「越後屋」は街道沿いにあり、かなり年季の入った、純和風の建物だった。玄関を上がり廊下に出ると、壁に日本将棋連盟のカレンダーが掛けられていた。5月は三浦弘行八段だ。ちなみに6月は、清水市代女流六段ら女流棋士4人だった。
その先に大部屋が2つあり、そのひとつが私たちの将棋部屋となる。団体名は「W様」となっていたが、これはいかにも味気なかった。次回以降は、何か気のきいた名前にしなければならない。ちなみにもうひとつの部屋は、某企業が入っていた。
宿泊部屋はその奥にあり、2人部屋、3人部屋、5人部屋がまとまっていた。5人部屋に入ると、畳を張り替えたのか、蓬の香りがした。ひとり旅ならのんびりするところだが、今回は将棋合宿。ここへは寝に来ることしかないだろう。
まだ午後3時前である。宿に来る途中、郵便局があった。今回は旅行ではないが、記念に貯金をしようと思う。私はリュックを背に、宿を出た。
宿の向かいに羊羹屋がある。情報によると、街では有名な和菓子店らしい。店に入ると、日曜日も営業しているとのこと。誰に買うわけでもないが、ここは最終日に寄ろうと思う。
先ほどまで厚い雲がかかっていたが、いまはすっきりと晴れ、汗ばむくらいだ。
知らない街をぶらぶら歩くのは、旅の醍醐味である。沿道に「小鹿野歌舞伎」の文字が躍っている。ここは小鹿野(おがの)という地名らしい。
路線バスが通じている。これは西武秩父駅に向かうようだ。条件反射で乗りたくなるが、それをやったら、中井広恵女流六段と盤を挟むことができなくなる。今回は将棋合宿なのだと、自分に言い聞かせる。
宿から約1キロ、かなり大規模の郵便局に着いた。「小鹿野郵便局」518円。
まだ先へ行きたいが、引き返すよりない。お茶の専門店がある。こじんまりした造りで好感が持てるが、店主は奥に引っ込んでいる。翌日にまた寄ろうか。
宿に戻った。植山悦行七段ら数人は玄関横の囲炉裏部屋でくつろいでいた。色紙が何枚か飾られてあり、囲碁棋士数人に混じって、小倉久史七段のサインがある。「一歩千金」。確認できなかったが、ほかに及川拓馬四段の色紙もあったらしい。
中井女流六段らもサインをするのはやぶさかではないが、自分から「私たちはプロ棋士です」とは言えないだろう。どうなるのだろう。
大広間の将棋部屋に入る。若女将は、松尾香織女流初段に似た美人だった。緑茶と和菓子が美味かった。
しかし用意されていたチェスクロックはアナログで、秒読み機能がなかった。これは大誤算である。また温泉も、夜10時半までの入浴とのこと。24時間入れると聞いていたから、これも痛い。まあ、リサーチ不足と思って諦めるよりない。
3時45分、全員が大広間に揃った。Fuj氏お手製の対戦表(リーグ戦)がホワイトボードに貼られる。結局、持ち時間は35分切れ負けとした。ただし指導対局は、その限りではない。
私はR氏とともに、中井女流六段に教えていただくことになった。ほかの対局は、植山七段-W・Hon、大野八一雄七段-His・Is・Fuj。
駒を並べ終えると、ナナメ向かいの植山七段が、「平手ですか」と言った。
植山七段や大野七段との手合いは角でお願いしているし、実際中井女流六段との平手対戦成績も、私の1勝14敗である。しかしLPSAのほかの女流棋士とは平手の手合いでいい勝負なので、ここで中井女流六段に駒を落としてもらったら、ほかの女流棋士に失礼なことになってしまう。私もつらいところなのである。ちなみにR氏は飛車落ちだった。
一礼して対局開始。平日の昼間、温泉旅館で、女流棋士ファンランキング1位の中井女流六段に将棋を教えていただく。将棋ファンにとって、これ以上の贅沢があろうか。私は現在の境遇を必ずしも幸せに思っていないが、実はとても幸せなのかもしれない。
私の四間飛車に、中井女流六段は△5三銀から△3二飛。相振り飛車になってしまった。私の苦手な戦形だ。
△3五歩とされるのを嫌って私は▲3六歩だが、すかさず△3五歩から歩交換をされた。
私は▲3七銀から▲3八飛。しかし△6二玉に、▲3六銀と立ったのはマズかった。中井女流六段にすかさず△5五角と飛びだされ、▲1八飛では▲3六銀がタダだから泣く泣く▲3七歩だが、これでは下手大損である。
以下も中井女流六段に存分に捌かれ、完敗。まったくいい所がなかった。局後の検討では、▲3六銀で▲2八銀と飛車交換を迫るのがよいとされた。飛車交換なら、すでに△5二金左と上がっている上手が面白くない。といって上手が飛車交換を避けるのも気合が悪い。下手はこう指すべきだった。
とはいえ下手は▲3八飛と戻すべきではなかった、と中井女流六段の意見だ。たしかにそうで、相振り飛車で指し続けるのだった。これからは相振り飛車の感覚も身に付けたい。
左のR氏は善戦している。終盤に入り、いつものスットコドッコイな手が出るかと思いきや堅実な指し手が続き、ついに中井玉を仕留めた。R氏、殊勲の銀星だった。
順次対局が終わり、私は植山七段に角落ちで教えていただく。序盤で二歩を交換し、まずまず指せると思ったが、焦って攻めたのが無理だった。以下惨敗に終わる。
注目のR氏は、植山七段(飛車落ち)相手にまたも善戦。▲6一銀の好手を交え、上手玉をあと一歩のところまで追い詰めている。指導対局で下手が勝つことはむずかしい。中井女流六段に続いて植山七段からも白星を獲得すれば、これはR氏、早くも今合宿の最優秀選手となる。
しかしもうすぐ夕食の時間だ。同じ大広間の別テーブルに、すでに夕食が用意されている。キリがないので対局を中断し、夕食に入った。ではここで、席の配置を記そう。
His Hon R 大野 Is
中井 W Fuj 植山 一公
中井女流六段の向かいが最上だとは思うが、ビールを飲むテーブルと飲まないテーブルに分けられ、飲まない私は中井女流六段と対極の位置になってしまった。
残念ではあるが、横とナナメ向かいには男性棋士がいる。その状況だけでも、ありがたいことである。
夕食は一品一品手が込んでいて、美味かった。ひとり旅なら、絶対にありつけないごちそうであった。
食後の談笑もそこそこに、R氏が将棋盤の前に戻り、こんこんと考えている。勝ちは見つけられるのか?
(つづく)
その先に大部屋が2つあり、そのひとつが私たちの将棋部屋となる。団体名は「W様」となっていたが、これはいかにも味気なかった。次回以降は、何か気のきいた名前にしなければならない。ちなみにもうひとつの部屋は、某企業が入っていた。
宿泊部屋はその奥にあり、2人部屋、3人部屋、5人部屋がまとまっていた。5人部屋に入ると、畳を張り替えたのか、蓬の香りがした。ひとり旅ならのんびりするところだが、今回は将棋合宿。ここへは寝に来ることしかないだろう。
まだ午後3時前である。宿に来る途中、郵便局があった。今回は旅行ではないが、記念に貯金をしようと思う。私はリュックを背に、宿を出た。
宿の向かいに羊羹屋がある。情報によると、街では有名な和菓子店らしい。店に入ると、日曜日も営業しているとのこと。誰に買うわけでもないが、ここは最終日に寄ろうと思う。
先ほどまで厚い雲がかかっていたが、いまはすっきりと晴れ、汗ばむくらいだ。
知らない街をぶらぶら歩くのは、旅の醍醐味である。沿道に「小鹿野歌舞伎」の文字が躍っている。ここは小鹿野(おがの)という地名らしい。
路線バスが通じている。これは西武秩父駅に向かうようだ。条件反射で乗りたくなるが、それをやったら、中井広恵女流六段と盤を挟むことができなくなる。今回は将棋合宿なのだと、自分に言い聞かせる。
宿から約1キロ、かなり大規模の郵便局に着いた。「小鹿野郵便局」518円。
まだ先へ行きたいが、引き返すよりない。お茶の専門店がある。こじんまりした造りで好感が持てるが、店主は奥に引っ込んでいる。翌日にまた寄ろうか。
宿に戻った。植山悦行七段ら数人は玄関横の囲炉裏部屋でくつろいでいた。色紙が何枚か飾られてあり、囲碁棋士数人に混じって、小倉久史七段のサインがある。「一歩千金」。確認できなかったが、ほかに及川拓馬四段の色紙もあったらしい。
中井女流六段らもサインをするのはやぶさかではないが、自分から「私たちはプロ棋士です」とは言えないだろう。どうなるのだろう。
大広間の将棋部屋に入る。若女将は、松尾香織女流初段に似た美人だった。緑茶と和菓子が美味かった。
しかし用意されていたチェスクロックはアナログで、秒読み機能がなかった。これは大誤算である。また温泉も、夜10時半までの入浴とのこと。24時間入れると聞いていたから、これも痛い。まあ、リサーチ不足と思って諦めるよりない。
3時45分、全員が大広間に揃った。Fuj氏お手製の対戦表(リーグ戦)がホワイトボードに貼られる。結局、持ち時間は35分切れ負けとした。ただし指導対局は、その限りではない。
私はR氏とともに、中井女流六段に教えていただくことになった。ほかの対局は、植山七段-W・Hon、大野八一雄七段-His・Is・Fuj。
駒を並べ終えると、ナナメ向かいの植山七段が、「平手ですか」と言った。
植山七段や大野七段との手合いは角でお願いしているし、実際中井女流六段との平手対戦成績も、私の1勝14敗である。しかしLPSAのほかの女流棋士とは平手の手合いでいい勝負なので、ここで中井女流六段に駒を落としてもらったら、ほかの女流棋士に失礼なことになってしまう。私もつらいところなのである。ちなみにR氏は飛車落ちだった。
一礼して対局開始。平日の昼間、温泉旅館で、女流棋士ファンランキング1位の中井女流六段に将棋を教えていただく。将棋ファンにとって、これ以上の贅沢があろうか。私は現在の境遇を必ずしも幸せに思っていないが、実はとても幸せなのかもしれない。
私の四間飛車に、中井女流六段は△5三銀から△3二飛。相振り飛車になってしまった。私の苦手な戦形だ。
△3五歩とされるのを嫌って私は▲3六歩だが、すかさず△3五歩から歩交換をされた。
私は▲3七銀から▲3八飛。しかし△6二玉に、▲3六銀と立ったのはマズかった。中井女流六段にすかさず△5五角と飛びだされ、▲1八飛では▲3六銀がタダだから泣く泣く▲3七歩だが、これでは下手大損である。
以下も中井女流六段に存分に捌かれ、完敗。まったくいい所がなかった。局後の検討では、▲3六銀で▲2八銀と飛車交換を迫るのがよいとされた。飛車交換なら、すでに△5二金左と上がっている上手が面白くない。といって上手が飛車交換を避けるのも気合が悪い。下手はこう指すべきだった。
とはいえ下手は▲3八飛と戻すべきではなかった、と中井女流六段の意見だ。たしかにそうで、相振り飛車で指し続けるのだった。これからは相振り飛車の感覚も身に付けたい。
左のR氏は善戦している。終盤に入り、いつものスットコドッコイな手が出るかと思いきや堅実な指し手が続き、ついに中井玉を仕留めた。R氏、殊勲の銀星だった。
順次対局が終わり、私は植山七段に角落ちで教えていただく。序盤で二歩を交換し、まずまず指せると思ったが、焦って攻めたのが無理だった。以下惨敗に終わる。
注目のR氏は、植山七段(飛車落ち)相手にまたも善戦。▲6一銀の好手を交え、上手玉をあと一歩のところまで追い詰めている。指導対局で下手が勝つことはむずかしい。中井女流六段に続いて植山七段からも白星を獲得すれば、これはR氏、早くも今合宿の最優秀選手となる。
しかしもうすぐ夕食の時間だ。同じ大広間の別テーブルに、すでに夕食が用意されている。キリがないので対局を中断し、夕食に入った。ではここで、席の配置を記そう。
His Hon R 大野 Is
中井 W Fuj 植山 一公
中井女流六段の向かいが最上だとは思うが、ビールを飲むテーブルと飲まないテーブルに分けられ、飲まない私は中井女流六段と対極の位置になってしまった。
残念ではあるが、横とナナメ向かいには男性棋士がいる。その状況だけでも、ありがたいことである。
夕食は一品一品手が込んでいて、美味かった。ひとり旅なら、絶対にありつけないごちそうであった。
食後の談笑もそこそこに、R氏が将棋盤の前に戻り、こんこんと考えている。勝ちは見つけられるのか?
(つづく)