白洲正子さんは「近江山河抄」の“近江路”の中で、近江の石造美術の良さについて“美しい石材・帰化人の技術・民衆の自然信仰”を取り上げて書かれています。
また、湖南市の「岩根」を通られた際には“岩石の多いところ”と触れておられ、実際に岩根には「車谷不動磨崖仏」や岩根山を山号とする「岩根山不動明王摩崖石仏」などの摩崖仏があります。
滋賀県南部に「岩根」であるとか「石山」「大石」など石にまつわる地名が多いのは、それだけ石の山が多かったということになるのでしょう。
その石の山に原始信仰や修験道に渡来人の文化が混在していって石の文化が生まれていったといえます。
三重県の伊賀市にも「岩根」と名の付く土地があり、そこには「岩根の摩崖仏」があると知り、興味深く「岩根」へと向かいました。
住所は分かっていたので現地付近へ到着は出来たものの、どうしても場所が分からない。
同じ地名の場所を行ったり来たりするが、見つけられず住所付近にあった小学校で聞いてみる。
学校職員の方らしき方に聞くと、“摩崖仏は学校の敷地内にあります。車を学校の駐車場に停めて入ってください。”とのことでした。
思わず“学校内に入ってもいいんですか?”と聞いてしまいましたが、了解をもらわずに構内に入って不審者扱いされても困ります。
“どうぞどうぞ!”とおっしゃって頂けたのはありがたい。
おまけに森の入口まで案内して頂き、ありがたく森へと入っていく。
森の横には低学年用のプールなどもあって和みつつ森へ入るが、途中から道が荒れてくる。
“おかしいな~もう着いてもいい頃なのに...”と思いながら竹藪を進むと、竹藪漕ぎ状態となってきて、その先は行き止まってしまう。
さすがにこれはおかしいと思い、来た道を戻ることとなる。
入口から数十m入ったところまで戻ると、竹藪の向こうに摩崖仏があった。
巨石は幅8m・奥行7m・高さ3mの花崗岩で、上部は苔むしていて何とも雰囲気が良い。
摩崖仏は右から「釈迦如来」「阿弥陀如来」「地蔵菩薩」が肉彫りで彫られ、一番左には「五輪塔」が浮き彫りで彫られている。
地蔵菩薩の横にある銘には1306年を示す刻銘があるといいますから、鎌倉後期に彫られた摩崖仏になります。
鎌倉期に彫られた割に実に状態がよく、風化の程度も程よいと言ったら失礼にあたるだろうか。
実際に著しい劣化はなく、仏の表情や光背に彫られているものまでしっかり読み取れる。
伊賀市教育委員会の説明書きには“釈迦は過去仏、阿弥陀は未来仏で、過去と未来の関係で一組として考えられている。”
“阿弥陀は極楽の教主、地蔵は地獄からの救済が主な役割で、表裏一体の関係にある。”とある。
三尊の左側には錫杖と宝珠を持った「地蔵菩薩立像」が立ち、左右にある蓮華をさした宝瓶の下には合掌した座像が4躰並ぶ。
鎌倉期の摩崖仏だというが風化の跡はあまり見られず、表情の穏やかさまでもがしっかり読み取れる。
「阿弥陀如来立像」も左右に蓮華をさした宝瓶が彫られ、その表情は笑いかけているような優しい表情に見える。
摩崖仏の正面の方向が小学校の校舎になりますから、子供たちを優しく見守る三尊という印象が強く湧いてくる。
一番右には「釈迦如来立像」となり、お釈迦さんも実に穏やかで優しい表情をされている。
世は鎌倉時代末期に近づき、徳治(1306年)の元号は天災の凶事を断ち切るために行われた改元だという。
そんな時代にありながらも穏やかなる救済を叶えるために彫られたのでしょう。
三尊像は幅2m高さ1.5mほどの枠の中に納められており、五輪塔は別の枠に浮き彫りされている。
五輪塔は死者が空・風・火・水・地の五大へ帰っていったことを象徴し、死者への供養の意味が込められているという。
現在の「岩根の摩崖仏(花の木三尊磨崖仏)」は小学校の校舎横の森の中にひっそりと祀られていますが、かつてこの摩崖仏の前には大和と伊賀を結ぶ街道があったといいます。
街道が通っていた頃、街道を行く旅人たちが安堵し、心を和ませていた岩根の摩崖仏は、今は静かに小学生たちを見守っておられます。
また、湖南市の「岩根」を通られた際には“岩石の多いところ”と触れておられ、実際に岩根には「車谷不動磨崖仏」や岩根山を山号とする「岩根山不動明王摩崖石仏」などの摩崖仏があります。
滋賀県南部に「岩根」であるとか「石山」「大石」など石にまつわる地名が多いのは、それだけ石の山が多かったということになるのでしょう。
その石の山に原始信仰や修験道に渡来人の文化が混在していって石の文化が生まれていったといえます。
三重県の伊賀市にも「岩根」と名の付く土地があり、そこには「岩根の摩崖仏」があると知り、興味深く「岩根」へと向かいました。
住所は分かっていたので現地付近へ到着は出来たものの、どうしても場所が分からない。
同じ地名の場所を行ったり来たりするが、見つけられず住所付近にあった小学校で聞いてみる。
学校職員の方らしき方に聞くと、“摩崖仏は学校の敷地内にあります。車を学校の駐車場に停めて入ってください。”とのことでした。
思わず“学校内に入ってもいいんですか?”と聞いてしまいましたが、了解をもらわずに構内に入って不審者扱いされても困ります。
“どうぞどうぞ!”とおっしゃって頂けたのはありがたい。
おまけに森の入口まで案内して頂き、ありがたく森へと入っていく。
森の横には低学年用のプールなどもあって和みつつ森へ入るが、途中から道が荒れてくる。
“おかしいな~もう着いてもいい頃なのに...”と思いながら竹藪を進むと、竹藪漕ぎ状態となってきて、その先は行き止まってしまう。
さすがにこれはおかしいと思い、来た道を戻ることとなる。
入口から数十m入ったところまで戻ると、竹藪の向こうに摩崖仏があった。
巨石は幅8m・奥行7m・高さ3mの花崗岩で、上部は苔むしていて何とも雰囲気が良い。
摩崖仏は右から「釈迦如来」「阿弥陀如来」「地蔵菩薩」が肉彫りで彫られ、一番左には「五輪塔」が浮き彫りで彫られている。
地蔵菩薩の横にある銘には1306年を示す刻銘があるといいますから、鎌倉後期に彫られた摩崖仏になります。
鎌倉期に彫られた割に実に状態がよく、風化の程度も程よいと言ったら失礼にあたるだろうか。
実際に著しい劣化はなく、仏の表情や光背に彫られているものまでしっかり読み取れる。
伊賀市教育委員会の説明書きには“釈迦は過去仏、阿弥陀は未来仏で、過去と未来の関係で一組として考えられている。”
“阿弥陀は極楽の教主、地蔵は地獄からの救済が主な役割で、表裏一体の関係にある。”とある。
三尊の左側には錫杖と宝珠を持った「地蔵菩薩立像」が立ち、左右にある蓮華をさした宝瓶の下には合掌した座像が4躰並ぶ。
鎌倉期の摩崖仏だというが風化の跡はあまり見られず、表情の穏やかさまでもがしっかり読み取れる。
「阿弥陀如来立像」も左右に蓮華をさした宝瓶が彫られ、その表情は笑いかけているような優しい表情に見える。
摩崖仏の正面の方向が小学校の校舎になりますから、子供たちを優しく見守る三尊という印象が強く湧いてくる。
一番右には「釈迦如来立像」となり、お釈迦さんも実に穏やかで優しい表情をされている。
世は鎌倉時代末期に近づき、徳治(1306年)の元号は天災の凶事を断ち切るために行われた改元だという。
そんな時代にありながらも穏やかなる救済を叶えるために彫られたのでしょう。
三尊像は幅2m高さ1.5mほどの枠の中に納められており、五輪塔は別の枠に浮き彫りされている。
五輪塔は死者が空・風・火・水・地の五大へ帰っていったことを象徴し、死者への供養の意味が込められているという。
現在の「岩根の摩崖仏(花の木三尊磨崖仏)」は小学校の校舎横の森の中にひっそりと祀られていますが、かつてこの摩崖仏の前には大和と伊賀を結ぶ街道があったといいます。
街道が通っていた頃、街道を行く旅人たちが安堵し、心を和ませていた岩根の摩崖仏は、今は静かに小学生たちを見守っておられます。
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