一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

もしM氏が言わなかったら

2009-05-26 01:48:13 | 愛棋家
ごく平凡な社会人が、ある業界では有名というケースはよくある。将棋ペンクラブ幹事のM氏はまさにそんな方で、将棋関係者でM氏の名前を知らなければモグリだろう。私もペンクラブ会報などで、名前だけは記憶していた。しかし交流会にはあまり参加していなかったので、顔までは存じ上げなかった。
M氏はブログを開設しているが、初めて見たのはいつだったか。昨年6月に船戸陽子女流二段が日本女子プロ将棋協会(LPSA)に移籍表明したときは、M氏のブログでその見解を読んだ記憶があるから、その前から愛読していたことになる。
トップページには「近代将棋」に連載されていた「将棋ペンクラブログ」のネット版、と説明があり、なにより毎日更新されているのが素晴らしい。1回あたりの文章量はそれほど多くないが、「将棋」というキーワードから題材は四方八方に拡がり、毎回違った話題が楽しい。この、もう少し読みたい、という文章量が絶妙なのである。
やがて「船戸陽子女流二段の決心」が載った将棋ペンクラブ秋号が発行されると、「将棋ペンクラブ秋号を読む」というタイトルの記述があり、注目して読むと、私の拙稿のあらすじが、コンパクトに紹介されていた。
やはりM氏の文章力はタダモノではない、と思った。
その数日後のブログでは、10月に行われる「将棋ペンクラブ大賞贈呈式」の話題になり、このときは私も初参加の予定だったので、お会いできることを楽しみにしていた。
そして当日。船戸二段に拙稿を読まれておろおろしたあと、私は会場内で、M氏の姿を見つけた。
いままでお会いしたことがないのに、なぜM氏が分ったのか――。
当時M氏は同誌に「広島の親分」というノンフィクションドキュメンタリーを連載しており、バトルロイヤル風間画伯が描くイラストの中に、M氏のイラストが掲載されていたからだ。
さすがバトル氏である。そのイラストと、会場にいる男性があまりにもそっくりで、思わず噴き出してしまった。
一言挨拶に行くとやはり同一人物で、その絵のとおり温厚な方だった。M氏は私の文章も好意的に捉えてくれていたようだった。
その日は二次会にも参加しM氏も同席したと思うのだが、テーブルが違ったため、確たる記憶がない。
その後M氏とは今年3月に「LPSA府中けやきカップ」の会場で5ヶ月振りにお会いし、将棋ペンクラブ春号の発想作業で再びご一緒する機会に恵まれた。
このときの酒席で私は、以前書いたとおり湯川博士統括幹事に質問攻めに遭うのだが、その中に「キミはブログをやっているか?」というのがあった。
まあ休眠状態のブログはあったのだが、めんどうなので「否」と応えると、「それは良い」と、なぜか褒めてくれた。だがここでM氏が、「一公さんもブログやってくださいよ」と何気なく言ったのが、意外に私の心に響いた。
告白すれば、それまで将棋のブログを考えなかったこともない。しかし書くべき将棋の話題はそんなにないし、いついつにタイトル戦があって、誰々が勝ったから良かった、などとお茶を濁すのも、それが自分のスタイルとは思えない。だから開設を躊躇していたのだ。
そこへM氏の一言があったわけだ。湯川統括幹事とは違うタイプの、文章の達人が所望したということは、私にブログを書き続けられるチカラがあると、M氏が見極めたことにならないか。
私は勝手にそう解釈し、本年4月1日、ブログを開設するに至った。だがこの事実はごく一部の人に知らせただけで、しかも決して口外するな、とキツく釘を刺しておいた。だからこのブログの存在は、誰にも知られていなかったはずなのだが…。
あれは5月9日(土)、駒込のLPSAサロンで「中井塾1日体験会」に参加したときだった。同じく講習を受けていたM氏にまたもお会いし、「ブログ見てますよ」と告げられたときは、さすがに私も驚いた。
たぶんM氏は、ふだんから将棋関係の記事をチェックしているのだろう。まあ、読者がいるのは有難いことではある。
そして私はといえば、いざこのブログを開設してみると、将棋に関する雑感や金曜サロンでのエピソードなど、書く話題には事欠かず、「記録」として残すには、絶好のツールとなった。
もしM氏があのとき、「一公さんも書いてくださいよ」と言ってくれなかったら、このブログはなかったかもしれない。その意味で、M氏にはとても感謝している。
いまはただ、ブログを嫌っていた?湯川統括幹事の反応がコワいだけである。
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金曜サロン・大庭美樹女流初段①

2009-05-25 01:18:12 | LPSA金曜サロン
22日の金曜サロン、昼の部は大庭美樹女流初段の担当、夕方の部は前週に引き続き松尾香織女流初段の登板となった。松尾女流初段は北尾まどか女流初段のピンチヒッター。こういう突発的な変更はときどきある。
この日はスーパーサロンに2時40分ぐらいまでいたので、金曜サロンへの入りも遅くなった。
さて大庭女流初段の得意戦法は異色で、こちらが居飛車だと右玉、振り飛車だと相振り飛車になる。どちらも定跡が確立されていないので、己の実力が試されるわけで、プロ棋士相手に言うのも失礼だが、その意味では指しにくい先生である。
指導対局では軽口を交えながら指す棋士と、寡黙で指す棋士の2パターンがあり、大庭初段は後者に属する。会員の緊張を和らげるために、多少のおしゃべりは必要、との声もあるかもしれないが、私はどちらでも構わない。
昨年の大庭女流初段との初対局では定跡どおり角を落としていただいた。その将棋は中盤でこちらが圧倒的優勢になったのだが、いや角落ちだから勝勢になったといってもいいのだが、大庭女流初段は顔色ひとつ変えず指し続ける。
これがたとえば藤森奈津子女流三段だと、形勢が悪くなれば「困りました」と漏らしてくれるので、「ああこちらが良いんだ」と安心できるのだが、黙って指されると、「思ったほどこちらが良くないのでは」と疑心暗鬼に陥ってしまう。
だから大庭女流初段が「困りました」と言ったときは、こちらが勝勢になったことを意味する。
本局は大庭女流初段が序盤早々角道を止めたので、ふつうの振り飛車かと思いきや、珍しく3筋の歩を伸ばして飛車を振り、石田流の作戦であった。
桂をポンポン跳ばれて攻めつぶされるかと思ったが、金銀で守っていた自陣は意外に粘りがあり、逆にこちらが駒得となった。
ただここからの粘り強さが大庭女流初段の持ち味である。しかし私も自陣に駒を打ちつけ、大庭女流初段は竜を自陣に引き、長期戦の様相を呈してきた。
時刻は5時半を過ぎた。金曜サロンでのスケジュールでは、ここで大盤解説となる。しかし私の対局が長引いたため、こちらはそのまま指し継ぐことになった。
解説は松尾女流初段がひとりでの進行である。私も拝見したいが、そうもいかない。しかし大盤解説に参加しなきゃ、という思いは大庭女流初段も同じだったようで、局面は急にバタバタと進み、最後は私が▲8八の香で△8六の桂を外した手が、詰めろ逃れの必死となって、私の辛勝となった。
このあと自玉には王手が続くが、それを指さずに投了するあたりに、棋士のたしなみを感じた。
なおこのあとの松尾女流初段との指導対局は、時間の関係でなしとなった。これは私にとって初めてのケースだった。遅い時間にもかかわらず、
「大沢さんは?(私と指導対局は指さなくていいのですか?)」
と心配りを見せてくれた、松尾女流初段に感謝したい。
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女流棋士スーパーサロン金曜日・上田初美女流二段①

2009-05-24 02:34:40 | 女流棋士スーパーサロン
この表題は書き間違いではない。2009年5月22日(金)、ついに私は、日本将棋連盟・女流棋士会主催の「女流棋士スーパーサロン」を訪れた。15日の午前に連盟に電話をかけ、スーパーサロンへ行きたい旨を伝えたときは、定員一杯で断られた。しかし話の流れで、この日の予約を入れておいたのだ。
一昨年、日本女子プロ将棋協会(LPSA)が誕生したとき、「将棋ファンのパイを取り合う恐れがある」と危惧した棋士もいたと思う。しかしこれは取り越し苦労である。LPSAのお陰で、私はほぼ10年振りに指し将棋に復帰し、金曜サロンに通う傍ら、こうしてスーパーサロンにもお邪魔したのだから。
さてスーパーサロンは、東京・将棋会館の2階にある将棋道場の一隅で開かれる。
予約制で、1部は午前10時00分~11時30分。2部は10時30分~12時00分。それぞれ定員は4名。
これは6月からの新タイムテーブルで、5月まではそれぞれ10時~11時、11時~12時だった。しかしこれだと、各自の「持ち時間」が1時間とやや短く、せわしない。
今回はそれを改良したわけだが、私が予約したときは、すでに新タイムテーブルが適用されていた。料金は一般2,000円だが、対局が終わっても、引き続き道場にて、お客同士で対局ができる。また午後4時30分からのトーナメント戦の参加も可能で、かなりお得な料金設定になっている。
ちなみに各曜日の担当者を記すと、月曜日:熊倉紫野女流初段 火曜日:安食総子女流初段 水曜日:中村桃子女流1級 木曜日:井道千尋女流初段 金曜日:上田初美女流二段・藤田綾女流初段 である。私は金曜日がやむなく休日になっているので、上田二段か藤田初段の担当となる。先日の電話予約時では「藤田先生になります」と告げられていた。名字がちょっとアレだが、こちらの藤田先生は優しそうだ。
欲をいえば山口恵梨子女流1級にも担当してほしいところだが、高校生では仕方ない。山口女流1級はこの日対局だったが、同じ建物の中から、私は彼女の勝利を祈っていた。
9時55分に将棋会館2階に上がったが、まだ開席はしていない。しかし10時からの対局予定者は、何人か来ていた。常連らしいお客さんが、「今日の予定は藤田さんだけど、時々交代することがあるからなあ」とか話している。
と、10時きっかりに、ハツラツとした感じで、階段を上ってくる女性がいた。彼女は私を見て、「あ、どーも!」と微笑む。
上田初美女流二段だった。
先ほどのお客さんが言ったとおり、早速担当の変更があったのだ。藤田女流初段と指せないのは残念だが、もちろん上田女流二段も大歓迎である。以前も書いたが、上田女流二段は女流棋士会で5指に入る美貌である。
入口で手合い係嬢にサロン対局の旨を告げる。藤田女流初段に似た美人もいる。LPSA金曜サロンの、ややくたびれた手合い係氏とはエライ違いである。
指導対局スペースのレイアウトはコの字型で、隣りの対局者との間隔がやや狭い。しかし女流棋士も小回りが利き、キャスターのついた椅子でスムーズに動ける仕掛けになっている。
早速駒を並べる。それにしても上田女流二段は、名前のとおり初々しく、美しい。瞳が輝いている。毎日が充実している証であろう。私はこのブログでは女流棋士の容姿には触れないようにしているが、とか言って結構触れているが、数年前の「アラレちゃん」が、彼女と同一人物とは到底思えない。とにかく女流棋士会には、このレベルの美女がゴロゴロいる。層の厚さを実感する。
対局は、図々しく平手を所望した。戦型は、上田女流二段の△四間飛車に、私の▲左4六銀早仕掛けとなった。
このあたりの定跡は私もうろ覚えで自信がないが、上田女流二段はスキのない手順で応戦する。LPSAにも振り飛車党はたくさんいるが、この定跡を知識として叩き込んでいる棋士が何人いるか。この数手だけを見ても、女流棋士会の棋士はよく研究している、と感心した。
この将棋は、「持ち時間1時間」と勘違いしていたので、私の指し手も早く、40分足らずで終わってしまった。
局後の感想戦は、多くの時間は割けないものの、急所の局面をテキパキと検討してくれた。また私が急戦の作戦を採ったので、その参考になる定跡書も紹介してくれた。
この対局結果は、自慢になってしまうので自分の口からは言えないが、80余局にのぼる女流棋士との指導対局の中では、3指に入る名局だったと自負している。
指導対局が終わったあとも、駒込の金曜サロンが開くまで時間があるので、しばらく道場で指し続けることにする。サロンの余得で、無料である。
何局か指し、昼ごろ他の将棋を見物していたら、カッ、カッ、カッ、カッ…と、聞き憶えのある靴音がしたので、開けっ放しのドアのほうを見ると、階段を下りてゆく女性の後ろ姿が、ほんの一瞬だけ目に入った。
彼女は…。私は窓際に移動すると、玄関を出る彼女を再び確認した。彼女は本日対局だった。きっとお昼を摂るのだろう。以前はこの将棋会館がホームグラウンドだったのに、いまはアウェーになり、孤独な戦いを強いられているのだ。その後ろ姿はさびしそうで、心なしか足取りも重そうだった。
彼女は会館を出ると、左に向きを変え、坂道を下っていった。顔は確認できなかったけれど、やはり彼女に間違いない。私は心の中でつぶやいた。
「中倉宏美先生、女流王位戦リーグ、頑張ってください」
コメント (6)
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僭越ながら自作解説(後編)

2009-05-23 03:09:46 | 将棋ペンクラブ
前日の続き。

・通信31号夏号(2008年6月21日発行)「勇者の涙と己の恥」
・会報50号秋号(2008年9月6日発行)「船戸陽子女流二段の決心」
・会報51号春号(2009年3月21日発行)「金曜日の楽しみ」

「勇者の涙と己の恥」
1月に大阪で行われた1DAYトーナメントと、3月に府中で行われた1DAYトーナメントのレポート。
当初は大阪での1DAYのみを4頁程度で書く予定だったが、真部九段の追悼文を先に投稿したため、掲載が3ヶ月遅れた。これは当初、原題は「3つの『き』」だった。この「き」とは、観戦記、自戦記、旅行記の3つである。
東京-大阪間を結んでいる寝台急行「銀河」に乗るチャンスだったのだが、さすがに乗車賃が高いので、夜行バスで大阪まで行った。ところがこの年の3月に「銀河」が廃止になり、唯一の乗車の機会を逃してしまった。
文中ではカノタマこと鹿野圭生女流初段に会うのを目的としているが、当時LPSAで人気絶頂だった島井咲緒里女流初段の追っかけも兼ねていた。
また当日は大阪国際女子マラソンのほかに大阪府知事選挙も行われていた。立候補者掲示板に「橋下―」の文字を見つけ、橋の下と書いて「はしもと」と読ませるとは珍しい、あの弁護士と同じじゃないかと思ったら、当人だったのでビックリしたものだった。
1DAYの帰り道、新大阪へ向かう電車の中で、3割近くの乗客が「橋下氏当選」の号外を読んでいたのを思い出す。
掲載が3ヶ月遅れたので、府中での1DAYトーナメントの模様も書くことにした。このときは島井女流初段に、対局前だというのにくだらないクイズを出してしまい、後で事の重大さに気付いて青くなった。先月名人戦で、対局者の考慮中にサインを所望する観戦記者がいたが、私も非難できる立場ではなかった。
このときの1DAYでは、お膝元である中倉彰子女流初段、宏美女流初段(当時)の袴姿が艶やかで、閉会のコメントでの、おふたりの美しい涙が印象に残っている。

「船戸陽子女流二段の決心」
昨年5月31日の将棋ペンクラブ関東交流会に、船戸陽子女流二段が指導対局者としてお越しになり、私も角落ちで教えていただいた。これはその自戦記。
というのは表向きの説明。この前年、女流棋士会から17人が独立したが、船戸二段は残留した。しかしそのあとの船戸女流二段の言動が、他の棋士とは異質だったため、私は彼女に注目をしていた。
同時にこのころ、インターネット上で、船戸女流二段が日本女子プロ将棋協会(LPSA)に移籍か? という噂が立ち、私はこの交流会と同日に行われたLPSA1周年記念パーティーで、船戸女流二段がサプライズ移籍を発表すると読んだ。
ところが交流会に行くと、船戸女流二段が何か吹っ切れたような貌で、指導対局をこなしているではないか。途中で抜け出してパーティーに行ってほしいと願うが、船戸女流二段は動かない。けっきょく私は傷心しつつ、LPSAのパーティー会場に向かう、という話。
この掲載号はペンクラブ大賞発表号だったが、観戦記大賞や優秀賞がそれぞれ7頁の文章量だったのに対して、私のそれは8頁半の大作となり、私の投稿のほうが目立ってしまった(たぶん)。幹事の方々から、「今回の投稿は長すぎる!」と、非難轟々だった。ただ、第三者から見れば、この作品が私の代表作になるのだろう。
当然ながら船戸女流二段当人には掲載誌を贈呈するつもりだったが、会報発行後、金曜サロンでの担当日が合わず、そのままになっていた。
ところが、10月に行われたペンクラブ大賞贈呈式で船戸女流二段と松尾香織女流初段がお越しになり、式に初めて参加した私は脂汗をかいた。何しろ文中には、「船戸女流二段が美人で驚いた」とか、「素晴らしいプロポーションだ」とか、「香水のいい香りがする」とか、「指が白くて長くてキレイだ」とか、いかにもオッサンが書いたような、変態的とも思える表現の羅列があったからだ。
松尾女流初段は、「読みましたよ」とニヤニヤしながら言う。肝心の船戸女流二段はというと、私は極力目を合わさないようにしていたが、やがて船戸女流二段がこちらへ近づいてきて、このときは心臓が破裂するかと思った。しかし
「良く書いていただいて、ありがとうございます」
と大人の対応をされて、ホッとしたものだった。
一部の将棋ファンから、「一公は船戸女流二段のファンである」という言葉が聞かれるようになったのは、この投稿があったからである。
なおタイトルの「船戸陽子女流二段の決心」は、交流会で船戸女流二段の表情があまりにも晴れやかだったため、「女流棋士会に残る決心をしたのだろう」と私が推測したから。もちろん、タイトルに船戸女流二段の名前を入れたかった、という理由もある。しかし船戸女流二段の本心が当時どうだったかは、憶測の域を出ない。だからこのタイトルの本当の意味は、船戸女流二段しか知らないのである。

「金曜日の楽しみ」
私が金曜サロンに通うことになった経緯や、サロン内での指導対局システムを書いた。
昨年4月から金曜サロンの手合い係に着任した植山悦行七段のエピソードに、多くのスペースを割いている。いまや植山七段は、金曜サロンの要だからだ。
また昨年7月1日付でLPSAに移籍した船戸女流二段のことも、「船戸陽子女流二段の決心・完結編」というテーマで触れている。

さて本日23日は、いよいよ東京・将棋会館で年に1度の「将棋ペンクラブ関東交流会」が開かれる(参加は誰でもOK)。どうにか雨も降らないようだ。
今日は「将棋」にどっぷり浸かりたいと思う。
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僭越ながら自作解説(中編)

2009-05-22 07:48:34 | 将棋ペンクラブ
(つづく)と書いたら、最低1週間以内に続きを書くべきであろう。
では前日の続きを書く。

・通信29号夏号(2007年6月23日発行)「『LPSA』の未来はバラ色」
・会報48号秋号(2007年9月8日発行)「文化祭1982」
・会報49号春号(2008年3月15日発行)「真部一男九段との思い出」
・通信31号夏号(2008年6月21日発行)「勇者の涙と己の恥」
・会報50号秋号(2008年9月6日発行)「船戸陽子女流二段の決心」
・会報51号春号(2009年3月21日発行)「金曜日の楽しみ」

「『LPSA』の未来はバラ色」
この内容は先日書いたので省略。このイベントの約1ヶ月後に開かれた将棋ペンクラブ関東交流会で将棋を指していると、石橋幸緒女流四段(当時)と御母堂がお越しになり、丁重な御礼の言葉をいただいたので、恐縮した。
私は別に誰のために書いたわけでもないが、石橋母娘から見れば、無名のペンクラブ会員が、今回のイベントを妙に詳しく書いているので、ビックリするやら有難いやらで、一言言わずにおれなかったのだろう。もっともさすがの石橋ママも、金曜サロンの会員とこのときの作者が同一人物だとは夢にも思わず、その事実を知ったのは最近のことであったらしい。

「文化祭1982」
私の通った高校は男子生徒4に対し女子生徒1という奇妙な比率で、ほとんど男子校のようなものだった。
毎年文化祭のときは真部一男七段(当時)をお招きし、指導対局をお願いしていた。その真部七段が、私が2年生のとき、ある女子高校将棋部との交流を企画してくれた。女子生徒に免疫のない、私の行動はいかに…。
この話の中には、真部七段を含め、3人のプロ棋士が登場している。いずれも名前は明かしていないが、文章を丹念に読めば、その棋士が分かるようになっている。植山悦行四段(当時)初登場の回でもある。
また最後の1行にあっと驚く記述があり、熱心な読者は最終的に、LPSAの所在地を確認する仕掛けになっている。
なお私のつけるタイトルには、アニメ界の巨匠・宮崎駿監督にあやかり、すべて「の」が入っている。今回もそのつもりだったが、上記のタイトルがピッタリで、どうしても「の」を入れることができなかった。
「文化祭1982」の算用数字のところは、「いちきゅうはちに」と読んでほしい。12作中、3番目に好きな作品。

「真部一男九段との思い出」
前年の11月24日に真部一男九段が急逝された。これはその追悼文。タイトルは「真部一男先生との思い出」にすべきだとは思ったが、肩書きの「九段」をどうしてもタイトルに入れたかった。
掲載された会報では、1月下旬、「真部一男九段 お別れの会」に参列した私が、花を手向けて合掌し、「涙があふれてきて、とまらなかった」と結んで終わっている。
ここだけ読めば、高校生のときに指導対局に来てくださった真部九段を、心から悼んで涙を流したようにとれる。
しかし実際はかなり違う。私は高校生当時、自分が不遇な毎日を送っていると決めつけ、真部七段の強さ、華やかさを妬ましく思っていた。だから離婚の話を風の噂で聞いたときも、奇病に罹っていると聞いたときも、とくに気の毒だとは思わなかった。
それは私が成長してからも持続し、真部七段がA級八段に昇級昇段したときも、ちっとも嬉しくなかった。
しかし真部九段が亡くなり、その人となりを知るにつれ、自分がいかに狭量な男だったかを思い知らされた。卑屈だった自分が恥ずかしく、情けなく、私はお別れの会で、いままでの非礼を初めてお詫びしたのだった。
私が流した涙の真相―。ペンクラブ会報には書かなかった、これが偽らざる事実である。
(つづく)
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