私が小学3年生のとき、我がクラスに女子の転校生がきた。彼女の名字を大鷲といった。
大鷲さんは転校初日ということもありガチガチで、顔を真っ赤にしていた。が、私は彼女を見た瞬間、何というか、生理的嫌悪感みたいなものを抱いた。
大鷲さんの席は私の左隣りだった。彼女はいまの芸能界でいえば遠山景織子にそっくりで、かわいい部類に入っていた。だが私は上記のように彼女を嫌ったので、とくに話はしなかった。
大鷲さんはミソっ歯のうえ噛み合わせの矯正中で、金属ワイヤーを装着しており、それが私の嫌悪感を増幅させた。体育の授業で私たちは、半円形の帽子を被るのだが、大鷲さんは私たちとは違ってツバ付きのもので、それがまた私をイラッとさせた。
ある授業のとき、先生が「みなさんが尊敬する人を書きなさい」と言った。私がいろいろ考えていると、大鷲さんは私を見て「私は…大沢さん」と言ってニコッと笑った。
これは男子として誇らしいことだと思う。しかし私はこれにカチンときた。私は尊敬される人物じゃない。そんなことを言われても、かえって迷惑だった。
それから私は彼女にいっそう敵意を持つようになった。私は当時新聞委員で、私が中心となって、週に1回、壁新聞を制作していた。
図画工作の授業のとき、大鷲さんは彫刻刀で誤って、指を切ってしまった。後日私はそれを、絵入りで新聞ネタにした。彼女とは似ても似つかぬ不細工な顔を描き、ご丁寧に「(顔が)にてるね~」という吹き出しまで付し、彼女をせせら笑う記事にしたのだ。
これに激怒したのが担任の木村先生(女性)だった。
「こんなことを書いて何事ですか!!」
もちろん、私が叱られた。私は何事かを反論したが、先生は「ゲンに書いているじゃないか!」と怒りの矛を収めない。
先生は過去の新聞のファイルを見ながら、「いままではしっかり書いてたのに、なんでこんなことを書いたのか…」と呆れた。
大鷲さんも呼ばれ、私は彼女に「ごめんなさい」と謝った。これは屈辱的なことで、もちろん私に謝意はこもっていない。それは大鷲さんも感じていただろう。
だが私は懲りずに、その後も大鷲さんに嫌がらせを続けた。
「イーン、てやってみて」と言ってみる。彼女がワイヤーを嵌めているのを知ってて、わざとそう言うのだ。
ヒトがいちばん気にしている箇所を突っ込み、笑いのネタにする。これが自分の言動だと思うと呆れる。だいたいが転校生は、周りに友達がおらず、心細いものだ。それゆえ私たちが率先して仲良くしなければならないのに、私はその逆をやった。まったく、タイムマシンがあったら飛んでいき、当時の私を蹴り飛ばしているところだ。恥を知れ、バカ野郎!!
給食のとき、彼女が肉を一口残した。私は「給食、残すなよ」と難癖をつける。
と、大鷲さんは「肉が硬かったんだもん」と厳しい口調で答えた。このころはすでに、大鷲さんも私に敵意を見せていた。
私の小学校は3年時と5年時にクラス替えがあった。私が5年生に進級したとき、大鷲さんとは別のクラスになった。といっても、我が学年は2クラスしかなかったから、彼女は隣のクラスになっただけだ。
しかし6年時に、大鷲さんと同じクラブになった。これはこの年から新設された「文芸クラブ」というやつで、童話を書いたり本を読んだりする、わりと自由度の高いクラブだった。
そしてクラスでは、保健委員になった。あるとき2クラスの保健委員が集まり、何かのレポート発表をすることになった。
このときも、同じ保健委員に大鷲さんがいた。そこで大鷲さんがその演者に選ばれそうになったのだが、案の定私は、いらぬことを言った。
「大鷲さんはダメですよ、口ベタだから」
これに、今度は垣内先生(女性)が私に掴みかからんばかりに、激昂した。「大沢くんは何を言ってるんだ!!」
温厚な垣内先生が豹変したので、私もおののき、「うわあああああ、やめてください!!」と垣内先生に抵抗した。
このやりとりを、ほかのみんなが、冷ややかな目で見ていた。私はまたも醜態を演じてしまったのだ。
それにしても、垣内先生の憤慨はすごかった。私はふだんから、大鷲さんに嫌味を言っていた。その情報が垣内先生にも伝わっており、このときの注意に繋がったのかもしれない。
それでもこのやりとりで私も、少しは目が覚めたのだろう。
文芸クラブのクラブ活動のとき、私がジョークを言うか何かして、周りが爆笑したことがあった。その中に大鷲さんもいて、いっしょに笑ってくれた。このとき私は確かに、少しほっとした。彼女に対してこんな気持ちになったのは、初めてだった。
やがて私たちは小学校を卒業したが、大鷲さんは、みなが行く中学校には行かなかったと思う。少なくとも私は3年間、彼女と同じクラスではなかったし、校内で見かけた記憶もなかった。
やがて私は高校に進学し、これで完全に大鷲さんとの縁が切れた。
しかし時が経つと、私が大鷲さんに行った仕打ちに、自己嫌悪を覚えるようになった。なぜ私は、あんなに大鷲さんをいじめてしまったのか。生理的に合わなかったら、無視すればよかっただけだ。まったく、当時の自分はどうかしていた。
しかし大鷲さんに本心から謝る術はもうない。謝りたいのに、謝れない。
刑事事件で時効を迎えたとき、犯人はほっと胸をなで下ろすのだろうか。根っからの悪人ならそれもあるだろうが、少しでも良心が残っていたら、その呵責に耐えられないのではなかろうか。しかし贖罪のチャンスはもうないのである。これはある意味、刑に服す以上に残酷な刑だ。何しろもう、罪を償う術がないのだから。いまの私が、まさにそうだ。
私は小学生高学年のとき、これは言い掛かりでも何でもなく、悪徳歯医者に我が健康な歯をことごとく荒らされた。これが大鷲さんをいじめた報いとは、考え過ぎだろうか。
そしていまでも私は思い出したように、大鷲さんへの懺悔の気持ちに苛まれる。私は死後の世界を信じていないが、もしあれば、やがてあの世で大鷲さんに会えるかもしれない。そう思うと、数十年後の往生も悪くないかなと思うのである。
大鷲さんは転校初日ということもありガチガチで、顔を真っ赤にしていた。が、私は彼女を見た瞬間、何というか、生理的嫌悪感みたいなものを抱いた。
大鷲さんの席は私の左隣りだった。彼女はいまの芸能界でいえば遠山景織子にそっくりで、かわいい部類に入っていた。だが私は上記のように彼女を嫌ったので、とくに話はしなかった。
大鷲さんはミソっ歯のうえ噛み合わせの矯正中で、金属ワイヤーを装着しており、それが私の嫌悪感を増幅させた。体育の授業で私たちは、半円形の帽子を被るのだが、大鷲さんは私たちとは違ってツバ付きのもので、それがまた私をイラッとさせた。
ある授業のとき、先生が「みなさんが尊敬する人を書きなさい」と言った。私がいろいろ考えていると、大鷲さんは私を見て「私は…大沢さん」と言ってニコッと笑った。
これは男子として誇らしいことだと思う。しかし私はこれにカチンときた。私は尊敬される人物じゃない。そんなことを言われても、かえって迷惑だった。
それから私は彼女にいっそう敵意を持つようになった。私は当時新聞委員で、私が中心となって、週に1回、壁新聞を制作していた。
図画工作の授業のとき、大鷲さんは彫刻刀で誤って、指を切ってしまった。後日私はそれを、絵入りで新聞ネタにした。彼女とは似ても似つかぬ不細工な顔を描き、ご丁寧に「(顔が)にてるね~」という吹き出しまで付し、彼女をせせら笑う記事にしたのだ。
これに激怒したのが担任の木村先生(女性)だった。
「こんなことを書いて何事ですか!!」
もちろん、私が叱られた。私は何事かを反論したが、先生は「ゲンに書いているじゃないか!」と怒りの矛を収めない。
先生は過去の新聞のファイルを見ながら、「いままではしっかり書いてたのに、なんでこんなことを書いたのか…」と呆れた。
大鷲さんも呼ばれ、私は彼女に「ごめんなさい」と謝った。これは屈辱的なことで、もちろん私に謝意はこもっていない。それは大鷲さんも感じていただろう。
だが私は懲りずに、その後も大鷲さんに嫌がらせを続けた。
「イーン、てやってみて」と言ってみる。彼女がワイヤーを嵌めているのを知ってて、わざとそう言うのだ。
ヒトがいちばん気にしている箇所を突っ込み、笑いのネタにする。これが自分の言動だと思うと呆れる。だいたいが転校生は、周りに友達がおらず、心細いものだ。それゆえ私たちが率先して仲良くしなければならないのに、私はその逆をやった。まったく、タイムマシンがあったら飛んでいき、当時の私を蹴り飛ばしているところだ。恥を知れ、バカ野郎!!
給食のとき、彼女が肉を一口残した。私は「給食、残すなよ」と難癖をつける。
と、大鷲さんは「肉が硬かったんだもん」と厳しい口調で答えた。このころはすでに、大鷲さんも私に敵意を見せていた。
私の小学校は3年時と5年時にクラス替えがあった。私が5年生に進級したとき、大鷲さんとは別のクラスになった。といっても、我が学年は2クラスしかなかったから、彼女は隣のクラスになっただけだ。
しかし6年時に、大鷲さんと同じクラブになった。これはこの年から新設された「文芸クラブ」というやつで、童話を書いたり本を読んだりする、わりと自由度の高いクラブだった。
そしてクラスでは、保健委員になった。あるとき2クラスの保健委員が集まり、何かのレポート発表をすることになった。
このときも、同じ保健委員に大鷲さんがいた。そこで大鷲さんがその演者に選ばれそうになったのだが、案の定私は、いらぬことを言った。
「大鷲さんはダメですよ、口ベタだから」
これに、今度は垣内先生(女性)が私に掴みかからんばかりに、激昂した。「大沢くんは何を言ってるんだ!!」
温厚な垣内先生が豹変したので、私もおののき、「うわあああああ、やめてください!!」と垣内先生に抵抗した。
このやりとりを、ほかのみんなが、冷ややかな目で見ていた。私はまたも醜態を演じてしまったのだ。
それにしても、垣内先生の憤慨はすごかった。私はふだんから、大鷲さんに嫌味を言っていた。その情報が垣内先生にも伝わっており、このときの注意に繋がったのかもしれない。
それでもこのやりとりで私も、少しは目が覚めたのだろう。
文芸クラブのクラブ活動のとき、私がジョークを言うか何かして、周りが爆笑したことがあった。その中に大鷲さんもいて、いっしょに笑ってくれた。このとき私は確かに、少しほっとした。彼女に対してこんな気持ちになったのは、初めてだった。
やがて私たちは小学校を卒業したが、大鷲さんは、みなが行く中学校には行かなかったと思う。少なくとも私は3年間、彼女と同じクラスではなかったし、校内で見かけた記憶もなかった。
やがて私は高校に進学し、これで完全に大鷲さんとの縁が切れた。
しかし時が経つと、私が大鷲さんに行った仕打ちに、自己嫌悪を覚えるようになった。なぜ私は、あんなに大鷲さんをいじめてしまったのか。生理的に合わなかったら、無視すればよかっただけだ。まったく、当時の自分はどうかしていた。
しかし大鷲さんに本心から謝る術はもうない。謝りたいのに、謝れない。
刑事事件で時効を迎えたとき、犯人はほっと胸をなで下ろすのだろうか。根っからの悪人ならそれもあるだろうが、少しでも良心が残っていたら、その呵責に耐えられないのではなかろうか。しかし贖罪のチャンスはもうないのである。これはある意味、刑に服す以上に残酷な刑だ。何しろもう、罪を償う術がないのだから。いまの私が、まさにそうだ。
私は小学生高学年のとき、これは言い掛かりでも何でもなく、悪徳歯医者に我が健康な歯をことごとく荒らされた。これが大鷲さんをいじめた報いとは、考え過ぎだろうか。
そしていまでも私は思い出したように、大鷲さんへの懺悔の気持ちに苛まれる。私は死後の世界を信じていないが、もしあれば、やがてあの世で大鷲さんに会えるかもしれない。そう思うと、数十年後の往生も悪くないかなと思うのである。