今月末に予定している、父の眼の手術の術前検査の為に、帰省していた。
「眼の手術」と言っても、「下眼瞼内反症」という加齢に伴う逆まつげの手術で、決して大袈裟なものではないのだが90歳を超えるとなると、医師の説明等の理解が十分とは言えず、付き添うこととなった。
これが「老親介護」の一つなのだろう。
その実家から帰ってくる道すがら、高速バスの車窓から見える光景をボンヤリと眺め「自然と放置」の違い、というものを考えていた。
9月上旬に帰省する、ということが今までなかったので、気づかなかったのだが8月のお盆の頃とは違い、山々の風景もやや寂しいものへと変わっていた。
緑濃く生い茂る木々が、徐々に枯れ始めると見えてくるのは、朽ち果てた老木や勢いがなくなってきた竹林の姿だ。
特に竹林等は、山林の問題として言われている「竹害」と言われるように、今まで広葉樹等が生い茂っていた場所を侵食し、竹林になっている。
その竹の勢いがなくなったことで、より一層山々の木々が減っているということを目の当たりにすることとなったのだ。
「耕作放棄地」ならぬ「放置山林」という言葉をイメージさせるような山々の間をぬうようにして、自動車専用道路が整備されているのが、日本の一つの姿なのだ。
そのような光景を車窓から眺めていると「自然」というものは、「手入れを何もしない」のではなく、適切な人が手入れをすることで維持されるのでは?という気がしてきたのだ。
それは、林業における間伐であったりするのだが、これまで言われていたような「人が作った雑木林」とは違う、「山の手入れ」をしないことが「自然」にかえすことではなく、山々に生息する様々な生き物や植物がのびのびと育つように「手入れをする」ことが「自然」にかえすということなのでは?ということなのだ。
人の手が入らず「放置」されることで、「竹害」と言われていた竹林は、蔓系の植物に巻き付かれ、いつの間にか枯れ果てていた。
その後、再び広葉樹が広がる森となるのか?というと、蔓系の植物が秋から冬に向かうことで枯れは果て、森という姿にはならない。
もしかしたら、50年100年という時間を経る事で、広葉樹が広がる森となるのかもしれないのだが、今日見た風景からは「荒れ果てた山」というイメージしかない。
当然荒れ果てた山となれば、そこに住んでいるはずの猪や鹿等は、人の生活する場所へと餌を求めてやってくる。
人が栽培をしている野菜等の味を覚えた猪や鹿は、当たり前のように人の生活圏を脅かす「獣害」となる。
何となくだが、そんなサイクルが見えたような気がしたのだ。
確かに、人の手が入らずに自然のサイクルが生まれて、その中で人が生活をするようになった。
だが、いったん人の手が入った場所は、人が手を入れ続けなくてはその生態系のようなものが、守られていかないのでは?ということなのだ。
植物が自生しているのであれば、その自生地域に人は踏み込まないようにする。
ただただ、遠くから自生する植物やそれらの植物を目当てにやってくる生き物を見守る、ということが重要であり「見守る」という、手入れをするという感覚が重要なのだろう。
高速バスの車窓を眺め、「自然と放置」の違いについて考えさせられる光景を数多く見る事になった、帰省だった。
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