」が扮する「柳生烈堂」が、なんと虚無僧姿で現れる。黒光りする太い尺八と、尺八の音が「拝一刀」の最期を印象づける。

それにしても「柳生烈堂」が、なんで「虚無僧」姿で現れなければならないのか?そもそも「虚無僧」では「刀」は持てない。斬り合いになると尺八が突然「刀」に代わる。

『鳴門秘帖』でもそうだが、幕府隠密が阿波に潜入するのだが、「虚無僧」姿では海も泳いで渡れないだろうし、刀は隠せない。まるで手品だ。


1918年スペイン風邪では5000万人が死亡

2020-03-13 10:27:57 | 地球人類の問題

1918年に大流行したスペインかぜ(インフルエンザ)は、感染者が5億人以上。世界中で5000万人から1億人が死亡したと推定されている。

当時の世界人口は18~20億人だから、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。

日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡した。0.7%。1%にも満たない。

太平洋戦争での日本人の死者は300万人。

 

14世紀には ペストが大流行し、およそ8000万人から1億人ほどが死亡した。

ヨーロッパでは2000万人から3000万人が死亡。これは当時の ヨーロッパの人口の30%から60%と推定されている

いくつかの町や村では人口の70%から80%が死亡したという伝承が残る。

 

このペストも中国で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るい、当時一大勢力を築いていたモンゴル帝国を衰亡させる要因となった。

ペストはシルクロードの交易によって、中央アジアからイタリアに伝播。イタリア北部では住民がほとんど全滅した。疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会は、1万人以上のユダヤ人を虐殺したという

 

さてさて、今回の新型コロナウイルス。感染しても治療方法は無いのが不安を煽っているのだが、自宅療養でも大半が治っている。亡くなるのは高齢者。でも高齢者の多くは一般のインフルエンザや肺炎で亡くなっているのだ。コロナウィルス騒ぎで、これまで毎年1000万人は罹っているという一般のインフルエンザ患者の医療が妨害されかねない。

検査して陽性と判明したところで、治療法は今のところ無い。自宅療養で治る。1000万人が健康保険で検査すれば 健康保険制度がパンクする。アメリカでは検査費用35万円とか。

かつてのスペイン風邪やペストのように、全世界の1/3の人口が亡くなっても、人類は滅亡しなかった。何も怖れることはない。自分だけ罹りたくないと願うなら、免疫力をつけるなり、保菌者に近づかなければいい。そして罹ったらかかったで、他の病気と同じ。むしろ致死率は低いから心配はいらない。。そして死んだら死んだで、他のインフルエンザや肺炎で死ぬのと同じく、運命と受け止めればいいではないか。それだけのことだ。

 


「最澄」の論敵「徳一」

2020-03-12 18:09:20 | 虚無僧日記

天台宗、比叡山延暦寺の開祖「最澄」の論敵、奥州会津の「徳一」の名は一般には ほとんど知られていない。「徳一」は私の「卒論」のテーマであった。

会津磐梯山麓の「慧日寺」と、会津盆地の中央にある「勝常寺」は「徳一(とくいつ)」創建の寺と伝えられている。

慧日寺は、平安時代、七堂伽藍が並び建つ大寺院であったが、戦国の世に伊達政宗の侵攻で焼失した。その跡には、徳一の墓と伝えられる五輪塔がある。また「勝常寺」には 平安初期の木造薬師如来・日光菩薩・月光菩薩像など8体の仏像が伝存しているのである。薬師三尊は平成8年 国宝指定を受けた。

岩手県平泉の中尊寺は世界遺産にも指定され、超有名だが、平泉より300年も遡る平安時代初期に、会津にこれだけの仏教文化が開花していたことは、あまり知られていない。

しかも、平安時代になって起こった新興仏教である天台、真言の徒ならわかるが、「徳一」は、旧奈良仏教の「法相宗」(興福寺)の学僧であった。

奈良、京都に居るべき人が、草深い、陸奥の国の会津に下り、七堂伽藍を建て、最澄、空海に書を送って論争を挑んだことが、不思議な謎なのである。

最澄、空海は「仏性は、生きとし生けるもの、草木にいたるまですべてのものに(悉皆)、本来備わっている(有仏性)」と唱えたのに対し、旧仏教の徳一は「戒律を守り、厳しい修行をしなければ仏性は得られない。仏道修行に励まなくとも、生まれながらに仏性は備わっているなら、誰も修行などしなくなるではないか」と
いうのである。

実は、勝常寺の住職(宇佐美)氏は、私の母方の遠縁にあたるので、私としては、この論争は「徳一」の方に軍配を上げたい。

ところが、現在の勝常寺は「高野山空海の真言宗豊山派」で、「縁起」では、弘法大師(空海)の創建と言い伝えており、さらには「念仏宗」の「念仏踊り」をも伝えているのである。



「恵日寺縁起」

2020-03-12 18:04:05 | 虚無僧日記

磐梯山麓の大寺に「恵日寺(えにちじ)」という寺がある。
平安時代の初め、最澄と論戦を張ったという法相宗(奈良興福寺)の学僧「徳一」の木像と墓がある。

史実的には「徳一」の創建と思えるが、『恵日寺縁起』では「弘法大師(空海)」の創建となっている。知名度の高い「空海」の方が良かったからだろう。

『恵日寺縁起』によれば「当山は平城、嵯峨、淳和、白河、四皇帝の勅願所にて、弘法大師の御開基にして、鎮護国家の霊場なり。磐梯(いわはし)山には 魔物が住み、祟りを成すので病悩山と呼ばれていた。この国(会津)は、日々 霧に閉ざされ、俗に霧ケ里とも呼ばれた。大同元年(806年)、月輪、更科の二荘が一夜にして湖水となり、人民多く溺れ死す。悪風日々吹き、日月の光を見ることなく、五穀実らず、万民嘆き悲しみ給い、京都に奏聞す。
そこで空海が使わされ、加持祈祷を行って病悩山の悪霊を鎮め、山を磐梯(いわはし)山と改め、寺を建てた。

さて、この「一夜にして湖水となり、月輪、更科の二荘が水没した」という記述から、「磐梯山」が噴火したという説が横行している。どの本にも、ガイドブックにも「磐梯山の噴火により猪苗代湖ができた」と書いてある。しかし「縁起」には「噴火による」とは書いてない。

また、地質の調査でも、噴火があったという痕跡(火山灰の堆積)は認められない。これは大地震で猪苗代湖が陥没してできたことを記していると私は考える。

さて、『恵日縁起』では、弘法大師の後、法相宗の「得溢(徳一)」が、天皇の勅によってこの地に来、大師の後を継ぐ」としている。平安新興仏教の真言宗「弘法大師」の後に、旧奈良仏教の法相宗「徳一」が継ぐとはおかしな話。

徳一開基だったとしても、いつの頃からか、「恵日寺」は弘法大師空海の真言密教の寺となっている。であるから、開祖を弘法大師にしたのであろう。



大同年間に何があったのか

2020-03-12 18:02:09 | 虚無僧日記

平安時代の初め「大同」という年号がある。西暦806~810年。
平安宮(京都)遷都を行った桓武天皇の後「平城天皇」と「嵯峨天皇」の御世。
この「大同年間に創建された」と伝える寺が東北の各地にある。また、東日本大地震で明らかになったが、「大同年間」に大地震や噴火があったとする伝承が各地にある。

那須連峰の茶臼岳、尾瀬ケ原の燵ガ岳、蔵王の刈田岳、そして会津磐梯山の噴火。そして、それを鎮めるために建てられたという「恵日寺」『勝常寺」他、茨城県の雨引千勝神社、早池峰神社、赤城神社、いわき市の湯の嶽観音、富士宮市の富士浅間神社、京都の清水寺、奈良の長谷寺。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上が大同年間の創建と伝えている。

さらに、神楽の起源も大同二年作。それだけではない。秋田県の阿仁銀山、高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間。
兵庫県・生野銀山の正式記録は「天文十一年(1542)開坑」となっているが、
伝承では大同二年である。

おまけに八溝山や森吉山などの鬼退治伝説。加えて、肘折温泉ほか、温泉にまつわる伝承も「大同年間」というのが多い。

ところが、大同年間に、火山の噴火や津波、旱魃など天変地異があったとする証拠は見つかっていないたのだ。それなのになぜ「大同年間」なのか。


大同年間とは「平城天皇」の世である。桓武天皇崩御の後即位したのは「平城天皇」。その名前が意味するごとく、794年、桓武天皇によって都は奈良(平城宮)から京都(平安宮)に遷都されたばかりなのに、その子である
「平城」は、奈良へ都を戻すことを画策した。これは、臣下の反対にあって、在位わずか3年で弟の「嵯峨天皇」に位を譲ることとなる。

また、坂上田村麻呂の“蝦夷征伐”が終わったのも大同の直前だった。そして、弘法大師空海が、唐から帰国したのが大同元年なのである。

まさに、大同年間は、坂上田村麻呂によって、東北まで朝廷の威光が拡大した年であり、平城天皇は全国に観察使を派遣し、地方情勢を調べさせたり。全国に「鹿島・香取」などの軍神を祭る神社を建てている。
福島県の中央には「田村郡」があり、また阿仁銀山の開坑なども、田村麻呂の功績となっている。

加えて、弘法大師空海を迎えて、京都に清水寺を創建し、真言密教の加持祈祷力を利用して、病弱だった「平城天皇」は 全国の寺社に自分の健康祈願の祈祷をさせたのだった。

ところで、空海が帰朝したのは「大同元年(806)」と言われるがはっきりしない。帰朝したばかりの空海の真言密教が即、都で迎え入れられたとは考えられない。空海が重用されるのは次代の「嵯峨天皇」によってである。

であるから、全国各地の「大同伝説」は、はるか後世の人々が、空海と大同年間を結びつけて、作り上げ、広めていったものと考えられる。その役回りを担ったのが、山岳信仰と密教を集合させた「山伏」であった。磐梯山も湯殿山も、富士山もみな「山伏による山岳信仰」によって支えられてきたのである。


広田弘毅の万歳

2020-03-11 22:44:57 | 政治家

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文官でただ一人A級戦犯として処刑された広田弘毅。名門の出でなかったが外相、首相まで登りつめた。死刑判決の理由は、首相でありながら軍部の暴走を止められなかったという不作為の罪。東京裁判の判事、検事の何人かは、死刑判決に驚いたという。城山三郎の『落日燃ゆ』では、悲劇の宰相として同情的に描かれている。

その『落日燃ゆ』で、A級戦犯たちが絞首刑になる直前、「天皇陛下万歳!」を唱えたのに対し、広田弘毅は、教誨師に「今、まんざい(漫才)をしてましたね」と茶化し、自分の番になった時、ただ一人万歳三唱をしなかったと書かれている。“万歳”を“漫才”と茶化して、万歳をしなかったのは、広田の精一杯の軍人に対する当てつけだったと。

そのストーリーには誰しも感動を覚えたことだろう。

だが、これは、城山三郎のフィクションだと指摘する声があった。城山三郎が参考にした資料の『教誨師の日記』では、広田弘毅も一緒に「万歳三唱」をしたと思える記述になっているという。

これでは、城山三郎の『落日燃ゆ』が今ひとつ、真実味を失う。

 

そこで私なりに考えてみた。広田弘毅の述懐の言葉、「天皇の忠実な僕(しもべ)であれば良かったのです」という記述に照らせば、理解できる。広田弘毅は「天皇の平和を願う気持に忠実に従えばよかった」ということで、最後に「天皇陛下万歳」を叫んだのだ。他の軍人は、「天皇のために、国体護持のために戦って悔いなし」の自負から「天皇陛下万歳」を唱えたのであろうが、広田弘毅の万歳は、「平和を望まれた天皇陛下に万歳」だったのだ。

 

 

尚、広田弘毅も他の戦犯とともに靖国神社に祀られている。軍人でもなく戦死者でもないのに祀られているのは広田弘毅ただ一人。遺族は靖国神社に祀られていることに反対を表明している。

 


東條英樹の横暴「竹槍事件」

2020-03-11 22:27:40 | 虚無僧日記

一国の総理大臣の指令で小中学校は休校、演奏活動は一斉停止。何やら現在は戦時中の様相を呈してきた。

「毎日新聞」で検索していて「竹槍事件」というのを知りました。

太平洋戦争の末期、1944年(昭和19年)2月23日付『毎日新聞』に「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と書かれたことに東條英機が激怒して、記事を書いた「新名丈夫記者」を即刻 召集、戦地に飛ばそうとした事件。

記事は「勝利か滅亡か 戦局は茲(ここ)まで来た」という見出しで、南方における窮状を解説し、続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として「海軍航空力を増強すべきだ」と説いている。

これは、海軍当局からは歓迎されたが、日本の敗色を明らかにしたことが、時の首相「東條英機」(陸相)の怒りをかい、毎日新聞は、掲載紙の発禁、編集責任者と筆者の処分を命じられた。毎日新聞社は 編集責任者は処分したものの、新名記者の処分は行わなかったところ、その後ほどなく、新名記者が37歳にして召集された。

いやはや、時の総理大臣が、一個人の召集権まであったとは驚き。
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  中野正剛

同様のことが、前年にもあった。「中野正剛」の憤死事件。
中野正剛は、毎日新聞から朝日新聞に転籍したジャーナリストで、政治家。1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ。幸い尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできている」と、東條英機を痛烈に批判した。この記事に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じ、中野正剛を逮捕した。

徳富蘇峰や鳩山一郎が、中野の釈放を各方面に働きかけ、松阪検事総長でさえ「こんな理由ではとても起訴はできない」と東條に反論した。

東條は、「起訴が無理なら、中野の議会出席を停止させよ」と国務大臣に命じたが、これも「憲法上の立法府の独立を侵害しかねないのでできません」と反論された。結局、中野は10月25日になって釈放されるが、帰宅2日後の10月27日、中野正剛は自宅で割腹自殺した。

自決の理由は不明で、一説には、東條から「息子を激戦地に送る」と脅されたらしいとも。中野正剛ほどの気骨のある人物でも、「わが子可愛いさ」には負けたのだった。

私の母方の従妹が、中野正剛の弟「中野秀人」に嫁いでいる。そのせいか、母は「東條嫌い」で、東條の孫娘「東條由布子」が、「東條秀樹擁護」の喧伝活動を起こしたことにも反発している。

 


「松岡正剛」と「中野正剛」

2020-03-11 22:23:21 | 虚無僧日記

松岡正剛の「千夜千冊」というブログがあります。あらゆるジャンルの本を取り上げ、その書評を書いてます。
その515話(200/7/8)。

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日本中にいる「正剛君」の大半はおそらく「中野正剛」から採ったのではないかとおもう。

ぼくの場合は、父が「他人に殺されるくらいの気概の持ち主になれ」という乱暴な理由で「中野正剛」の名を選んだ。「中野正剛」は暗殺されたのではなく自害したのだが、そのへんのことはどうでもよかったのだろう。

ぼくはこの「正剛」という名前が好きにはなれなかった。どうも堅すぎる。それに「松岡正剛」の中に、「岡」の字が二つも入っている。

父が正剛にこだわったのは、ぼくが 昭和19年の1月という戦争の渦中で生まれたことが決定的な背景になっていた。
前年、中野正剛は東条英機との対立が激化していて、ぼくが生まれる3カ月前には憲兵隊によって拷問をうけたうえ、自宅に帰ってきて自決した。2日後の青山葬儀場には 2万の会葬者が駆けつけた。そのなかに父も交じっていたらしい。

とくに愛国主義者でもない一介の旦那衆であった父は、どうやら戦争反対者だったようだ。そこへ戦況悪化の昭和19年1月にぼくが生まれることになる。父は何かを託して正剛とつけたのではなかったか。

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と、松岡正剛が語っている。へぇぇぇ。でござる。

数年前、お会いした、ある詩吟の会の会長さん。「中野正剛の秘書をしていた」とのこと。こちらもへえぇぇ。
先日亡くなられた。もっと詳しく話を聞いておけばよかった。

中野正剛の弟中野秀人は、画家。兄とは正反対の芸術家タイプ。その妻が私の母の従妹でした。

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   中野正剛