
岩波新書の日本古代史シリーズの第5巻。
時代は、いよいよ下ってきて、平安時代。当然奈良時代よりもよくわかっていると思ったら、正史が失われていることもあり、意外とわからないことも多いらしい。
平安京に都が移って、明治になるまで、ずっと天皇は、京都を住まいにしていた。明治になって、平安京は、軟弱とされ、奈良時代を範とした改革が行われた。そこで、さらに、平安時代の記録は、失われていくことになったという。
つい150年前のことだが、ずいぶん感覚が違う。
桓武天皇は、天武系の都であった平城京を早く遷都したくて、長岡京に都を遷したが、水の問題、早良親王の怨霊、構造上の欠陥の問題が、すぐ表面化し、平安遷都になった。相当のエネルギーを要したことは間違いない。
坂上田村麻呂の東征もちょうど遷都のタイミング。当時、二つの大事業を同時並行的に行ったいたことになる。794年の正月に、最初の征夷大将軍に田村麻呂は、任命された。残念ながらその詳細は、日本後記が失われているためわからないのだという。
桓武は、なぜこれだけの大事業を次々できたのか。長命であったこと、国力が充実してきたこと、東アジアが混乱期に入り、対外的な軍備が必要なかったこと等がある。
アジアでは、新羅との関係悪化が問題であった。倭国は、中国の中華思想をまねて独自の中華思想=小中華思想を持つようになった。新羅、百済、高句麗などの朝鮮半島の国々や、蝦夷、隼人などにも朝貢を要求した。今の中国のことを言えない国であった訳だ。
中国東北部の渤海との交易も盛んだったという。
9世紀になって、天災が次々と日本を襲った。3.11で有名になった貞観地震、その後の東南海地震。前後して、富士山や、開聞岳や、十和田火山が次々と爆発した。余震が本当に多いが、9世紀のようなことにならぬよう祈るばかりだ。
これまた今話題の、天皇の世継ぎルールにもいろいろ変化が起こった。幼帝の即位と退位。中継ぎ天皇の登場だ。実際は、中継ぎのつもりが、以降も続いていくことになったのだが。
天皇の跡継ぎ問題は、1000年以上前から、試行錯誤だったのだ。
文化的にはひらがなの誕生が大きい。和歌が栄え、あの古今和歌集ができたのもこのころだ。
中国では、唐が崩壊し内乱時代に入るのだが、日本でも、将門の乱が起こり、武士が生まれてきた。武士と言っても最初は、誰でもなれたわけではなく、平貞盛、源経基の子孫が武士とされたという。この二人は、将門の乱制圧にかかわっていた。
武士の時代への種は、もう生まれていたのだ。
まだまだ平安時代は続くのだが。