今週に入ってから、集団登校の児童の列にクルマが突っ込むと言う事件が、起きている。
今日に限って言えば、2件同じような時間帯にあったようだ。
その前には、無免許運転の少年が居眠り運転をしていて、事故を起こしている。
無免許運転で居眠り運転をしていた少年については、あれこれ言う必要も無いと思う。
そして今日起きた事件は、いずれも20代前半の若者が起こした事故で、その原因もほぼ同じ。
「ボーっとしていた」というもの。
実はこの「ボーっとしていた」ということに、ある種に気味悪さを感じるのだ。
と言うのも、最近街中で「ぼんやりしている」と言う、感じを受ける若者が多いからだ。
印象的には「ぼんやりと空(くう)を見ている」という表情、と言った方がわかりやすいかも知れない。
決して「何かを考えている」のでは無く、だからと言って虚脱感と言う雰囲気でも無く、「頭も心も空っぽ」と言う雰囲気。
だからと言って「無表情」というのでも無い。
「覇気が無い」と言えばその様な感じもするのだが、一番当てはまる印象は「頭も心も空っぽ」なのだ。
人は多くの場合、相手の表情などを見ながらコミュニケーションを図ろうとする。
「喜怒哀楽」の様なハッキリした表情でなくても、全体の印象や雰囲気からある種の空気感を得ようとし、言葉や態度に示すことで、半ば無意識に相手の気持ちや考えを引きだそうとしている、と考えている。
街中で佇んでいる「頭も心も空っぽ」の若者に声をかける、と言うことは決してしないが、それでもその様な若者を見ると気持ち悪さを感じてしまい、避けて通る私がいるのも確かだ。
そして今回の様な事故が立て続けに起こり、その加害者が「ボーっとしていた」というコトを話しているコトを考えると、この「ボーっと」しているコトが普通になりつつあるのでは?と言う気もしてくるのだ。
それは「思考停止時間」というコトかも知れない。
もしそれが「思考停止時間」というコトであれば、若年層を中心に「思考停止時間」が多くなりつつあるのでは?と言うコトも考えられる。
その様に考えると、今の日本は「考えるコトをさせない社会」というコトにもなる。
「考える」と言っても、難しい問題を考えると言うコトでは無く、コミュニケーションを取るために「相手のコトを考える」という、「注意力」と言う部分のコトだ。
言い換えれば、「コミュニケーション力不全の社会」になりつつあるのかも知れない。
一時期「KY(その場の空気感が読めない)」と言う言葉が流行したが、それは「自分のコト(を察してよ)」という部分だけで、「周囲のコト」ではなかったのでは。
周囲に対する注意力が無くなれば、社会の中での自分の存在はぼんやりとした、不安定な存在となってしまうのではないだろうか?
何となくだが、そんなコトを考えた事件だ。
今日に限って言えば、2件同じような時間帯にあったようだ。
その前には、無免許運転の少年が居眠り運転をしていて、事故を起こしている。
無免許運転で居眠り運転をしていた少年については、あれこれ言う必要も無いと思う。
そして今日起きた事件は、いずれも20代前半の若者が起こした事故で、その原因もほぼ同じ。
「ボーっとしていた」というもの。
実はこの「ボーっとしていた」ということに、ある種に気味悪さを感じるのだ。
と言うのも、最近街中で「ぼんやりしている」と言う、感じを受ける若者が多いからだ。
印象的には「ぼんやりと空(くう)を見ている」という表情、と言った方がわかりやすいかも知れない。
決して「何かを考えている」のでは無く、だからと言って虚脱感と言う雰囲気でも無く、「頭も心も空っぽ」と言う雰囲気。
だからと言って「無表情」というのでも無い。
「覇気が無い」と言えばその様な感じもするのだが、一番当てはまる印象は「頭も心も空っぽ」なのだ。
人は多くの場合、相手の表情などを見ながらコミュニケーションを図ろうとする。
「喜怒哀楽」の様なハッキリした表情でなくても、全体の印象や雰囲気からある種の空気感を得ようとし、言葉や態度に示すことで、半ば無意識に相手の気持ちや考えを引きだそうとしている、と考えている。
街中で佇んでいる「頭も心も空っぽ」の若者に声をかける、と言うことは決してしないが、それでもその様な若者を見ると気持ち悪さを感じてしまい、避けて通る私がいるのも確かだ。
そして今回の様な事故が立て続けに起こり、その加害者が「ボーっとしていた」というコトを話しているコトを考えると、この「ボーっと」しているコトが普通になりつつあるのでは?と言う気もしてくるのだ。
それは「思考停止時間」というコトかも知れない。
もしそれが「思考停止時間」というコトであれば、若年層を中心に「思考停止時間」が多くなりつつあるのでは?と言うコトも考えられる。
その様に考えると、今の日本は「考えるコトをさせない社会」というコトにもなる。
「考える」と言っても、難しい問題を考えると言うコトでは無く、コミュニケーションを取るために「相手のコトを考える」という、「注意力」と言う部分のコトだ。
言い換えれば、「コミュニケーション力不全の社会」になりつつあるのかも知れない。
一時期「KY(その場の空気感が読めない)」と言う言葉が流行したが、それは「自分のコト(を察してよ)」という部分だけで、「周囲のコト」ではなかったのでは。
周囲に対する注意力が無くなれば、社会の中での自分の存在はぼんやりとした、不安定な存在となってしまうのではないだろうか?
何となくだが、そんなコトを考えた事件だ。