スマホの普及により、多くの人は1日2~3時間くらいはスマホの画面を見ているのでは?という、気がしている。
勿論、2~3時間見続けているのではなく、合間合間にちょこちょこと見ている時間を積み重ねた時間、ということだ。
そうなってくると、気になるのはネット上で表示される広告ではないだろうか?
通信費などはかかるにしても、多くの情報にアクセスし・情報を得るサービスに関しては、ほぼ有料ではない。
多くの人たちが利用している情報サービスは、意識をしている・していないに問わず、ほぼ無料で情報を得ている、ということになるはずだ。
とすると、それらの情報を提供している側は、何で収益を上げているのか?といえば、アクセス件数に応じて企業の広告が表示されることによって、収益を上げているということになる。
この仕組み自体は、民放のテレビ番組などと基本的には同じだと考えてよいだろう。
実際、アクセス件数が多くある程度の長さのあるYouTube番組などは、途中で広告が入るようになっている。
いわばYouTube版のCMというわけだ。
Yahoo!などで取り上げられている、トピックスなどにも同様の広告表示がされているのだが、その広告表現がとても直接的な気がするときがある。
それも、直接的な表現広告が徐々に増え始めているような、印象を持っている。
1960年代前半、テレビが一般家庭に普及し始めた頃、短い時間のCM枠の中で「商品名を連呼する」というCMが、流行したことがあった。
あまりにも商品名を連呼するので、テレビ番組を見ている人たちからは「うるさい!」と不評を買い、次第にそのようなCMは無くなっていった。
当時は映像や録音技術などは、今と比べモノにならないほどアナクロな時代で、表現方法も限られていたということがあったとは思う。
しかし、広告の受け手となる生活者から「うるさい!」とそっぽを向かれては、CMを流す意味はない。
意味がないどころか、企業イメージ・商品イメージを悪くさせるだけだ。
勿論、1960年代前半でも優れたテレビCMはあった。
植木等さんが出演されていた「アイディアル洋傘骨」のCMなどは、わずか10秒ほどだがインパクトがありながらも受け手に不快感を与えず、強い印象を与えることに成功している。
同じようなCMといえば、1960年代後半の大橋巨泉さんが出演されていた「パイロット万年筆・エリート」だろうか?
大橋巨泉さんがその場のアドリブで言った言葉が、その年の流行語になるほどだったように子供ながら覚えている。
植木等さんの「アイディアル洋傘骨」は、商品名を1回しか言わないのに植木さんの当時の人気と合わさり、強い印象を残すことに成功している。
大橋巨泉さんの「パイロット万年筆・エリート」は、意味をなさない言葉をリズムよくいうことで、どこかしらユーモアを感じさせながらも「何か意味があるのかな?」という、一瞬の戸惑いを受け手に与えることに成功している。
どちらも、どこかしら「クスっと笑える」CMなのだ。
そのような受け手にやさしく微笑みかけるような広告が、今のネット広告には感じられない。
せっかくビジュアルという表現方法があるにも拘わらず、そのビジュアルが直接的過ぎて、不快に感じる人がいるのでは?と、感じられるほどなのだ。
何事においても、何かを作り出すためにはそれなりの費用が必要だ。
低予算の中、良い広告を作るという努力をしている企業もあるはずなのだが、最近目立つのは「受け手となる人は、どんな気持ちでこの広告を見ているのかな?」と、疑問に感じる広告が増えている、ということなのだ。
「目立つことが広告である」かのような広告、といっても良いのかもしれない。
ネットメディアそのものは、新しいメディアだから仕方がないのではない。
受け手となる人たちは、常にいてそれは時代の変化によって変わるわけではない。
とすると、ネット広告もまた「広告とは何か?」とい、う本来あるべき姿に立ち返る必要があるのでは?と、感じるのだ。
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