私達は、建仁寺を後にして
次の目的地、豊国神社・方広寺に向かいます。
建仁寺から豊国神社まで少し距離はありますが、
タクシーやバスを利用する程の距離でもないので
徒歩で向かうことに。
えっちらおっちらと20分程度歩いて到着。
京都 豊国神社
豊国神社と方広寺は、
巨石がお城の石垣のように積まれた土台の上にありました。
京都 豊国神社2
京都 豊国神社3 唐門「国宝」
この国宝に指定されている豊国神社の唐門は、
元は南禅寺の塔頭 金地院にあったもので
豊国神社の再建にあたって移築されたようです。
京都 豊国神社4
豊国神社に隣接すると言うよりも一緒になっている
一番の訪問目的の方広寺へと向かいます。
京都 方広寺 鐘楼(しょうろう)と梵鐘(ぼんしょう)
京都 方広寺 梵鐘と鐘楼の天井画
京都 方広寺 梵鐘と鐘楼の天井画2
梵鐘に刻まれている「国家安康」「君臣豊樂」の文字
感動の瞬間!
というよりも不思議な感覚の方が近いような気もします。
あの大きな大きな歴史的な出来事である
大阪冬の陣へと繋がった梵鐘に刻まれた文字は、
小さな文字で刻まれていました。
秀吉が東大寺の大仏よりも
大きな木造の大仏を造り安置したのが方広寺の創建で、
その時に造られた大仏は完成の翌年に
慶長伏見地震によって倒壊し、
秀吉は、「自らの身をも守れないのか」と
大仏に対し激怒。
秀吉は、大仏が倒壊したことが
よほど腹に据えかねたのか、頭を抱えたのか、
神のお告げと称して、権力をふるい
善行寺如来を本尊に迎えることを計画し、
慶長2年に大仏殿に遷座達成。
しかし、この翌年に病に侵され床に臥せる。
「善行寺如来の祟りかもな。」と、
同年の8月17日に信濃の善行寺へ戻されたが、
次の日の8月18日に秀吉は没する。
お父さん想いの息子だったんでしょう。
慶長4年に
秀吉の息子、秀頼は大仏(銅製)の復興に着手したが、
流し込んだ銅が漏れ出したことによる火災で
大仏と大仏殿が完全焼失。
慶長13年に大仏と大仏殿の再建が始まり、
慶長15年6月に地鎮祭、8月に立柱式が実施され
慶長17年には大仏に金箔を押すところまで完成。
慶長19年には梵鐘が完成し、家康の承認を得て
後は開眼供養の日を待つばかりとなったところで、
家康から梵鐘に刻まれた文字は何事かと言われて、
有名な方広寺鐘銘事件が勃発からの
豊臣家滅亡を招いた大阪の冬、夏の陣。
倒れて(不運)、焼けて(過失)、邪魔(不当な横やり)と、
失敗原因の大スターそろい踏みで、
一連の流れを見ると、方広寺の大仏計画は、
徹底的に上手く行っていませんよね。
このような憂き目にあいたくないものです。
豊国神社・方広寺を後にして
次の目的地へと向かいます。
家康の名前を2つに割ったでしたっけ?
さすが古都京都ですね!
教科書にも出てくる方広寺鍾銘事件の鐘を実際に見た時は、400年前と今が直接繋がったかのような不思議な感覚になりました。
ロマンチックですね!
もしもタイムマシンが存在して
一回だけ大正時代以前の時代に戻れるとしたら
何時代の何処の場所に行きたいですか?
確か関東大地震が起き、アインシュタインが来日し、カレーライスとトンカツが生まれた年かな。
あの頃の時代の流れは、日本が明治に大きな変革をし近代化の種を撒き、大正時代に芽が出始め、昭和には大きな木と育ったと言うような流れかと思っています。
ただそれらが武士の時代が終わったことによるものなのかどうかは分かりませんね。江戸時代も結構な学問が発展、浸透していたので外国と交流することで発展はしていたかもです。
個人では身分制度の枠が撤廃されて、本人次第で何者にでもなれる時代が到来したと思いますが、同時に何者かに成らなければならないという新たな苦しみも生まれたようにも思います。
何者かになる人は、少々の枠があろうとぶち破っていますからね。