山国川を渡り切るとすぐ左に折れる。ご覧の小倉口渡の立て看板がある。小犬丸から乗船してここで降りるのである。ただ小犬丸はまだ中津藩の領内であることも書かれている。その当時の目の前の川は難所であったということも書かれてあるが、今では穏やかすぎるくらいである。なにせ人が腰まで浸かって囲い込み漁のようなことが出来るくらいだ。
今では厳しいほどの治水が行われているが、その当時の治水事業は困難であったろうが、ただ城下を守るために土手を築いていることは知っておきたい。
立て看板の前の道が土手を滑らかに下っている。普通に歩いていると判らぬくらいに橋が架けられている。二三歩で渡りきってしまうのだが、小倉橋(小倉口)と書かれてある。小倉には中津口が在って互いに方向をその場所で判るようになっているのは面白い。小倉の人間は中津街道と呼び、中津の人間は小倉街道と言った。
ここが我々の言う街道の終点である。さて、本来の目的に向う。この小倉橋からすぐ左に折れると西口門の石垣が現れる。道が鉤状になっているということは入城の常識かも知れん。
土手沿いに歩いているとカツーンカツーンと石の当る音が聞こえる。あまりに周りが静かなものだから響いてくるのである。時には電車が鉄橋を渡る轟音も響き渡る。それは凄まじいものがある。ところがそのカツーンカツーンは音楽のように聞こえるから不思議だ。それで川の中に目をやると、ご覧のように漁をやっているのだ。川中に石を組み、一晩か二晩か判らぬがその組まれた石の中に獲物が住み着くのである。そしてその時が来るとその周囲に網を張り、石組みを壊して獲るということだ。その壊すときに石を抛り投げたときの音が心地好く聞こえてくると言う訳だ。見ているほうは原始的ではあるが道理に適っているものだと思っているが、獲るほうは大変だ。腰まで水に浸かってせっかく積んだ石組みを壊さねばならん。しかも一つ一つ石を抛らねばならん。獲れれば良いが獲れなければ徒労に終わってしまう。空しさが残るばかりではなかろうか。要らぬお世話かもしれんが次の漁の為に又一つずつ組まねばなるまい。それを何度となく繰り返してきたであろう。たくさん獲れることを願うばかりである。少し休まねば体が持つまい。
向うに山国川の橋脚が見える。大正時代にでも架けられたのであろうがモダンである。しかもレンガ造りだ。そういえば佐井川は大正九年だった。やはり橋脚はレンガ造りであった。このような橋脚をそうそう見かけるようなことはないと思う。車で橋を渡ってしまっていてはいつまでもその下の構造は判らぬものだ。やはり歩くことは大事である。(写真:愈々大分県に入る。橋脚を覗く妻だ。)
近くに葛原八幡がある。ここは八幡なのだが左三つ巴である。普通といえば可笑しいかもしれんが、通常ならば八幡は右三つ巴なのである。私の母方の男の紋が左三つ巴で、女の紋が梅である。女方の先祖が豊前で、菅原道真が防府より流れ着いたとき綱を敷き、道真をもてなした。そのときに名前をいただいている。「家令(かれい)」である。もう一方「有門(ありかど)」である。約1100年前のことである。今でもこの二つの名は豊前に存在する。道が反れた。街道を行くからには道が反れることもあるであろう。
ここも旗が立ち並び秋祭りの準備が進められていた。
中津街道が鳥居の目の前を東西に延びている。向うは(西)小倉城下に至る。
この並びには街道であることを知らしめるような佇まいは今となっては微塵もないが、街道であったことだけの様相は呈していると言ってよい。
古表神社を後にして川に沿い山国橋を目指す。目には入っているのだがその距離は意外と遠い。直線は歩くのにはあまり好いものではないようだ。
ところがその途中に旗指物、幡、提灯、注連飾り等が立ち並んでいる。そう秋祭りの時季なのである。稲刈りなど収穫が終わり、五穀豊穣に感謝する例(礼)祭である。土手に沿ったところに神輿のお旅所がある。秋の風物詩に出くわした。丁度いいときに来たものだとカメラを向けた。傍によるのは失礼だと思って望遠で撮る事にした。参加されている皆さんを自然体で撮る事が出来たことは言うまでもない。
神主さんであろう、熱心に話をされておる。「天照大御神が・・・」聞かれておられる方々は緊張しているのかは判らぬが、まんじりともせず傾聴しておられる様子である。古来より見られた風景なのだ。
ただ少し気になったのは若者の姿が見えぬことである。伝統を引き継ぐのは難しいこととなっているのかもしれん。
ここは八幡古表神社である。由緒をまずはご覧頂こう。
ここでは傀儡(くぐつ)を見せる。といっても宇佐八幡の放生会の時に見せるのである。小さな白色の相撲取りが大きな黒い相撲取りを倒すまでを面白おかしく見せるのである。傀儡(くぐつ)と聞けば、伊賀か、甲賀か、根来かの忍者がおどろおどろしく人形を操り敵を倒すというようなことしか思っていなかった。あの白土三平の「サスケ」、横山光輝の「伊賀の影丸」を思い出す。なんのこともあるまい。
一度はここに来てみたかったのである。来た甲斐があったのだ。
参道を振り返ってみた。その距離は長くもなく短くもなく丁度良い。鳥居をくぐり龍の口までに心を鎮めるまでには良い距離なのである。