島原武家屋敷の一軒に入る。敷地内にある説明板を読むと、中央に流れている清水は、旧藩時代の生活用水とあった。
別の屋敷跡には、「雑草を食べてもらうため」に羊が放し飼いされており、いま流行のエコを実践していた。
時刻は午後2時近くである。昼の時点では島原鉄道廃線跡の一部でも散策したいと考えていたが、島原城でこんなに時間を費やしてはもうダメである。今回はここで観光を終わらせるしかない。
駅には戻らず、アーケード街へ出てみる。平日の昼間だがシャッターを閉めている店が多い。街角の案内表示に沿って歩いていたら、水路で鯉が泳いでいた。島原は日本の名水100選に入っている名所だが、それを裏付ける光景である。
民家を開放したような、休み処がある。入ってみると、中も純和風だ。規模はこちらのほうがだいぶ大きいが、ウチの家と同じ雰囲気がする。
ここでボーッとしていたいが、「島原遊湯券」の特典である温泉にも入らなければならない。島原駅のひとつ先、島鉄本社前へ歩いていると、右手に島鉄バスターミナルが見えた。島原駅を15時55分に発車する加津佐海水浴場前行のバスは、その数分後にここを通る。次はここから乗ることにする。
と、「ホテル南風楼」の看板が目に入った。ここは入浴指定地のひとつである。案内に従い島鉄本社駅を通り越し、公園を抜けると、ホテルが見えてきた。フロントで待っていると、受付嬢が「温泉ですか」といった。
いかにも言いなれているふうで、根拠はないが、ここの温泉は期待できると思った。
脱衣所に入り、全裸になる。またもやキン○マが縮こまっている。ナニも短くなっている。これでは使い物にならない。浴室のドアを横に滑らせると、広い浴槽と露天風呂、それに有明海が見えた。これは凄い。かけ湯をして、さっそく露天風呂に浸かる。
ウアーッ、極楽極楽。一般市民が忙しく働いている平日の昼間に入る温泉は、究極の贅沢である。
平日に将棋を指しに行くのはフリーターのようでどうもよくないが、旅に出るとそうした負い目は雲散霧消する。仕事がある中、寸暇を割いて骨休めに来ました、と自己暗示をかけるからである。
いまごろ将棋仲間は、中井広恵女流六段に指導を請うているはずだが、やはりうらやましいとは思わない。ナニのほうも、無事回復してきた。干ししいたけを水で戻した、という感じか。それにしてもこの露天風呂は最高のロケーションだ。ここに船戸陽子女流二段や中倉宏美女流二段を…。
いい気分なって、島鉄バスターミナルへ向かう。時刻は3時47分。島鉄本社前駅に着いたので、一応時刻を確認すると、15時49分の下り急行列車があった。ちょうどいいので、これに乗ることにする。
待合室の壁に「11月2日に島原外港の駅舎が不審火により全焼しました」との貼り紙がある。これは最近の話ではないか。
私が住んでいる最寄り駅の近くにあった五重塔が、心中の舞台に利用され全焼した、ということは以前書いたが、すべてのものを灰にする放火は、憎むべき犯罪のひとつである。
定刻を2分遅れて発車した列車は、やはり定刻を2分遅れて、現在の終着駅である島原外港へ到着した。レールを見ると、その先のレールは剥がされることなく、まっすぐに伸びている。島原外港-加津佐間が廃止されたのはおととし平成20年だから、まだ遺構が残っているのだろうか。
下りホームを降りると、仮待合室が建てられていた。ここが放火の現場らしい。
そのままバス乗り場へ向かう。そうか、と思う。たしか島原外港から深江までだったか、この区間は廃線後もトロッコ列車を走らせていたはずだ。雲仙・普賢岳の土石流でレールがやられ、同地点を高架にして完全復旧したのが平成9年である。莫大な費用をかけた立派な高架橋を、たかだか10年の使用で打ち捨てるわけがない。
次のバスは16時07分発である。これが15時55分に島原駅前を発車したバスなのは言うまでもない。そのバスは4分遅れで到着した。
社内の右手後方に座る。国道は海岸線を走り、旧島原鉄道は内陸部を走っていた。廃線跡を観賞するにはちょうどよい席だ。
翔南高校前、というシャレたバス停に着くと、下校の男女高校生が大勢乗り込み、閑散としていた車内があっという間に満員になった。列車ならもう少し余裕があったはずで、鉄道からバス転換への、負の光景がここにある。もっともこのくらいの混雑は、東京では混雑のうちに入らない。
安徳バス停のあたりで、右手に高架橋が見えた。なんとなく、まだ現役に見える。いまもトロッコ列車の走行に利用されいると信じて、私は視線を前に戻した。
高校生は徐々に下車するが、今度は別の高校前に停まり、新たな高校生が乗ってきた。地方のバス通学は、通学時間もいっしょなのだ。私の高校時代、クラスの女子と電車に乗った経験は、1度しかなく、虚しい青春だった。
ところで肝心の廃線跡だが、叢に隠れ、ほとんど判別できない。時折ガーター橋が顔を見せ、そこが廃線跡だと教えてくれるが、あとはサッパリだ。外は小雨が降っているうえに空も暗くなってきて、これ以上の廃線跡観賞は無理だ。
午後5時24分、バスは終点の加津佐海水浴場前に到着した。
島原鉄道のかつての終着駅は「加津佐」だから、遺構が近くにあるはず、と思って左右に目をやると、左手のすぐ後方に旧加津佐駅の駅舎が見えた。いつの間にか、線路が左側に移ったようだ。
路線が廃止されると、その遺構、とくに駅舎は放火の対象になったりするので、取り壊されるケースが多い。加津佐駅はプレハブ小屋のような造りの面白くもなんともない駅舎で、代行バスの待合室として使われているようでもないが、駅名標も外されておらず、現役時代そのままなのは嬉しかった。
しかしホーム側に回ると、路盤の線路は剥がされ、すっかり雑草が伸びている。ここに列車はもう来ない。廃線になっていることを再認識させられる、つらい光景である。
すぐに17時31分発の諫早行きのバスが来たので、乗る。これが島原半島一周の、最終ランナーである。
前にふたりの女子高生がすわって、キャッキャッ話している。訛り丸出しの会話で、微笑ましい。
「なんばしちょっとー!!」
とか言っている。さすがに本場の発音は一味違う。
「串」というバス停を通過する。「揚」というバス停を通過する。長崎に入ってから、昼のポークしょうが焼定食しか口にしていない。腹が減ってきた。
外はすっかり暗闇になっている。先ほどの女子高生は、とっくに下車している。
7時09分、バスは今朝来たときと同じ、諫早バスターミナルに到着した。
そのまま駅前の食堂に入ってちゃんぽんを食し、再び諫早駅に入る。このあとは長崎へ行き、思案橋電停近くのネットカフェで一夜を過ごすつもりである。
駅の案内表示を見ると、19時43分発の長崎行きがあり、その電車が1番線に停車している。時計を見ると7時41分である。私は慌てて切符を買い、飛び乗った。
しかし電車は発車しない。席にすわって待っていると、19時53分に発車した。どうも私が発車時刻を見間違えていたようである。
20時46分、長与回りの普通電車は、長崎駅に到着した。けっこうな時間がかかった。そこで駅で調べてみると、諫早20時10分発・長崎20時35分着の快速シーサイドライナーがあることが分かった。これに乗れば、諫早を24分遅く発車し、長崎に11分早く着いていた。
ここで時刻表を持たない旅の弊害が表れた。しかし、たまには時間にしばられない旅もいい。物事は何でもいいほうに捉えることが大切である。
(つづく)
別の屋敷跡には、「雑草を食べてもらうため」に羊が放し飼いされており、いま流行のエコを実践していた。
時刻は午後2時近くである。昼の時点では島原鉄道廃線跡の一部でも散策したいと考えていたが、島原城でこんなに時間を費やしてはもうダメである。今回はここで観光を終わらせるしかない。
駅には戻らず、アーケード街へ出てみる。平日の昼間だがシャッターを閉めている店が多い。街角の案内表示に沿って歩いていたら、水路で鯉が泳いでいた。島原は日本の名水100選に入っている名所だが、それを裏付ける光景である。
民家を開放したような、休み処がある。入ってみると、中も純和風だ。規模はこちらのほうがだいぶ大きいが、ウチの家と同じ雰囲気がする。
ここでボーッとしていたいが、「島原遊湯券」の特典である温泉にも入らなければならない。島原駅のひとつ先、島鉄本社前へ歩いていると、右手に島鉄バスターミナルが見えた。島原駅を15時55分に発車する加津佐海水浴場前行のバスは、その数分後にここを通る。次はここから乗ることにする。
と、「ホテル南風楼」の看板が目に入った。ここは入浴指定地のひとつである。案内に従い島鉄本社駅を通り越し、公園を抜けると、ホテルが見えてきた。フロントで待っていると、受付嬢が「温泉ですか」といった。
いかにも言いなれているふうで、根拠はないが、ここの温泉は期待できると思った。
脱衣所に入り、全裸になる。またもやキン○マが縮こまっている。ナニも短くなっている。これでは使い物にならない。浴室のドアを横に滑らせると、広い浴槽と露天風呂、それに有明海が見えた。これは凄い。かけ湯をして、さっそく露天風呂に浸かる。
ウアーッ、極楽極楽。一般市民が忙しく働いている平日の昼間に入る温泉は、究極の贅沢である。
平日に将棋を指しに行くのはフリーターのようでどうもよくないが、旅に出るとそうした負い目は雲散霧消する。仕事がある中、寸暇を割いて骨休めに来ました、と自己暗示をかけるからである。
いまごろ将棋仲間は、中井広恵女流六段に指導を請うているはずだが、やはりうらやましいとは思わない。ナニのほうも、無事回復してきた。干ししいたけを水で戻した、という感じか。それにしてもこの露天風呂は最高のロケーションだ。ここに船戸陽子女流二段や中倉宏美女流二段を…。
いい気分なって、島鉄バスターミナルへ向かう。時刻は3時47分。島鉄本社前駅に着いたので、一応時刻を確認すると、15時49分の下り急行列車があった。ちょうどいいので、これに乗ることにする。
待合室の壁に「11月2日に島原外港の駅舎が不審火により全焼しました」との貼り紙がある。これは最近の話ではないか。
私が住んでいる最寄り駅の近くにあった五重塔が、心中の舞台に利用され全焼した、ということは以前書いたが、すべてのものを灰にする放火は、憎むべき犯罪のひとつである。
定刻を2分遅れて発車した列車は、やはり定刻を2分遅れて、現在の終着駅である島原外港へ到着した。レールを見ると、その先のレールは剥がされることなく、まっすぐに伸びている。島原外港-加津佐間が廃止されたのはおととし平成20年だから、まだ遺構が残っているのだろうか。
下りホームを降りると、仮待合室が建てられていた。ここが放火の現場らしい。
そのままバス乗り場へ向かう。そうか、と思う。たしか島原外港から深江までだったか、この区間は廃線後もトロッコ列車を走らせていたはずだ。雲仙・普賢岳の土石流でレールがやられ、同地点を高架にして完全復旧したのが平成9年である。莫大な費用をかけた立派な高架橋を、たかだか10年の使用で打ち捨てるわけがない。
次のバスは16時07分発である。これが15時55分に島原駅前を発車したバスなのは言うまでもない。そのバスは4分遅れで到着した。
社内の右手後方に座る。国道は海岸線を走り、旧島原鉄道は内陸部を走っていた。廃線跡を観賞するにはちょうどよい席だ。
翔南高校前、というシャレたバス停に着くと、下校の男女高校生が大勢乗り込み、閑散としていた車内があっという間に満員になった。列車ならもう少し余裕があったはずで、鉄道からバス転換への、負の光景がここにある。もっともこのくらいの混雑は、東京では混雑のうちに入らない。
安徳バス停のあたりで、右手に高架橋が見えた。なんとなく、まだ現役に見える。いまもトロッコ列車の走行に利用されいると信じて、私は視線を前に戻した。
高校生は徐々に下車するが、今度は別の高校前に停まり、新たな高校生が乗ってきた。地方のバス通学は、通学時間もいっしょなのだ。私の高校時代、クラスの女子と電車に乗った経験は、1度しかなく、虚しい青春だった。
ところで肝心の廃線跡だが、叢に隠れ、ほとんど判別できない。時折ガーター橋が顔を見せ、そこが廃線跡だと教えてくれるが、あとはサッパリだ。外は小雨が降っているうえに空も暗くなってきて、これ以上の廃線跡観賞は無理だ。
午後5時24分、バスは終点の加津佐海水浴場前に到着した。
島原鉄道のかつての終着駅は「加津佐」だから、遺構が近くにあるはず、と思って左右に目をやると、左手のすぐ後方に旧加津佐駅の駅舎が見えた。いつの間にか、線路が左側に移ったようだ。
路線が廃止されると、その遺構、とくに駅舎は放火の対象になったりするので、取り壊されるケースが多い。加津佐駅はプレハブ小屋のような造りの面白くもなんともない駅舎で、代行バスの待合室として使われているようでもないが、駅名標も外されておらず、現役時代そのままなのは嬉しかった。
しかしホーム側に回ると、路盤の線路は剥がされ、すっかり雑草が伸びている。ここに列車はもう来ない。廃線になっていることを再認識させられる、つらい光景である。
すぐに17時31分発の諫早行きのバスが来たので、乗る。これが島原半島一周の、最終ランナーである。
前にふたりの女子高生がすわって、キャッキャッ話している。訛り丸出しの会話で、微笑ましい。
「なんばしちょっとー!!」
とか言っている。さすがに本場の発音は一味違う。
「串」というバス停を通過する。「揚」というバス停を通過する。長崎に入ってから、昼のポークしょうが焼定食しか口にしていない。腹が減ってきた。
外はすっかり暗闇になっている。先ほどの女子高生は、とっくに下車している。
7時09分、バスは今朝来たときと同じ、諫早バスターミナルに到着した。
そのまま駅前の食堂に入ってちゃんぽんを食し、再び諫早駅に入る。このあとは長崎へ行き、思案橋電停近くのネットカフェで一夜を過ごすつもりである。
駅の案内表示を見ると、19時43分発の長崎行きがあり、その電車が1番線に停車している。時計を見ると7時41分である。私は慌てて切符を買い、飛び乗った。
しかし電車は発車しない。席にすわって待っていると、19時53分に発車した。どうも私が発車時刻を見間違えていたようである。
20時46分、長与回りの普通電車は、長崎駅に到着した。けっこうな時間がかかった。そこで駅で調べてみると、諫早20時10分発・長崎20時35分着の快速シーサイドライナーがあることが分かった。これに乗れば、諫早を24分遅く発車し、長崎に11分早く着いていた。
ここで時刻表を持たない旅の弊害が表れた。しかし、たまには時間にしばられない旅もいい。物事は何でもいいほうに捉えることが大切である。
(つづく)