一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

「上手9割」を覆せ

2010-07-14 00:24:08 | 将棋雑考
LPSA金曜サロンの会員同士の対局は、段級位に基づく手合い割制である。といっても棋力に即して機械的に決まるわけではなく、植山悦行手合い係のときは、植山手合い係と下手(したて)が相談し、手合いを決めていた。このとき、上手(うわて)の意見は一切無視される。当然、上手につらい手合いとなる。
では下手が有利かといえば左にあらず。たいてい、上手が勝った。正確に言うと、下手が勝ち切れなかった。持将棋を別にすれば将棋に引き分けはないから、下手が勝ち切れないということは、負けを意味する。どんなに上手を追いつめても、詰め損ねたり、トン死を食らったりして、最後は下手が負けた。
そんな状況をつぶさに見ていた植山手合い係が、ある日言ったものだ。
「駒落ちの勝率は、上手9割」
この数字はオーバーだが、そう言われてみれば、私は駒落ちの下手が勝った将棋を、ほとんど見たことがない。上手にベテランが多いこともあるが、どう見ても劣勢なのに、手練手管、あらゆる手を使って、下手をごまかしにかかる。そのうち下手は時間もなくなり暴発、上手がうっちゃるのだ。だからたまに下手が勝つと、金星のごとく称賛される。
ちなみに前回の金曜リーグで、私も駒落ちの上手を持って何局か指したが、全勝だった。中には99%負け将棋もあったが、最終的には下手をごまかす形となった。
いちいち調べるのが面倒だから、おぼろげな記憶をもとに書くが、むかしどこかの国の教授が、学生を刑務所の看守役と囚人役にしたて、ある実験をしたらしい。
ところが何日か経つと、看守役の学生はオフの時間になっても態度が大きいまま。囚人役の学生もおろおろと卑屈になってしまったため、実験は中止せざるを得なくなったという。
どうも将棋にも、そうした面があるのではないか。
「では失礼して、角を引かせていただきます」
などと恭しく言い、駒箱に角を入れた時点で、看守と囚人…じゃなかった、教える側と教えられる側の役割が、無意識のうちにできてしまうのだ。
駒を落としたほうは負けてもともとだし、こちらのほうが棋力は上、という優越感があるから、それこそプロ棋士になった気分で指す。一方、駒を落とされる下手は、これだけハンデをもらったんだから勝たねばならぬ、と余計なプレッシャーを自分にかけ、委縮してしまう。これでは下手が勝てる将棋も勝てない。
金曜サロンの連中には内緒だが、完全に手合い違いの将棋をのぞけば、私は駒落ちの上手で負ける気がしない。それは私の棋力がどうこうではなく、上に述べた理由からだ。

で、ここからが本題である。12日(月)に行われた朝日杯将棋オープン戦・野田敬三六段-里見香奈女流名人・倉敷藤花戦は、野田六段の勝ちとなった。
中盤では里見女流二冠のほうに面白い局面もあったようだが、「勝ち切れなかった」。
ここに私は、駒落ちではないが、上手と下手の構図を見る。むろん里見女流二冠も、指す以上は勝つ気で指している。しかし心のどこかに、相手が男性プロ棋士だから実力的に…という気持ちはなかったか。それが少しでもあったとしたら、勝負においてマイナスにしかならない。
以前矢内理絵子女流四段が、男性棋士との公式戦対局を、「ボーナスゲーム」と表現した。意味がよく分からぬが、男性棋士に指していただけるだけでありがたい、対局料をいただけるだけでありがたい、ということだろうか。
一方男性棋士はというと、「どうせ最後は私が勝つ」と思って指している(と想像する)。これでは指す前から、勝敗は決まっているようなものだ。
女流棋士の男性棋士に対する勝率は、王座戦の観戦記で先埼学八段が書いていたが、「約2割」だそうである。この数字、かなり女流棋士が健闘していると思う。私の勝率イメージは、もう少し低かった。
これからも男性棋士と女流棋士との対局は続くが、とにかく女流棋士は、男性棋士にヘンな劣等感を持たないことである。
そして17日(土)。この日はマイナビ女子オープンの一斉予選対局がある。対戦カードの中には、勝敗が見えているものもある。しかし「下手(したて)」と思われている側は、絶対に勝負を投げてはいけない。
相手だって人間だ。悪手を指すときもある。最後は私が勝つ、くらいの図太い神経を持って、対局に臨んでもらいたい。
コメント (7)
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