かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

ヤマト王権

2012年05月16日 | Books


岩波新書の日本古代史シリーズ6巻。やっと昨年末に完結した。
第一巻は、ずいぶん前に読んだが、その後は、全巻出るまで待っていた。

本書は、その第二巻。まだまだ考古学が威力を発揮する時代だが、少し文献も出てくる。でも、出てくるものは、どの本でもほとんど同じ。魏志倭人伝、稲荷山古墳出土の鉄剣、石上神宮の七支刀、広開土王碑文などだ。記紀前半については、ご参考程度にしか使えない。でも、いろんな本を読むたびに、いろんな説があることを知る。
それだけ、少ない資料を元に、いろんな人が、いろんな時代に、いろんなことを考えてきたということだ。

たとえば、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の場所。本書は、近畿説をとるが、その根拠の一つに挙げられているのが、15世紀に朝鮮で描かれた日本地図。琉球を北西に置き、九州、本州は、そこから南東に伸びている。こんな風に日本の場所をイメージしていたとすると、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への順路に沿っていくと、邪馬台国は、近畿になる。いろいろ考えるなぁ。でも一理ある。当時の日本なんて、魏から見れば、遠い遠い未知の国だったはずだからだ。
ちなみにこの”倭”という文字は、当初は、さげすむ意味で用いられたという。ところが、ヤマトの王たちは、倭を苗字に使った。当時は、庶民は、姓を持たず、王は、姓を持った。
今と逆。
魏志倭人伝には、卑狗(ひこ→彦=りっぱな男子)とか、卑奴母離(ひなもり)という言葉があるが、これは、(弥生)日本語ではないかと考えられている。中国や韓国と接する前に、日本語はあった。ちなみに、母音は、8つだったという。

卑弥呼は、対外的には親魏倭王としての開明化された顔を持ちつつ、国内では鬼道に仕える未開のシャーマンという、二重の性格をもつ存在であったと評している。

魏史倭人伝に出てくる倭国とヤマトとの関係が謎なのだが、本書では、①倭国としての統合の展開(1世紀末から2世紀初頭)②近畿地方を中心とする定型的規格をもつ前方後円墳秩序の形成(3世紀後半)③ヤマト王権の成立(4世紀前半)と整理している。
史料が絶対的に限られているのだから、本にまとめるには、整理していくしかない。

そして(これは、よく言われることだが)、崇神天皇が初代ヤマト王権の王と考える。
ただ、日本書紀の編者は、魏志倭人伝から卑弥呼を知っており、王家と卑弥呼を結びつけようとした。しかし、ヤマト王権の初代の王が、女性であったという伝承はなく、そのストーリーは、破たんしているという。

当初は、宮は、王が変わるごとに変わった。宮は、家(や)に、敬語の(み)が付き、みやとなったもの。そして、宮が設置された場”処(こ)”が、都(みやこ)。なるほど!家があった場所が都で、その家は、ヤマト王権初期は、王が変わるごとに変わったというわけだ。

古代史は、本当に面白い。でも、同じ資料からだけの議論だと煮詰まっちゃうから、考古学的発見が定期的に出て、喜ばせても欲しいよね。
コメント
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