江戸時代前期の元禄年間(1688年~1704年)に
心中が大流行したため幕府は心中者の葬式を禁止し、
心中の際に、どちらか一方が生き残った場合は、
下手人として処刑される等の罰則を定めました。
このような考え方は、日本の江戸時代に限らず、
中世イギリスでも自殺は重罪に値し、
死体に対して侮辱刑が行われ、
自殺未遂者も罪に問われていたようです。
元禄年間では、自殺で死んだ者の財産は没収され
馬に死体を繋いで市中を引きずりまわされたり
杭を突き刺して晒しものにされ、
お墓には入れてもらなかったようです。
江戸時代の元禄は、元号の一つで元禄期には、
貨幣経済が浸透し経済活動の活発化によって
町人が豊かな経済力をつけてきた時代で、
京都や大阪等の上方を中心に絵画等の芸術作品、
文芸や学問と様々な分野で新しい文化が花開きました。
『奥の細道』の松尾芭蕉、
『浮世絵』の菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ)等々も
この元禄期に生み出されたものです。
そして、近松門左衛門の人形浄瑠璃で
大流行した『曽根崎心中』の影響が
多分にあったのだと思うのですが
来世で二人の愛が結ばれることを誓った
心中事件が多発。
『曽根崎心中』は、
大阪堂島新地天満屋の女郎『はつ』21歳と
内本町醤油商の平野屋の手代の『徳兵衛』25歳が
曽根崎村の露天神の森で心中をした
実際の事件を題材にした人形劇。
これを重く見た江戸幕府は、
享保8年(1723年)より『曽根崎心中』の
上演、脚本の執筆や発行を禁止すると共に
心中者の一方が生存した場合には、極刑を申し渡し、
双方生存の場合は、晒し者にした後に市民権を奪いました。
また心中死した遺体は親族に下げ渡さず
一切の葬儀を禁ずる等の厳しい処置を行いましたが
庶民の心中者を減らす明かな効果はなかったようです。
結婚は、親兄弟や友人等に祝福されてが
一番良いのは今も昔も違いありませんが
昔は、今の時代よりも親の許しが有るか無いかは
遥かに重要だったのだと思いますし、
あの頃は、命懸けで信仰を貫いたり、
信じる宗派のために命を懸けて戦に参加したりと
今よりも純粋と言うのか
宗派の教えを強く信じ込んでいた人達も
多かったと思われるので生まれ変われると
本気で信じていたのかも知れません。
しかし、ああいう教えは、
今を一生懸命に生き抜くことの大切さを教えるもので
現世が駄目だったらさっさと来世に向かおうなんていう
教えじゃないはずなんですよね。
なので生兵法は大怪我の元と言うように
宗派の教えの一部分のみを
自分なりに良いように解釈したことで
現世では無理でも来世なら
二人の愛が結ばれる可能性があるなんて
大きな間違いをしてしまったのだと思うのです。
なにもかもに満足して完璧な幸せって
そんなものはあるかもしれないし、
手に入れることも出来るのかも知れないけれど、
大抵は、そんな大きな世界に固執せずに
小さな世界で手に入れるものじゃないかと
思ったりしています。
その二人の愛が何よりも大切だったのなら
あれもこれも欲しがることを止めて
親が悲しむ世界、親が怒る世界を切り離せば、
残りの自分達の世界で
幸せを手に入れることが出来るだろうし、
全ての人に愛されたい、認められたい、求められたい、
羨むような生活をしたい、称賛を受けたい、
と言う気持ちも、小さな世界観を持てば
もっと生きるのが楽になると思うんですよね。
絶対に必要と思っていることが
実は、ただ欲しがっているものでしかなかったりします。