かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

摂関政治

2012年05月26日 | Books
item2今日は、すばらしい天気。朝もはよから、ゴルフに行ったが、スルーだったので、11時には、終了。いろいろ溜まった仕事も曹ッて、有意義な一日が送れた。
天気とスコアが比例しないところが問題。



岩波新書 日本古代史シリーズの第六巻。最終巻だ。
正直、この辺になると古代史という感じはしない。そのイメージは、読後も変わらない。
本書は、平安時代の中でも、摂政関白の時代を中心に描かれている。

やはり、メインは、藤原家。最初は、幼帝を補佐するために、摂政が生まれたが、その後、天皇の補佐をするため、関白が生まれた。両方ともその初代は、藤原基経なのだそうだ。
藤原家は、それから次々と姻戚関係を結び、天皇家に食い込み、実権を握るようになった。
明治天皇が、奈良時代をめざしたのは、平安時代以降の、天皇が実権を失いつつある時代を、元に戻したかったのだろう。

本書では、当時の絵や、日記を通して、よりリアルに当時の公家や庶民の生活を描いている。祇園祭りは、当時からの祭りで、神輿、行列、見物人が、祭りの三点セットだったという。年中行事絵巻に楽しく描かれている。
葵祭り(当時賀茂祭)が、官の祭りで、祇園祭りが、民の祭りと言えるという。
その祭りが今まで続いているのだから、すばらしいことだ。
そういえば、先日の祇園での事故は痛ましかった。どうもドライバーの病気が原因のようだが、よくわからない。続報がないなぁ。

本書で、元寇の前に、日本が攻められたことがあることを知った。刀伊という女真族が攻めてきたのだ。船50隻で攻めてきて、この前ゴルフをした志摩あたりに上陸したのだという。1週間で退散したそうだが、この事件をきっかけに外交がますます消極的になったという。
その傾向は、明治まで変わらなかったということか。

この6冊を読んで、この時代に、日本国の基礎、日本人の基礎、日本文化の基礎、日本人のメンタリティなどが、形成され、今に引き継がれていることが感じられた。
日本の歴史は凄い!

もちろん中国などは別格なのだけど、今に繋がっているという意味では、日本に比べられる国はあるのかな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平安京遷都

2012年05月25日 | Books


岩波新書の日本古代史シリーズの第5巻。

時代は、いよいよ下ってきて、平安時代。当然奈良時代よりもよくわかっていると思ったら、正史が失われていることもあり、意外とわからないことも多いらしい。
平安京に都が移って、明治になるまで、ずっと天皇は、京都を住まいにしていた。明治になって、平安京は、軟弱とされ、奈良時代を範とした改革が行われた。そこで、さらに、平安時代の記録は、失われていくことになったという。
つい150年前のことだが、ずいぶん感覚が違う。

桓武天皇は、天武系の都であった平城京を早く遷都したくて、長岡京に都を遷したが、水の問題、早良親王の怨霊、構造上の欠陥の問題が、すぐ表面化し、平安遷都になった。相当のエネルギーを要したことは間違いない。
坂上田村麻呂の東征もちょうど遷都のタイミング。当時、二つの大事業を同時並行的に行ったいたことになる。794年の正月に、最初の征夷大将軍に田村麻呂は、任命された。残念ながらその詳細は、日本後記が失われているためわからないのだという。

桓武は、なぜこれだけの大事業を次々できたのか。長命であったこと、国力が充実してきたこと、東アジアが混乱期に入り、対外的な軍備が必要なかったこと等がある。
アジアでは、新羅との関係悪化が問題であった。倭国は、中国の中華思想をまねて独自の中華思想=小中華思想を持つようになった。新羅、百済、高句麗などの朝鮮半島の国々や、蝦夷、隼人などにも朝貢を要求した。今の中国のことを言えない国であった訳だ。
中国東北部の渤海との交易も盛んだったという。

9世紀になって、天災が次々と日本を襲った。3.11で有名になった貞観地震、その後の東南海地震。前後して、富士山や、開聞岳や、十和田火山が次々と爆発した。余震が本当に多いが、9世紀のようなことにならぬよう祈るばかりだ。

これまた今話題の、天皇の世継ぎルールにもいろいろ変化が起こった。幼帝の即位と退位。中継ぎ天皇の登場だ。実際は、中継ぎのつもりが、以降も続いていくことになったのだが。
天皇の跡継ぎ問題は、1000年以上前から、試行錯誤だったのだ。

文化的にはひらがなの誕生が大きい。和歌が栄え、あの古今和歌集ができたのもこのころだ。

中国では、唐が崩壊し内乱時代に入るのだが、日本でも、将門の乱が起こり、武士が生まれてきた。武士と言っても最初は、誰でもなれたわけではなく、平貞盛、源経基の子孫が武士とされたという。この二人は、将門の乱制圧にかかわっていた。
武士の時代への種は、もう生まれていたのだ。
まだまだ平安時代は続くのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平山郁夫シルクロード美術館

2012年05月24日 | Culture・Arts



最後に、恒例行事になってきた、平山郁夫シルクロード美術館に行った。

毎回毎回、展示替えが楽しみだ。

今回の企画展は、”平山郁夫高句麗古墳を描く”。

平山さんの普段の活動を知らなければ、何故あのとんでもない北朝鮮に何度も行って、かつ世界遺産指定をサポートするんだと思われただろう。
私も、当初そう思っていた。

でも、平山さんにとっては、北朝鮮の、特に古墳壁画を研究することは、ライフワークの中の必然だった。
卑弥呼の墓の壁画を想像して描いた平山さんの作品は、後に高松塚古墳の壁画が発見され、その人物像が酷似していることが、たいへんな話題になった。
その元になったのが、高句麗の古墳の壁画だ。
その古墳を、1997年より、何回も訪れる機会を得ることになった。

古墳の壁画の模写だけではなく、周りの風景、案内してくれたガイドさん(もちろん歓び組タイプ)、板門店など、いろいろ描かれているが、皮肉なことに、素朴な亜細亜を描いた作品群になっている。
政治さえ普通になれば、悪い国ではないのだろう。国民が、可哀そうだ。

高句麗の古墳に描かれた四神が、高松塚や、キトラのものと極めて似ていることと、サイズが、全然でかいことがわかる。
同じサイズで、高句麗の古墳が再現されていて、これも大迫力。
その再現は、平山さんが、二度学長を努めた、東京芸術大学によってなされたというが、単なる印刷ではなく、岩絵具や、岩をすりつぶしたものを塗ることにより、よりリアルなものに仕上がっている。
その中でも一番鮮やかな朱雀の絵については、いろんな再現法が、比較できるように展示されていて、面白い。

壁画は、高松塚のケースでもわかるように、たいへん痛み易いので、展示は、難しい。昔、キトラの玄武の展示を見に行ったが、凄い行列で、とても小さいものだった。
この技術によって、古墳に親しめる施設を作ったら、古墳へ興味を抱く人も増えるだろう。

小さな仏様の展示もあり、時代の古いものが多く興味深い。
日本に最初に伝わった仏像も、小さな、金属製のものだったと考えられている。

二階は、大シルクロードシリーズの展示。
単品では見たことがあった、巨大な、朝・夕キャラバンシリーズを左右対象に並べ、その向かう方向に、ペルシャ、ローマが配されるという、ダイナミックな展示だ。
一つ一つの絵を描かれた時に、このように展示する構想を描いていらっしゃったという。
亡くなられてから、実現したことになる。

平山さんの活動と、それを引き継いでいらっしゃる方の活動に感謝である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下部温泉 松葉杖供養祭

2012年05月23日 | Other Eastern Japan


泊まったのは、下部温泉。身延山の近くの宿を探したら、ここになった。
泊まったこの宿は、源泉のすぐ近くで、下部温泉の元祖的な存在らしい。
信玄の隠れ湯を呼ばれる風呂など、3つのお風呂が、あるが、12部屋しかないので、ゆっくりとくつろげる。ぬるめで、落ち着ける湯だった。
そのすぐ後ろに熊野神社がある。



行った日が、たまたま松葉杖供養祭の日で、夕食後出かけてみた。
二人の神官が入場し、祝詞をあげたのち、街の重要人物が、替わる替わる参拝。
この松葉杖供養祭は、下部温泉で湯治をし、治って不要になった松葉杖を、熊野神社で、年に一回供養したのが始まりという。
今、松葉杖が金属製になり、供養祭で、燃やすのは、この祭りの供養のために作られたものという。
会場も、熊野神社だったものが、下部町が、身延町に合併されたため、より入口に近い今の会場に移された。
伝統が守られているというのか、形骸化しつつあるというのか....
昔からの下部町の人にとっては、ちょっと遠い祭りになってしまったなという寂しさもあるようだ。
平成の大合併の弊害というか、しょうがないというか。

点火すると、勢いよく火が燃え上がった。



キャンプファイヤーのように、どんどん燃える。



そして、天狗が奉納の舞を。



奉納の舞が終わったら、お神酒をみんなでいただける。
お得感いっぱい。
おまけに、NHKのクルーが来てたようで、翌朝の地元ニュースで、放送された。
流石プロだけあって、よく写っていた?



翌朝、下部温泉の奥にある湯の奥地地区にある門西家住宅に行ってみた。
下部川沿いに、かなり上ったところにあり、最後は、この坂を歩いて上ることになる。
この辺も下部の一部らしいから、相当細長い町である。



これが、門西家。重要文化財に指定されている。江戸中期の建物という。
まだ、一般の方が住んでおられ、中にはいることは憚られたたが、案内板に家の構造等が説明されていて、様子はわかった。
約300年も、この地に存在していたと思うと、感慨深い。



三分一湧水にある蕎麦屋で、手打ち蕎麦をいただいた。Good!
この写真じゃわからないが、混んでいてびっくり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身延山久遠寺 

2012年05月22日 | Other Eastern Japan


今回のメインイベントは、身延山久遠寺。
日蓮宗の本山だが、今まで行く機会がなかった。
これが、三門。
壮大な門だが、明治時代の再建になる。



三門から、久遠寺を訪れる人は、ほとんどいない。なぜなら、この階段が急すぎる。
江戸時代に作られたそうだが、全部で、287段あるという。
一段一段の高さも高く、私は、片道降りただけだが、登って来た人は、へとへとになっていた。
階段の脇に、男坂と女坂があり、またその脇に、自動車用の道路があるので、下から行く人は、三門を見てから、脇道を登った方がいいだろう。



ほとんどの人は、本堂のすぐ下にある駐車場にまず着く。そこから、斜めに移動するグッドデザインのエレベーターがある。
五重塔が再建された時に、同時に作られたものというが、屋外エスカレーターで済むものを。資金の豊富さを物語る?



エレベーターを降りると、すぐ本堂だ。
明治に焼けてしまい、昭和60年の再建だが、立派なもの。
天井には、加山又造さんの、迫力満点の墨竜図がある。

地下には、宝物館がある。
日蓮聖人の曼荼羅本尊が目当てだったが、模造品の展示だった。
晩年の肖像画では、人間味あふれる日蓮聖人のキャラが思わされる。
日蓮聖人は、伊豆と佐渡と、二回流されたのち、この身延山を、祈りの場にした。
元寇が、現実のものになったころだ。



五重塔は、2008年に再建されたばかり。現代の寺院建築の英知を結集して、再建された。
すばらしいお姿である。



本堂隣にある祖師堂。枝垂桜でも有名。



御真骨堂は、拝殿の奥にある。お堂はすべて内部でつながっている。端から端まで、ずいぶんあった。



紹介していると切りがないので、ちょっと降りたところにある草庵跡を。久遠寺発祥の地である。
その隣に、草庵を再現した法界堂がある。
小さな建物だ。



その奥に、日蓮聖人のお墓がある。手前の拝殿に、お祈りする方々が訪れていた。
この山の中に、これだけ壮大なお寺を作り上げた日蓮宗のパワーに感服。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする