きのう14日の朝、我が家の桃の木が根元から折れた。その瞬間、ものすごい音がしたらしいが、私は睡眠中で、まったく分からなかった。
桃の木は玄関側に倒れてきたが、奇跡的にガラス戸に損傷はなかった。
13日の夜に帰宅したとき、桃の木を見ると、幹は全体的に黒ずみ、痩せているように見えた。もうなんだか、立っているのが不思議に思えた。そしてきのう、ついに力尽きたのだ。
この桃の木のルーツは戦後のことになる。嘘か本当か知らぬが、むかしウチにはお手伝いさんがいたらしい。
そのお手伝いさんが家で桃を食べたとき、その種を庭に捨てた。その種が発芽し、立派な桃の木になったのだ。
私が小学生のころは、その幹に犬をつないでいた。犬は木にオシッコをするから、花など咲かなかった。
再び咲き出したのは、犬が亡くなってからだ。桃の実もなるようになり、それはたいそう甘かった。
ところが1984年ごろの台風で、桃の木が折れてしまった。幹の中途からぐにゃっと曲がり、それが相当の衝撃を物語っていた。
実はその前日の昼、台風が来るから枝を伐ったほうがいいんじゃないか、とオヤジが言った。
だが、木には桃の実がたいそうなっており、私はそれを反対した。でも、このとき私が賛成していれば、木は折れなかったかもしれない。このことは、私の「人生10後悔」のひとつである。
ところがこの桃の木は強かった。数ヶ月経ち、木の根元から、新芽がグングン伸びてきたのだ。
この新芽も立派な木になり、実をつけるまでになったのだが、やがて根元が腐り、枯れてしまった。1998年とか、そのくらいだったと思う。
庭に桃の木は跡形もなくなった。しかしウチの庭のシンボルは桃の木である。
そこで私は、3代目の桃の木を求め、あてもないのに山梨駅に出向いた。この思いっきりがいまの私はなく、当時の自分に感心する。
私は山梨駅のどこかで種苗農家を紹介してもらい、お邪魔した。すると、応対した農家さんは、もう桃の木の出荷の時期は終わっていたが、1本譲ってくれた。1,500円だった。そして農家さんは、土が合わないと枯れるかもしれない、と付け加えた。
桃の木は私の背丈ほどで、私はその木を持って、誇らしげにJRに乗った。絶対にこの苗木を大きくして見せる、と誓った。
その年の花は7つ咲いた。わずか7つ。だが、花が咲いたということは、成長したということだ。
翌年の花は51。さらにその翌年は数えきれないくらい咲いた。
その後の桃の状態は、当ブログで何度か書いている。桃の実ができると、桃泥棒が現れる。毎年、その繰り返しだった。
しかし6年前から、桃の枝の一部が枯れはじめた。これは、オフクロが過剰なまでに枝を伐ったから、そこから病気が感染したのではないかと見ている。だがもちろん、真相は分からない。
昨年は奇跡的に実がなったが、今年は花が咲く寸前ですべて黒ずみ、咲いた花は2つ。万事休した。そして、きのうの倒木。まるで、ヒトの人生の縮図を見るかのようだった。
ウチに嫁いできて、約四半世紀。物言わぬその木は、いつも庭で私たちを見守ってくれた。私の人生には、いつも桃の木があった。それがあるのが、当たり前の生活だった。
いま、庭には桃の木の根元がある。私は家族を喪ったようで、心にぽっかり穴が開いている。
この空虚な気持ちを埋めるため、近いうちに私は、また山梨駅に伺うつもりである。当時の種苗農家の名前も覚えていないが、4代目を手に入れたいと思っている。
最後に、多くの思い出をくれた、3代目桃の木に感謝の意を表したい。いままで、ありがとう。
桃の木は玄関側に倒れてきたが、奇跡的にガラス戸に損傷はなかった。
13日の夜に帰宅したとき、桃の木を見ると、幹は全体的に黒ずみ、痩せているように見えた。もうなんだか、立っているのが不思議に思えた。そしてきのう、ついに力尽きたのだ。
この桃の木のルーツは戦後のことになる。嘘か本当か知らぬが、むかしウチにはお手伝いさんがいたらしい。
そのお手伝いさんが家で桃を食べたとき、その種を庭に捨てた。その種が発芽し、立派な桃の木になったのだ。
私が小学生のころは、その幹に犬をつないでいた。犬は木にオシッコをするから、花など咲かなかった。
再び咲き出したのは、犬が亡くなってからだ。桃の実もなるようになり、それはたいそう甘かった。
ところが1984年ごろの台風で、桃の木が折れてしまった。幹の中途からぐにゃっと曲がり、それが相当の衝撃を物語っていた。
実はその前日の昼、台風が来るから枝を伐ったほうがいいんじゃないか、とオヤジが言った。
だが、木には桃の実がたいそうなっており、私はそれを反対した。でも、このとき私が賛成していれば、木は折れなかったかもしれない。このことは、私の「人生10後悔」のひとつである。
ところがこの桃の木は強かった。数ヶ月経ち、木の根元から、新芽がグングン伸びてきたのだ。
この新芽も立派な木になり、実をつけるまでになったのだが、やがて根元が腐り、枯れてしまった。1998年とか、そのくらいだったと思う。
庭に桃の木は跡形もなくなった。しかしウチの庭のシンボルは桃の木である。
そこで私は、3代目の桃の木を求め、あてもないのに山梨駅に出向いた。この思いっきりがいまの私はなく、当時の自分に感心する。
私は山梨駅のどこかで種苗農家を紹介してもらい、お邪魔した。すると、応対した農家さんは、もう桃の木の出荷の時期は終わっていたが、1本譲ってくれた。1,500円だった。そして農家さんは、土が合わないと枯れるかもしれない、と付け加えた。
桃の木は私の背丈ほどで、私はその木を持って、誇らしげにJRに乗った。絶対にこの苗木を大きくして見せる、と誓った。
その年の花は7つ咲いた。わずか7つ。だが、花が咲いたということは、成長したということだ。
翌年の花は51。さらにその翌年は数えきれないくらい咲いた。
その後の桃の状態は、当ブログで何度か書いている。桃の実ができると、桃泥棒が現れる。毎年、その繰り返しだった。
しかし6年前から、桃の枝の一部が枯れはじめた。これは、オフクロが過剰なまでに枝を伐ったから、そこから病気が感染したのではないかと見ている。だがもちろん、真相は分からない。
昨年は奇跡的に実がなったが、今年は花が咲く寸前ですべて黒ずみ、咲いた花は2つ。万事休した。そして、きのうの倒木。まるで、ヒトの人生の縮図を見るかのようだった。
ウチに嫁いできて、約四半世紀。物言わぬその木は、いつも庭で私たちを見守ってくれた。私の人生には、いつも桃の木があった。それがあるのが、当たり前の生活だった。
いま、庭には桃の木の根元がある。私は家族を喪ったようで、心にぽっかり穴が開いている。
この空虚な気持ちを埋めるため、近いうちに私は、また山梨駅に伺うつもりである。当時の種苗農家の名前も覚えていないが、4代目を手に入れたいと思っている。
最後に、多くの思い出をくれた、3代目桃の木に感謝の意を表したい。いままで、ありがとう。