ケイの読書日記

個人が書く書評

芥川龍之介「おぎん」

2013-08-29 09:26:43 | Weblog
 これも切支丹物の10ページほどの短編。芥川の短編ばかりをUPしていたので、皆さん飽きただろうから、ブログに書くのを止めようかとも思ったが、私の宗教に対する最も根源的な疑問を、すごくキレイ表現してくれた作品なので、ここに書き留めておきます。

 キリスト教が禁止になり、キリスト教徒だと知れたら死刑という江戸初期の長崎。そこに、おぎんという童女がいた。
 もとの両親は大阪から流れてきた仏教徒だったが、死んでしまい、孤児になったおぎんは、キリスト教徒の養い親に引き取られ、洗礼を受け、クリスチャンになっていた。

 平和に暮らしていたが、クリスチャンという事が発覚し、養父母とおぎんは土牢に投げ込まれ、キリスト教を捨てるように拷問される。
 それでも棄教しなかったので、彼らはとうとう火あぶりにされることになる。

 刑場の周りには、大勢の見物人がいて、火あぶりを見たくてわくわくしていた。役人は、おぎんたちに「もう一度考えろ。棄教するなら、すぐ赦してやる。」と型通りに告げる。

 すると…おぎんは「私は、教えを捨てる事にしました」と言うではないか。おぎんは怖じ気づいたのか?悪魔にたぶらかされたのか? いや、違う。おぎんは、墓の松かげに眠っている自分の実の両親の事に気が付いたのだ。実の両親は、キリスト教の教えを知らず、地獄に堕ちている。自分だけが殉教して、天国に行ったのでは、申し訳ない。私も一緒に地獄に行く。


 そう、私はいつもここで引っかかる。その宗教の教えどころか、存在を知らない人たちがいっぱいいる。その宗教の教えを知り、その上で信仰しないのだったら地獄に堕ちても仕方がないけど、存在すら知らない人が、どうして地獄に堕ちるの?知らないのに? もし、そうなら、神様って本当に不公平。
 だからこそ、そんな事態にならないように、イエズス会の宣教師たちが、地の果てまで布教活動に行ったんだろうが、人類全員に知らせるのって無理だよ。
コメント
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