1966年
ルーマニアの初代大統領チャウシェスクは、
人工を増やすために離婚や妊娠中絶を
原則的に禁止しました。
この法令は、革命によって彼が大統領の座を
失うまで続けられました。
ルーマニアと言われて思い浮かぶのは、
『吸血鬼ドラキュラ伯爵』。
体操競技でオリンピックで完ぺきな演技を行い
史上初の10点満点を獲得した
白い妖精『ナディア・コマネチ』さん。
彼女は、本当に可愛くて、綺麗で、華麗で
世界中の多くの男性を虜にしましたよね。
そして、チャウシェスク大統領かな。
1989年のルーマニア革命によって
チャウシェスク大統領が捉えられ
大統領夫妻の公開処刑(銃殺刑)のニュース映像を
観た時は衝撃でした。
第二次世界大戦後に
ソ連の圧力で社会主義国家となり、
国家NO1の人物が死去すると
NO2だったチャウシェスクが指導者の座に着き
1960年代から80年にかけての
24年間に渡りルーマニア共産党政権の頂点に
独裁的権力者として君臨します。
最初の頃は、ソ連とは距離を置き
西側諸国との交流をし
開放的な政策を取っていましたが、
経済開発のためにと西側諸国から
多額の融資を取り付けます。
しかし、
借りたお金は返さなくてはならず
この返済によって国家財政が苦しくなります。
国内では食料が配給制となり、
国民は冬の暖房用の燃料も不足し、
停電は当たり前になるなど
国民の生活は困窮していきます。
そのような中でチャウシェスクは、
首都ブカレスト市内に『国民の館』と呼ばれる
巨大な宮殿を建設し、党や国家の要職を
チャウシェスクの家族や親族30人以上が独占し、
国民には不満と怒りが渦巻いていきます。
そして、
1989年の12月にドッカーン!
ルーマニア革命が勃発し、
捕らえられたチャウシェスク夫妻は、
革命軍によって即決で死刑判決が下され、
公開処刑(銃殺刑)となりました。
物事には光と影の両面が有るのが常で
離婚や中絶を禁止を制定によって
経済的な理由から育児放棄による捨て子が増加し、
チャウシェスクの落とし子と言われる
ストリートチルドレンが街に溢れます。
しかし、1967年より3年間で
人口が40万人強増えており
その大半が成人を無事に迎えています。
それらの人達が、雇用の担い手となり
リーマンショック前年までの10年間において
隣国と比べるとGDPの伸び率は
突出して高かったようです。
独裁的権力者となると周りを信用できなくなり、
自分の地位や身を守るために
自分の周りを家族や親族で固めたくなるのでしょうし、
良かれと思ってやった政策が
失敗することもあるでしょうし、
それによって反感を持つ国民も出てくるでしょう。
国民の富を吸い上げ
贅沢な暮らしを謳歌している人物であり、
国民の苦しみの元凶だとして処断されましたが、
しっかりと国民に寄り添い、
国民の素直な声にも耳を傾けていたら
最後は違ったものになっていたかもしれません。