福留選手がシカゴ・カブスと契約した。めでたい話ではあるし、本人は満面の笑顔だが、外を歩いたのだろうか。私が、初めての海外赴任でシカゴの地に降り立ったのは、ちょうど20年前の、12/18の早朝だった。100m歩いただけで、耳が我慢できないほど痛くなり、駆け出して、ビルの一角に飛び込み、ことなきを得た。数分我慢して歩き続け、耳が凍傷になった同僚もいる。
この季節にシカゴに行って、満面の笑みとは、さすが、大選手だ。
横浜港の七不思議という本を読んだ。開港150周年まで、1年半を切った今、タイムリーな本だが、開港から50年ぐらいの歴史を、真摯に紐解き、一般人にも興味深く読めるように、よくまとまった本で、流行に乗った一過性の本ではない。
改めて、思い知らされるのは、開港時は単なる浜だったのを、いかに、当時の政府(国家プロジェクトだった)が、予算的にも、技術的にも大きな苦労して、大桟橋建設までこぎつけたかだ。明治維新のパワーはものすごいものがあるが、この世界的な港建設もたいへんなパワーが終結した結果だったことがわかる。
財政面で興味深いのは、下関戦争(長州藩 VS イギリス・アメリカ・フランス・オランダ)で得たアメリカの賠償金が返還されたのが、桟橋建設の原資になっているということだ。それまでは、財政難で、作ろうにも作れなかったという。アメリカ側にも、いろいろ思惑はあったかもしれないが、それにしても戦争の賠償金をそのまま返還したというのは、大英断だったに違いない。
初期には、イギリス波止場、フランス波止場、メリケン波止場などがあったらしい。
イギリス波止場は、今は、象の鼻になったもので、入口に、横浜英国領事館があったため、この名になったそうだ。横浜英国領事館は、和洋折衷の奇妙な建物だ(浮世絵が残る)。
フランス波止場の入口には、フランス海軍病院があったそうで、その場所が、今のホテルニューグランドという。波止場は、山下公園の下になってしまった。この建物は、写真が残っているが、これまた奇妙奇天烈な建物だ。和洋折衷の思考錯誤の状況が一目瞭然。
メリケン波止場は、今の大桟橋の前身になるのだが、何故メリケン波止場と呼ばれるようになったのか、定説はないそうだ。著者は、明治中期からアメリカとの貿易量が圧倒的になったからだろうと述べているが、一方で、著者個人的には、アメリカの賠償金が波止場建設の原資になったことから、横浜市民の感謝の意を表しての命名というストーリーだと美しいと述べている。
関東大震災で、これらの波止場は、壊滅的な打撃を受けるのだが、停泊中だった船は、被災者を乗せて神戸、大阪へ避難させ、多くの命を救った。
通信網も壊滅的な打撃を受けたため、船の通信網を使い、横浜ー東京間の通信は、銚子・磐城(福島県)経由で行われ、海外へは、銚子→磐城→ホノルル→サンフランシスコ経由で伝えられたという。インフラの重要性を再認識させられる逸話だ。神戸大震災の時も、この経験が100%生かされたとは言えない。
まだまだ面白い話が満載なので、興味のある方は、どうぞ。
最後にジャガイモの名前の由来が載っていたので一言。400年ほど前、オランダ船がジャカルタから運んできたのが最初なのだそうだ。それで、(ジャガタライモの)名前の由来になった。
明治時代、ジャガイモの種を輸入し、ある男爵が北海道で、栽培したため、男爵イモと呼ばれるようになったのだそうだ。こんなこと知っててもしょうがないけど面白い。