かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

わが青春のロック黄金狂時代

2007年12月21日 | Music



今日、鹿島で、結構大きい事故があったようだ。先週行ったばっかりで生々しい。これは、太平洋(港の入口)に向かった写真だが、左がS金、右がコンビナートになっている。港は、左後ろ、右後ろに別れ、各々船が入れるようになっている。工業用に作られた港だ。

話は、がらっと変わるが、東郷かおる子さんによる”わが青春のロック黄金狂時代”という本を読んだ。高校卒業後、即シンコーミュージックに入社し、70年代から80年代のロックシーンを(もちろん66年のビートルズの日本公演はご覧になっている)リアルタイムというだけではなく、リアルに体験した数少ない人だ。田舎にいた私にとって、彼女達のレポートが数少ない情報源だった。当時の情報の仕入れ方が、赤裸々に語られるのだが、彼女達も、体当たり(めちゃくちゃ)取材の連続だったことがわかる。当時のロックミュージッシャンの生の姿を伝える記録としても、当時の日本から見たロックシーンの記録としても貴重だ。まだまだ、ロックが商業化されていなかった時代だ。
英語もほとんどわからないまま、インタビューに向かっていった姿勢は、当時の日本の勢いを感じさせる。

当時著作権の関係で公開できなかったKISSとゴジラの記念写真やら、ジミーペイジの賞状を手にしたニヤケタ記念写真やら、アルコールでよれよれのクラプトンの様子やら、ヴァン・ヘイレンの乱キチ騒ぎの様子やら、貴重なショットもたくさんある。

すぐ読めるので、日本のロックファンには、是非一読されることをお勧めする。

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横浜港の七不思議

2007年12月20日 | Yokohama ( Japan )

福留選手がシカゴ・カブスと契約した。めでたい話ではあるし、本人は満面の笑顔だが、外を歩いたのだろうか。私が、初めての海外赴任でシカゴの地に降り立ったのは、ちょうど20年前の、12/18の早朝だった。100m歩いただけで、耳が我慢できないほど痛くなり、駆け出して、ビルの一角に飛び込み、ことなきを得た。数分我慢して歩き続け、耳が凍傷になった同僚もいる。
この季節にシカゴに行って、満面の笑みとは、さすが、大選手だ。



横浜港の七不思議という本を読んだ。開港150周年まで、1年半を切った今、タイムリーな本だが、開港から50年ぐらいの歴史を、真摯に紐解き、一般人にも興味深く読めるように、よくまとまった本で、流行に乗った一過性の本ではない。
改めて、思い知らされるのは、開港時は単なる浜だったのを、いかに、当時の政府(国家プロジェクトだった)が、予算的にも、技術的にも大きな苦労して、大桟橋建設までこぎつけたかだ。明治維新のパワーはものすごいものがあるが、この世界的な港建設もたいへんなパワーが終結した結果だったことがわかる。
財政面で興味深いのは、下関戦争(長州藩 VS イギリス・アメリカ・フランス・オランダ)で得たアメリカの賠償金が返還されたのが、桟橋建設の原資になっているということだ。それまでは、財政難で、作ろうにも作れなかったという。アメリカ側にも、いろいろ思惑はあったかもしれないが、それにしても戦争の賠償金をそのまま返還したというのは、大英断だったに違いない。

初期には、イギリス波止場、フランス波止場、メリケン波止場などがあったらしい。
イギリス波止場は、今は、象の鼻になったもので、入口に、横浜英国領事館があったため、この名になったそうだ。横浜英国領事館は、和洋折衷の奇妙な建物だ(浮世絵が残る)。
フランス波止場の入口には、フランス海軍病院があったそうで、その場所が、今のホテルニューグランドという。波止場は、山下公園の下になってしまった。この建物は、写真が残っているが、これまた奇妙奇天烈な建物だ。和洋折衷の思考錯誤の状況が一目瞭然。
メリケン波止場は、今の大桟橋の前身になるのだが、何故メリケン波止場と呼ばれるようになったのか、定説はないそうだ。著者は、明治中期からアメリカとの貿易量が圧倒的になったからだろうと述べているが、一方で、著者個人的には、アメリカの賠償金が波止場建設の原資になったことから、横浜市民の感謝の意を表しての命名というストーリーだと美しいと述べている。

関東大震災で、これらの波止場は、壊滅的な打撃を受けるのだが、停泊中だった船は、被災者を乗せて神戸、大阪へ避難させ、多くの命を救った。
通信網も壊滅的な打撃を受けたため、船の通信網を使い、横浜ー東京間の通信は、銚子・磐城(福島県)経由で行われ、海外へは、銚子→磐城→ホノルル→サンフランシスコ経由で伝えられたという。インフラの重要性を再認識させられる逸話だ。神戸大震災の時も、この経験が100%生かされたとは言えない。

まだまだ面白い話が満載なので、興味のある方は、どうぞ。

最後にジャガイモの名前の由来が載っていたので一言。400年ほど前、オランダ船がジャカルタから運んできたのが最初なのだそうだ。それで、(ジャガタライモの)名前の由来になった。
明治時代、ジャガイモの種を輸入し、ある男爵が北海道で、栽培したため、男爵イモと呼ばれるようになったのだそうだ。こんなこと知っててもしょうがないけど面白い。

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森永卓郎さん

2007年12月19日 | Topics
森永卓郎さんのセミナーに行ってきた。TVにもよく出てくるから、ご存知の方も多いだろう。典型的なメタボ体型で、オタク系キャラだが、経済学の大学教授だから、おっしゃることは参考になる。また羅列になるが、参考になりそうなことを。

★社会保険事務所には、早く行こう。年金通知が発送され、不払い期間があるとされる年金がボロボロでてきて、来年秋以降パニックになることが目に見えている。今は、もっとも親切な役所になっており、土曜の午前が狙い目とのこと。
★現在日本人の年収の平均は、536万円ほどだが、その半分に満たない人を貧困と呼ぶ。日本は、アメリカについで、貧困率の高い国になった。
★年金制度は、破綻しないようになっている。なぜなら、払えるだけは払うというシステムになっているからだ。現役時代の半分の年金が支払われるというが、実際65歳では半分だが、85歳では、4割ぐらいになる。今のシステムは、現在の出生率と、人生85歳が前提になっているので、それが崩れると、年金額も影響を受ける。85歳の女性が100歳まで生きる確率は、8%もある。
★世界中で、デフレは日本だけ。必ず、インフレになるという前提で、資産運用を考えた方がいい。
★この5年間、GDPは増えたが、大企業の利益や、配当金や、役員報酬にお金が回っており、庶民へは、税金や、社会保険料の増加のため、回っていない。その結果、貧富の差は増大した。政策の失敗といってよい。
★国の借金が800兆あり、問題になっているが、金融資産も500兆あるので、ネットで、300兆の借金に過ぎない。ここで、庶民増税、法人減税、金持ち減税をしようという議論があるが、とんでもない。その上にデフレだと、投資機会が増加する金持ちがますます儲かることになる。定率減税全廃、地方税増税、原油高等で、庶民の生活は、確実に貧しくなっている。
★サブプライムローンの問題で、利上げは、できなくなった。原料高で、スタグフレーションのリスクが高まっている。サブプライム問題の方は、来年1~3月が底で、その後、沈静化するが、増税は、しばらくできないだろう。
★F日銀総裁は、最悪のタイミングで、利上げをしたということで、罪は、大きい。そのため景気の回復が大きく遅れた。次は、毒をもって毒を制すということで、T氏がいいと思うが、多分順当に、M氏になるだろう。
★ということで、投資をしましょうという結論になったのだが、投資する資金がない人は、どうしたらいいのでしょう。
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クリスマスパーティ

2007年12月18日 | Yokohama ( Japan )

クリスマスパーティシーズンが続いている。今晩は、ホテルニューグランドだった。



横浜のホテルニューグランドは、80周年を迎え、大々的にお化粧直しをした。そのおかげで、正面の飛天の像もくっきりと浮かびあがった。芸術品だ。
外の眺めも芸術品なのだが、カメラなしですいません。カメラなしだと、こんな感じ。



今週末は、みなとみらい地区のビルの全館点灯が予定されているので、写真を撮りに行きたいと思うのだが、スケジュールが合わないかもしれない。大忙し状態が続いている。師走だ。

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鹿島

2007年12月17日 | Sports
昨日のサッカーは、両試合とも見ごたえがあった。特に、決勝戦は、カカがすごかった。カカ、カカと騒がれているせいもあるかもしれないが、存在感大。同僚に、しっかり二試合とも見た人がいたが、入れ替えなしで、2万円だったとのこと。サッカーファンにとっては、安いものだろう。



サッカーといえば、Jリーグを制したのは、昨日大活躍の浦和を大逆転した鹿島アントラーズ。
先週、鹿島に行く機会があった。写真は、鹿島のシンボルであるS金属の工場。その他にも、大きな工場がたくさんある。前聞いた川淵チェアマンの話によると、鹿島は、当初Jリーグ入りは難しいと考えられていたが、地元の熱意と努力が認められ、結果的にそれが街づくりにも大きく貢献したという。
確かに、街で見るべきものは、鹿島神宮ぐらいで、ひたすら物を作って頑張ってきた町だ。昭和40年から50年代に発展した工業の町。



街の先端の港を見渡せる場所に、高さ50m以上もある展望塔があったので、上ってみた。今は訪れる人も少ないが、当時の意気込みが感じられるモニュメントになっている。中には、陸側を向いて窓が三つならんでいるのだが、その窓からは、真下が臨め、足がすくむ。トイストーリーに出てくる黄緑色の宇宙人を思い出させるデザインだ。屋上にも上れるが、ふきっさらしで、迫力がある。遠くに、鹿島スタジアムも臨めた。

日本が前向きに力強く前進していた時期に作られた街であり、モニュメントであるが、今もしっかり日本の暮らしを支えている。
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