森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

約8年 その10

2022-06-21 23:00:31 | ランダム自分史

コロナ禍だったので、「月一実家帰り」と言うのを止めていましたが、そろそろ再開しようと思い、6月4・5・6日に横浜に帰ってきました。

この日に合わせて名都さんもやって来たので、夜は久しぶりの(元)女子会になりました。

私はこの時、スノウさんとの思い出を語り、みんなでゲラゲラと大笑いしながら楽しい夜を過ごしたのです。

思わず

「なんだよ~。こんなに面白い話をしてるってのに、何で主役のスノウさんがいないのよ~。」と言ってしまいました。

すると名都さんと蝶子さんが、「いや、きっと傍に居るよ。」と言いました。

「そうか。じゃあ、その辺にだね。」と、何故か一人分の空間が空いている場所を指さして言うと、本当に彼女がそこに居て笑っているような気がして、思わず微笑み、そしてまたウェーンと子供のように泣きたくなってしまいました。

私は今でもそんな事ばかり繰り返しているのです。

 

・「約8年 その9」の続きです。

その記事の中で

>『この年は、スノウさんとラッタさんと私だけでお風呂に行ったことがあるんです。→「横浜みなとみらい万葉倶楽部」

この記事を読んで、なんとまあ、私はツマラナイお出掛け記事なんかを書いているんだろうかと思いました。実はこの時とんでもない事が起きたのですが、ちょっと1行とか2行とかでは書ききれないので、また別の記事で書きますね。

スノウさん怒らないでね。だってそれは私にとっては大事な想い出なんだもの。』

 

このお風呂に行く1,2か月前、やはり姉妹で実家に泊まったある夜の事です。

姉妹の中でスノウさんと名都さんだけが酒豪です。飲まない母がビールを買っておくのは、この二人の為にでした。

夜、姉が自分の家に引き上げた後、二人の酒盛りが始まりました。ビールが無くなると「こんな所に日本酒もあった。」とその酒盛りは続きました。最初は私も参加していましたが、私はたいして飲めないので、すぐに酔っぱらい二人との会話に温度差が生じてきた頃に、お布団の中に「寝ます。」という理由で退散しました。

だけど耳元でずっと大きな声で二人が話しているのですから、寝られたものではありません。

でもそんな二人も眠さに負ける時間がやって来て、そして沈黙の時間が訪れました。

(言っちゃあなんだけどね、私はその後も目が冴えて寝られなかったんだからね。)

翌朝、姉から義兄から、果ては姪っ子からも、「昨日は盛り上がっていたね。2時くらいには寝たね。」と言われました。嫌味ではなく優しい言葉で言われましたが、私はスノウさんからも名都さんからも「お姉ちゃん」という立場の人なので、このお風呂の為に待ち合わせをした時にラッタ君を待つ間に言ったんです。

「あの時、みんなが『2時くらいまで』とはっきり時間を言ったのは、それまで寝られなくて、静かになったので『今は何時何だろうか。』と思わず全員、皆それぞれの場所で時計を見たからだと思うな。やっぱりやり過ぎだったと思うよ。」

「そうか。じゃあ、謝った方が良いよね。」

「うん、軽く、お兄さんには「この前はすみませんでした。」くらい言っておいた方が良いかもね。」

そんな事を言っている間に、ラッタさんも待ち合わせ場所に来たので目的地まで歩き始めた私たちだったのです。

 

そのうち目的地の「万葉倶楽部」が見えて来て、初めて行く場所にワクワクしたその時、背後でドサッと言う音がしました。

振り向くと !

えっーーーーーーーー!!

スノウさんが腹ばいで倒れていたのです。

「えっ、何をしてるの?」と思わず言いかけましたが、

何するわけもありません。転んでしまったのです。見ると歩道のタイルに5ミリから10ミリの間の段差があったのです。

意外とこれ、危ないのですよね。

「ちょっと、手首大丈夫?   立てる? 私たち大丈夫だから,今日は止めておく? いや、それより救急車を呼んだ方が良いかな。」

ええと、こういう場合は、呼んでも良いよね。どこを打っているのか分からないわけだから。ああ、いや、立てたらタクシーか。でも病院は何処に。ええとええと、と凄く短い時間にワアッと考えていたら、スノウさんが言いました。

「何言ってるの。『万葉倶楽部』は目の前よ。私は行くわよ。大丈夫立てるから。」

えっーーーーーーーーー!?

行くんだ !?

スノウさんは、本当にお風呂好きだなあと思いました。

(画像の下に続きます。)

その後は、リンクした記事に書いたような楽しい時間を持ったわけですが、お食事の時、私は言いました。

「私さぁ、さっき振り向いた時、一瞬状況が分からなくて、思わず笑っちゃった~。何してるのって。」

「なんてやつだ !」とスノウさん。

そこにラッタさんの一言が、

「いや、あの状況は笑う。実は俺も、思わず笑った!!」

「なんてひどい親子だ!!」

「わはは」

「だけどね、確かに私、謝った方が良いとは言ったけれど、謝る人が傍に居ないのに、何で今謝ってるのって思ったわ~。しかも最土下座だなんて。」

これは元ラーメンズの片桐仁さんの持ちネタで「99.9刑事専門弁護士」でもやっていた、最土下座を知らないとあまり笑えない話です。

もしくはちょうどその頃公開された、阿部サダヲさんの「謝罪の王様」とか。

「謝んなきゃ、謝んなきゃと思って歩いていたからか、真面目だからさぁ私。ついつい、謝っちゃたわ~。」とスノウさん。

 

その日は楽しく時間を過ごした後、私は実家に、スノウさんとラッタさんはそれぞれの家にと解散したのでした。

数日経ってから、気になってスノウさんに連絡しました。打ち身は後から来るからです。するとスノウさんは言いました。

「あの日、家に帰ってから、私一晩中痛くて痛くて寝られなかったの。」

「えっ、何で ? 手首も捻ってなかったし、足も大丈夫に見えたのにね。」と私が言うと、

「肋骨が折れていたのよ。」とスノウさん。

えっーーーーーーーー !!

手首や足ばっかし見てしまったけれど、本当に手も足も出なくて、胸から転んでしまったのかと思いました。

とにかくスノウさんは、手術とかもそうだけれど、痛い目にばかりあっていて本当に可哀想だったと思いました。、このお話もやはり最後は痛い目にで、何とも言えない悲劇。

それなのにこの話の思い出話をしている時、何故か楽しく語りみんなを笑わせている私は、やっぱり酷いやつだと思います。

だけどやっぱりそこにスノウさんがいたら、彼女だって「大変だったんだからね。」と言って笑ったと思います。

(画像の下に続きます。)

だけどあの夜・・・・・

ふたりの酔っぱらいの会話を、私は布団の中で寝たふりをしながらじぃぃっと聞いていた。

何と二人は泣き上戸だったのか!?

スノウさんが泣きながら語る。

「たくさんいろんなものを失って来たけれど、だけど私、何にもいらないのよ。愛が欲しいの。愛だけが欲しいの。」

私には、それがただの酔っぱらいの言葉だとは思えなかった。

私は彼女の言葉に耳を澄まし、そして胸に刻みつけた。彼女の欲しい「愛」が何なのか、私には分かったから。

名都さんも語る。

「分かるよ~。私だってずっと寂しかったよ~。」

あっ、それは分かるよ。年の離れた姉を持って、名都さんの子供時代は、本当に寂しかったと思うから。

だけど父と母の末娘への溺愛が、私たちの距離をさらに広げていたって事、彼女は知らないだろうなぁ。

それでもね、父も母も普通に愛情深い人だったよ。

家はいつも賑やかで、そしてやっぱりいつもみんなで笑ってた。

それなのに、何で私たちはいつも心の中の孤独を埋められずに、時にはその孤独のせいで、自分に自信が持てず、世界の片隅で膝を抱えて拗ねていたんだろう。

スノウさんがもっと元気で生きていたら、みんなでやっとそんな話も出来る年頃になれたんじゃないかなと、私は思うんだ。

そう思うとね、やっぱり私は深い溜息をついちゃうんだよね。

 


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約8年 その9

2022-06-01 00:20:09 | ランダム自分史

約8年 その7

の記事内にリンクした、「想い出のアルバム」は寧ろ、この記事に似合っていたと思います。

だからまた下に違うバージョンの物を貼っておきます。

「その7」「「8年 その8」は、いわゆる番外編のようなものでした。

約8年 その6」の続きです。

 

乳癌の手術をした後、かなり苦しい抗がん剤の治療を終えると、やっと私たちに春が来たような気持ちになる事が出来ました。

私たちはその春がずっと続くと信じていました。

なぜなら姉の蝶子さんも乳癌を患い、10年後の最後の診察の時に、また癌が見つかり、約20年の時を経て寛解に至ったからです。

スノウさんもこれから時を経て、完全に治っていくのだと思っていました。

 

それで、少し良くなった時に、快気祝いとはいかないので応援と言う意味で、みんなで伊東に旅行に行きました。

この時の旅行記はこちらです。→「伊東の旅(2015年7月)」

 

この時、坂道の向こうに見える海を見ながら、スノウさんは言いました。

「病気が治ったら、こういう所に住みたいわ。」

我が家は結構妄想家族です。彼女がそう言ったので、みんなでスノウさんが海辺の家に住んだ時の事を話し合いました。

スノウさんのお連れ合いさんはフリーランスの方なので、東京に置いてけぼりで、時々通ってもらうとか、逆に私たちが入り浸るとか盛り上がりました。スノウさんはかなりの酒豪なので、新しい土地に来ても、地元のスナックとか見つけていつの間にか常連になり、そしてまた常連客の人気者にもなってしまったりして、ふと気がつくと、そこで働いていたりとか・・・・・・なーんてことを楽しく考えたりしました。

なんだかそれは、非現実的な妄想ではなく、本当にスノウさんの未来に起こり得る現実のような気さえしたのです。

 

2015年7月のスノウさんは、すっかり元気な人。

何でもすぐ「帰る~」と言う母に従って帰る蝶子さんと名都さん、その時ガソクエンと言う足の病気を患っていて逆に一刻も早く帰りたかった私(翌日病院に行って分かった。)に、スノウさんは駅で言いました。

「私、物足りないから、もうちょっと娘と遊んで帰るわ。せっかく来たんだもの。」と。

― いや、その気持ちは分かるよ。私だって足さえ痛くなかったら、もうちょっとと言う時間だよ。

と、私は思いました。なんだか逆に、スノウさんがそんな気持ちになっていたことが、私は嬉しかったような気がしました。

2015年は、みんなで世田谷散歩にも出掛けました。松陰神社に行ったり長谷川町子美術館に行ったりしたんです。だけど一番印象深かったのは「古無門」と言うお店でスノウさんがもんじゃを焼いてくれたことだったかもしれません。→古無門にて(世田谷散歩その2)

 

2016年、スノウさんは元気。

皆で街中温泉、つまりスーパー銭湯にはまりだしました。

浅草の「まつり湯」に行ったり(ああ、笑ったね♪ その2)

「大江戸温泉物語」に行ったりしました。

萩尾望都さんが好きな私とスノウさん。姉妹で「萩尾望都SF原画展」にも出掛けました。もちろんついでに井之頭公演も散策しました。

 

2017年、スノウさんは元気。

やっぱりスーパー銭湯に行きました。→「おふろの王様」/大井町

この年は、私の節目の年で、やっぱり母の招待で旅行に行きました。→まったく無理をしない「四万温泉旅行記」その1

この「まったく無理をしない・・・」の記事は5記事も書いた旅行記で、かなりいい旅でした。

スノウさんが「もうバスの旅行は疲れるから止めよう。」と後から言い、「何もしないくせに文句だけ言う。」と珍しくさりげなく怒った事を書きこんだ記事でもありました。

その年の7月、上星川にある「満天の湯」に行きました。→「街中温泉マニア」を目指す♪

私たちのお出掛けが、スーパー銭湯が多いのは、そんな理由からだと思います。

この年は、スノウさんとラッタさんと私だけでお風呂に行ったことがあるんです。→「横浜みなとみらい万葉倶楽部」

この記事を読んで、なんとまあ、私はツマラナイお出掛け記事なんかを書いているんだろうかと思いました。実はこの時とんでもない事が起きたのですが、ちょっと1行とか2行とかでは書ききれないので、また別の記事で書きますね。

スノウさん怒らないでね。だってそれは私にとっては大事な想い出なんだもの。

 

その2017年の年末、私たち4人は行ってみたかった迎賓館に行きました。→「迎賓館赤坂離宮」12月特別参観に行ってまいりました♪

その帰りに、駅の近くのレストランで食事をしました。

私たちはその前に日比谷のクリスマスマーケットに参加してきたのですが、迎賓館から参加のスノウさんは、気合を入れて化粧をしてきたのか、凄く綺麗に見えました。レストランのテーブルの傍を通って出て行く人が、彼女をチラッと見ました。私は姉なので、そういうのはちょっと得意な気持ちになるのです。

だからそれを彼女に伝えると、彼女も得意そうな顔になって「そうでしょう。」と言いました。

でもこの時彼女は薬の副作用もあって、ブクブクに太っていて駅の改札なんかで待ち合わせをすると、彼女の事が見つけられずにキョロキョロしてしまう事もあったのでした。

それで人の悪い私は言いました。

「『おお、なんて美しい人だ。』って顔見て思うじゃん。通り過ぎて、名残惜しいなと振り向くじゃん。『あれっ、さっきの美しい人は何処だろう。確かあの太った後姿のご婦人の辺りに座っていたはずなんだが。』ってなるな。」

「じゃあ、幻の美女って事だね。」と人の悪い事を言っていても、なんとなく笑い合えた私たち。(結局褒めているからね。)

 

2018年もスノウさんは元気。

2月には「縄文温泉/志楽の湯」に行きました。

8月には綱島源泉湯けむりの庄

9月は「二回目の「万葉倶楽部」」

10月には、母、姉妹、孫たちを引き連れての山梨旅行をしました。一族で旅行に行けたのは、これが最後になってしまいました。

記事もたくさん書いたけれど一応これを載せておきます。→下部温泉に来た理由(母の終活)

この年の2月には、スノウさんと名都さんと三人で「ポーの一族」も見に行く事が出来ましたね。

宝塚花組公演「ポーの一族」を観てまいりました♪

その6月には実家にて母も姉も交えて、「「ポーの一族」のDVDの鑑賞会(実家にて)」をする事が出来たのでした。

 

2019年1月、こんな記事を書きました。

→「自由が丘に行きました。」

でもこれは「お出掛け日記」ではありません。2018年末の検診で肺に白い影が映ってしまったスノウさんの再検査と、その結果を一緒に聞くと言うのが、その街を訪れた理由だったのです。

私たちの春は終わってしまいました。

 

【まあるいテーブル】童謡・思い出のアルバム

 


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約8年 その8

2022-05-06 18:00:29 | ランダム自分史

早いものでもうすぐスノウさんの49日がやってきます。

「約8年 その7」の続きです。(『その1』から『その6』まではその記事にリンクしています。)

じゃあ、その49日になる前に、小さな告白をしておきましょうか。この話には姉の蝶子さん、スノウさんが登場してきますが、私はずっと口を閉じ真実を語らなかったので、二人とも知らないお話です。と言うよりも、そもそも覚えているような事ではないのです。

それは私のちっぽけ過ぎる罪と罰の物語。

このお話には、かなり嫌な女の子が出てきます。それって、私の事ですが。

だけれど中学生の国語の教科書にも長年載っている、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の想い出」の主人公の少年だって、友人の自慢の蝶を盗み、それを屈折した自分の心のせいで、その蝶をくしゃくしゃにしてしまうと言うクソガキ・・・いやいや・・・成長途中の少年が出てきますし、作者名は失念しましたが、どうしても欲しいからとロクタルカンを万引きして、それが壊れていたからって、真夏の夕方をひとり黄昏ている様な、まったく庇いたくもないような少年が出てきます。

だからって言い訳にはなりませんが、みんなそうして学び大人になっていくのだ !!  ←無理やり^^

 

それはいつの事だったかしら。たぶん私が小学校1年生から4年生の間。

とにかく名都さんが生まれる前のスノウさんは、我が家の王女様でしたから、なにげに我儘。

だけどまだ幼児なわけですから、いろいろと当たり前のことだったのです。

例え人の物をかってに触り、ひっくり返して片付けなかったとしても。

だけどある日、私はキレました。

そして泣きました。

まだ新しかった色鉛筆のケースをひっくり返して、色鉛筆たちが部屋中のあっちこっちに散乱していたからです。

「もう嫌だから!!」とヒステリックに泣く私を慰めて、姉の蝶子さんが言いました。

「大丈夫だよ。無くなっちゃってたり折られちゃっているものがあったら、みんなお姉ちゃんが買ってあげるから。」

それで私は泣き止んで、寧ろ、また新しい鉛筆を買ってもらえることが嬉しく感じてていたのです。

それで部屋中に散乱していた色鉛筆を片付け始めたのです。

ところが、鉛筆は1本も無くなっていないし、それらは皆芯さえも折れていなかったのでした。

普通なら「なーんだ、ああ、良かった。」で終わった日常茶飯事な出来事でした。

だけどその時、ふと、先程大泣きをしてヒステリックに騒いだ自分を思い出し、なんだかバツの悪い気がしてしまったのでした。

そしてとんでもない事に、私は二本ランダムに鉛筆を選んで、ポキリポキリと折り、蝶子さんに「ほらねっ。」と言って見せ、そしてスノウちゃんが如何にとんでもない子なのだと訴えたのでした。

 

「じゃあ、約束したから買いに行こう。」と蝶子さんは言って、そして二人で近くの文房具屋さんに行きました。

そこには色鉛筆のばら売りのコーナーがあって、私はいつも、そのコーナーを意味もなく見る事が楽しみでした。

同じ色が何本もひとつの所に納まっていて、それが何種類も並んでいる、それが綺麗で楽しくワクワクさせるものがあったからです。

そしていつか私もそこから、鉛筆を抜き出してバラバラと買いたいなと思っていたのです。

チャンス到来です。

スノウちゃんにも蝶子お姉ちゃんにも、少々の罪悪感を感じながらも、私はちょっと嬉しくなってそのコーナーに行きました。

ところがー。

 

私は吃驚し、そしてがっかりしてしまいました。その色鉛筆コーナーに、私が抜き出して折った二本のその色たちだけが1本もなかったのです。

本当にそれらの色だけ !?

お店のオバサンに聞いたら、そのコーナーは、ほとんど売れないから、もう補充しないと言いました。

私はしょんぼりして、そのお店を出ました。

不機嫌な顔をして歩く私に、「仕方がないよね。」と蝶子さんは慰めようとしてくれたと思いますが、私がブスッとした顔をしていたのだとしたら、それは不機嫌だったからではなくて、恥ずかしかったからにほかなりません。

 

ほらねっ。

如何に子供の頃の事だったとしても、こんな事は言えなくても無理はないと思いませんか。カッコ悪すぎる・・・・。

だけど今思うと、姉妹で集まった夏の夜などにスイカなどを食べながら、こんな話をしたならば、きっとスノウさんは笑いながら言ったんじゃないかなと思います。

「やーい、罰が当たったんだ。」ってね。

 

そう。これは私のちっぽけ過ぎる、罪と罰の物語。

 

だけど何をいまさらですが、大人になってからだいぶ経ちました。

その大人の目で、この話を思い出すとき、これは本当は罰の物語ではないのではないかと感じるようになったのです。

私は「仏はじっと見ているぞ。」と言うような言葉が、意外と好きなんです。

誰もあなたの行動を見ていなくても、または分かってくれなくても、見えない何かが見守ってくれていて、そして分かってくれているのだと言う言葉です。

卑屈な言い方ですが、私なんぞは他者から見たら、あまり存在感がないと言うか・・・

だから本当は、「それ、私がいなかったら成り立たなかったのでは ?」と思うようなことでも、あまり他の人から見たら認められていないような気がするのです。

だけどだからと言って本当には卑屈になどならないし、自己肯定感もさほど低い方ではありません。

「あまり存在感がない」と言えてしまうのは、その自己肯定感が低いからではなくて事実だからです。

それなのに、なぜ卑屈にもならないかと言えば、その見えない何かが、私を見守っていてくれているからだと感じているからです。

 

あの時、ランダムに選んだその二本の鉛筆の色だけがなかったー。

見えない何かが、私にその色を選ばせたー?

 

もしもあの時、ほんのちょっぴりの罪悪感と共に新しい鉛筆を手に入れてしまったら、私のその後の人生は、ほんの少しだけ角度を変えて進むことになってしまったかも知れません。もしくは、その後に感じた罪悪感は「ほんのちょっぴり」なんてものではなくなってしまったかも知れません。

やっぱり私は、見えない何かに守られていたんだなと思うのです。

 

だけどこの話はスノウさんにも蝶子さんにも、ずっと話せなかった私の秘密。

 

この記事は、書き始めた時と書き終わりの間で、少々時間が経ってしまいました。

5月4日にスノウさんの49日が終わりました。

スノウさんの最後の日々に、私はあまり悔いはないのです。私の知恵の範囲で出来る限りの事はやり切ったからです。

だけどそれでも私は思います。

 

もっといっぱいもっといっぱい、お話したかったなぁと。

そんな事を考えながら、やっぱり一人で時々泣いています。

誰も私が、そんな風にメソメソしているなんて知りません。

49日の席でも、しんみりなどしていませんでした。

写真を撮る時、うっかりと(^^)vサインなんかをして、「これはナイナぁ。撮り直して。」とか言ったりしたりして。

たぶん私が泣き止むのは、このシリーズが書き終わるころかもしれません。

 

またランダムに続きます。


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約8年 その7

2022-04-28 09:36:35 | ランダム自分史

・「約8年 その6」の続きです。

スノウさんの乳癌の辛い治療が終わって、私たち4人にとって、普通の穏やかな楽しい時間が戻ってきたように感じました。

今思うと、それは以前よりもずっと濃密な時間だったようにも思うんです。

 

それでも、それは私だけの感覚だったのかもしれませんが、私とスノウさんの間にはいつも川が流れていたように思うんです。

その川は小川のようなもので、いつでも跨いで行ったり来たり。だけど確かにその川はあったのです。

 

彼女は私にとっては美人でキラキラしている自慢の妹でした。

私は親バカならぬ家族バカなので、友達にも平気で遠慮する事もなく

「妹は美人なんだ。」と自慢していたのです。

だけどある時から、私は「姉妹が3人もいると、やっぱり相性が合わないのもいるよね。」などと言うようなことを言っていたと思います。

最初に書いてきた子供の頃の姉妹の確執みたいなものを引きずっていたかも知れませんが、それを言うには、それなりの理由があったのですが、それはまた別のお話です。

だから私とスノウさんが、二人だけで出掛けたと言うのは、本当に数が少なくて片手の回数あったか疑問です。

 

その中の、私にとってはちょっぴり大事な想い出のお話を聞いてください。

別に素敵なお話と言うわけではありませんが、彼女の人生にとってはかなり重要な分かれ道に、私は居たなと今でも私は思っている話です。

 

スノウさんは高校を卒業した後、けっこう名前のある劇団の養成所に行っていました。

研修期間が終わって、その劇団に残れるのはほんの一握りです。

スノウさんが、あの子が一番上手だよと言った人は、朝ドラを含めて毎シーズン見ない事はないと言う俳優さんになっているのですが、その人が同期で、卒業公演のお芝居に主役で出ていました。一番上手だよと妹が言っていたので、彼は残って、その劇団の人かとつい最近まで思っていたのですが、実は妹同様に落ちて他の所に移っていたのでした。

その劇団に残れなかったら、他の場所を探さなければなりません。

 

ある日スノウさんが、「ここを受けてみようと思うんだけれど、ひとりで行くのが不安だから一緒に行ってくれない ?」と言ってきました。

もちろん二つ返事です。

渋谷のちょっと裏に入ったところに、そのビルはありました。

別に暗い道とか言うのではなく、普通に人通りの多い明るい道にそのビルはあったのです。ところが私は、そのビルの前で止まってしまいました。

細い階段を上ると、「探偵事務所」と書かれていても不思議はないようなドアが見えました。

なぜ「見えた」と書いているのかと言うと、私はその細い階段を上っていくことが出来なかったからです。

あがっていく勇気が出なかったからです。

 

振り向くと、ちょうどいい所に喫茶店がありました。二階の窓際に人は見えなかったので、私はスノウさんに言いました。

「あそこに座って、しばらくここを観察しない?」

「うん、そうする。」とスノウさん。

 

私たちはあまり話もせずに、じっと窓の外を見ていたように思います。

すると男が出てきました。

その人は真っすぐ何処かに行くわけでもなく、降りてきたところで首を右と左に曲げました。肩が凝っているのでしょう。そして大きくあくびをし、

「サッ、行くか~。」と思ったかのように、けだるそうに歩きだして視界から消えて行ったのでした。彼は手持ちのポーチ型バッグを持っていたのですが、それがが如何にも怪しい感じがしました。

 

それをじっと見ていた私は言いました。

「なんかね、何の根拠もないけれど、あそこ止めた方が良いと思うの。」

いや、根拠はありました。あの人を見ていて嫌な予感がしたのです。だけどやっぱり「予感」では、「何の根拠もない」と言うのは正解ですよね。

「うん、私もそう思った。今日は止めておく。」と彼女も言いました。

 

だけどこの事は、後になってもずっと気になっていたのです。

私はただの引率です。劇団試験に落ちて気弱になっていた妹の背中を押す係だったのだと思います。それなのにむしろ彼女の足を引っ張ったのです。私が受けるわけでもないのに、その理由が「勇気がなくて」とか「いやな予感」とかだったと思うと、何かとんでもない事をしてしまったように思いました。

だからずっと日が経ってから、その事を言いました。

「あのドアを開けたら、違う道がもっと開けていたかも。一緒に行って、寧ろ申し訳なかったような気がする。」

「ううん。あの時、私もまったく同じような事を感じていたんだよ。ただ一人で行ったら、せっかく来たんだからと言ってドアを開けたかもしれない。あの時お姉ちゃんが『止める』と言ってくれて助かったよ。」とスノウさんは言いました。

 

その後彼女は、「アンパンマン」とか「くまのプーさん」とかのお芝居を主にするミュージカルの劇団に入り、楽しくお仕事をするようになりました。

 

お葬式に、その劇団の同期の人が来ていて花束も届いていました。

大変な時代でもあったけれど、一生付き合える良い友人をその場所で得る事が出来たのですね。

 

しばらく、下の歌がBGMです。(確認したら、この記事にはあわなかったように思いました(^_^;)) この記事も少々長くなってきましたので、歌の下にそれまでの記事をリンクしました。

 

思い出のアルバム 歌詞付き

 

約8年 その1

約8年 その2

約8年 その3

約8年 その4

約8年 その5

約8年 その6


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約8年 その6

2022-04-11 01:56:49 | ランダム自分史

ブログに何かを記録する時、私は結構細かく書く方なのではないかと思います。

それでも書くことと書かない事が、裏と表のようにあるのです。

ちょっと間が空いてしまいましたが、

約8年 その5」

の続きです。

                ※

2014年11月の初めに書いた「東京ラーメンショー2014」

の記事は、楽しいイベント会場でお昼を食べたと言う話です。また自由が丘で美味しいモンブランを食べて帰ったと言う話です。

でも表か裏かは分からない事ですが、書かなかった事があるのです。

そこに書きこんだ

>近くの場所に用があって

ですが、それはスノウさんの乳がんの手術の立ち会いに来たのでした。

スノウさんが言いました。

「手術で目がパチリと覚めた時に、すぐ傍に姉妹に居て欲しいの。」と。

それでその日は、早起きして手術の時間に間に合うように駒沢公園近くの大きな病院に名都さんと一緒に行きました。

スノウさんは彼女の夫さんと娘ちゃんと一緒にニコニコしていました。

なんか、私たち要らないんじゃないのと、ほんのちょっぴり思ってしまったくらいに家族で寄り添っていました。

だけど夫婦にも様々な歴史ありと言う所なのだと思います。

きっとその頃の妹には、夫さんに対してわずかな距離みたいなものを感じ、遠慮みたいなものが存在していたのだと思います。

「時間が来たら、仕事に行ってね。お姉ちゃんと妹が来たから大丈夫だから。」とスノウさんは夫さんに言っていました。

でもスノウさんは夫さんの気持ちを読み間違えていたなと、私は思っています。もちろん彼が途中でどこかに行くなんて事はありませんでした。

                 

                  ※

「じゃ、ちょっくら行ってくるから。」

「頑張れ、ファイト。外で待っているからね。」と私たち。

その手術の時、何と彼女はスタスタと歩いて手術室の中に入っていったのです。

「うん、大丈夫。」とにっこり笑って入っていったスノウさんの後姿を忘れはしません。

 

乳癌は姉の蝶子さんもやっていて、その頃の私にはその手術に立ち会うとか退院の時に迎えに行くとかの発想が全くありませんでした。そんなに近所に住んでいるわけではないからです。だけど「来てね。」と正直に言ったスノウさんは、顔では笑っていても、本当は凄く怖かったのだと思います。

手術が終わった頃、私たちは先生の説明を受けました。

別室で4人もゾロゾロ入って、その話を聞くなんて、今のコロナ禍では許されることではないと思います。

4人もゾロゾロと書きましたが、手術の待合室では、多くの患者さんが、ひとりに付みな数名の立会人が来ていました。癌と言う病気は、やはり患者側からしてみれば、それだけ大きな病気なのだと思います。

先生の説明は、さすがに8年も前の事なのでまったく覚えていません。(もしかしたら、ちゃんと聞いてなかったのかも。)

ただその説明を聞いていた時に、医師の真横にある棚の上のお餅を入れるような大きさのタッパが気になって、チラチラ見ていたのです。

ー なんだろ、あれ ?

すると先生が、これが切り取った癌ですと言って、それを取りあげ蓋を開けようとするので、慌ててちょっと待ってもらい、私と姪っ子ちゃんは見る事から離脱しました。姪っ子ちゃんは精神的に耐えられないと言う理由ですが、私も似たようなもので、見てしまったらたぶん一生忘れられないからです。

だけど後で名都さんが、ざっとですが説明してくれたので見たような気がしてしまいました。それにタッパが気になってチラ見をしていたので、大きさなんかも予想がついていました。

なんたって乳房切除なんですから、かなりの大きさです。

大変な手術だと思います。

 

蝶子さんの体験談では、手術の後、痛み止めが良く効いていて、あまり痛くもなかったと言っていました。

私は今の時点では、手術は帝王切開が二回と言う経験しかないのですが、あれは後腹もあるからだと思いますが、ほとんど痛み止めが効かず、だいたいが地獄の一晩を過ごす運命にありました。

だから姉の「ほとんど痛くなかった。」との言葉を聞いて、今時の医学はどんどん良くなるなと思っていたのです。

 

ところが麻酔から覚めたスノウさんはずっと痛がっていました。

見ていて痛々しいほどでした。

こういう時、傍で「大丈夫 ? 頑張って。」と言われ続けるのも、自分の経験から煩いと言うか苦痛のような気がしたので、少ししてから帰る事にしました。ただ看護師の方には、妹の様子を告げて、痛み止めの事をお願いしておきました。

 

その時何処が蝶子さんと違ったのかと、私は思わざるを得ませんでした。

スノウさんは胸の切除と、その時に胸の再建手術もしたのです。それが彼女の胸には負担だったんじゃないのかとか・・・・

だけど真実は分からない事です。

ただ彼女は、その後の抗がん剤治療の時も、爪が真っ黒になり顔もシミだらけになりました。痛み止めで貰っていたリリカという薬は、私も飲んだことがあって、副作用があったので妹にもそれを告げたけれど、彼女はその薬を手放すわけにもいかずに、真っすぐに歩けなくなりました。ニッコリ笑ってスタスタと歩いて手術室に入っていったのが夢のような、そんな真冬の時代に突入してしまったのです。

この子はどうなってしまうんだろうかと、本当に痛々しい時代でした。

 

だけどこの冬には、ちゃんと春が来たのです。

 

抗がん剤治療が終わると、抜けた髪も、最初はごわごわの髪が生えて来て、そしてまた綺麗な髪に戻りました。だから彼女はまた髪を伸ばして素敵なロングの時代があったのですよ。なかなか顔のシミと言うのは消えるものではないと思うのですが、理由が理由だったからか、そのシミさえ綺麗に消えてしまったのです。

抗がん剤治療と言うのは、今の時点では頼らざるを得ない治療法だと思いますが、やはり恐ろしい治療法であることは否めませんね。

 

そしてやっと訪れた春の時代。

私たちは、その春がずっと続くと信じてて疑いもしませんでした。

楽しい事、いっぱいあったよね。

 

ランダムに続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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約8年 その5

2022-03-30 22:52:59 | ランダム自分史

約8年 その4」の続きです。

 

ブログには、書くことと書かない事を選択して書く事も多いのではと思います。

例えば、2014年3月15日から母と姉妹4人で山梨に出掛けた時のお話。

その時の記事は、「甲斐の旅 《その1》」甲斐の旅《その2》」甲斐の旅《その3》」です。

それは前の年に亡くなった父のやり残した事、父の両親の墓参りに行くと言うのが。その旅の目的でした。

そして父の生きた足跡を、ほんのちょっと辿ると言うのもやろうとしていた事でした。

 

ここからはその記事には書かなかった事です。

母がその旅が決まった時に言いました。

「今年はお姉ちゃんの節目の年だから、そのお祝いにホテル代をお母さんが全額持つから。」と。

それで私はいろいろと検索して、女性に人気があると言う「坐忘庵」という旅館を見つけて予約したのでした。そこへは甲府の駅に迎えに来てくれた旅館のバスで行きました。

ところが私は、その前に会った叔父さんにご馳走してもらった、凄く美味しかったイチゴパフェがお腹に来てしまい(この時私は自覚したんです。今の私には生クリームは敵だと。)、旅館に着くまで地獄の時間でした。

すこぶるカッコ悪い話なので、ブログには書かなかったのですね。

旅館についても、しばらくは体調悪く寝込んでいました。

それでいつものような食事の前にお風呂に入って、みんなでのんびりすると言う時間がなかったのです。

旅館ではみんなで一緒にと言う時間はほとんどなかったわけですが、その後は上にリンクした記事にも書いた通り、楽しい旅行で終わったのです。

 

ところが数日後にスノウさんから電話がかかってきました。

「なんだか胸にしこりがあるみたいなの。あの時、ひとりでお風呂に行って、クヨクヨしてたんだ。」

「えーっ !!

どうして言ってくれなかったの ? 蝶子さん、経験者なんだからさ、きっと触ればわかったよね。」

「うん、そうなんだけれどね、なんとなく言えなかったんだ。でも大丈夫。今度会社で乳癌検査するから。」

「うんうん。何か分かったら、今度はすぐに教えてね。」

 

検査の時、技師さんが「あー」みたいな反応を、妹は見逃さず

「やっぱ、そうですよね。」と切り込むと、

「うん、ちょっとあるねぇ。」と言われ、すぐに次の行動に移る事になっていったのでした。

「大丈夫だよ。蝶子さんも大丈夫だったんだから。」と私が言うと

「うん、私もそう思う。」とスノウさんは言いました。

 

坐忘庵の受付の所に、「雨の日は雨の中を 風の日は風の中を」という額が掛かっていました。

葬儀の時、使っていたお茶碗とお箸、湯呑が供えられていました。

その青い湯呑には、その「雨の日には・・・」の言葉が書かれていたのです。

私たちの8年は、あの日から始まったようなもの。

それが葬儀の供えられた湯呑に、同じ言葉を見つけるなんて。

 

スノウさん、ドラマチックじゃないですかー。

 

不定期で、続きます。


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約8年 その4

2022-03-30 01:26:52 | ランダム自分史

約8年 その3」の続きです。

それはつい最近の事ですが、叔父と電話で話す機会がありました。

私が

「子供の時、スノウさんとは仲が良くなかった。」と言うと、叔父は

「知ってるよ。」と言いました。

私は少しムカッとしました。

「だって仲よくしろと言う方が無理よ。そんな環境だった?」

だけど叔父に言っても仕方がない事です。もしこれに戦犯と言うものがいたら、あなただってその中に入るわと私は思っているからです。

「でも、私たちは、ずっとそうだったわけじゃないのよ。」

何となく電話の向こうで、私の気持ちが微妙に振動しているのが分かったのか、叔父は

「それも、そう思っている。仲良くなかったら、一緒に旅行とか行くわけないものな。」

 

そうよ。そんなに単純なものじゃないよ。

「その3」の中で

>「今なら分かるんです。私が何を期待していたのか。それは私が居場所を姉に求めたように、彼女にもそれを私に求めて欲しいと思っていたのだと思います。

だけどそれは期待通りには行かなかったんです。」

と書きました。

今なら分かっても、その時には分からなかった。ただ私はスノウさんに対して「ざまあみろ」ぐらいの悪魔のような感情を持っていたのだと思っていたのでした。

 

だけどある日夢を見ました。

 

何もない部屋の真ん中に大きなテーブルが置いてありました。

貴族の食卓のようなテーブルで、私たちも含めて大人たちも座っていました。

スノウさんが遅れてやって来て、その食卓に着こうとすると、隣に座っていた父がフォークを床に放り投げ、スノウさんに拾えと言いました。

それを拾うと今度が母が、お皿を投げ捨て片付けろと言いました。またほかの大人がまたテーブルの物を投げつけました。

もうこれは父とか母とかは関係なかったかもしれません。父とか母の姿をした何か。

妹は細くちっぽけな姿で、一生懸命に拾っては元に戻し、壊れたものを拾っては片付けました。

最初は訳が分からず何が始まったのかとニヤニヤして見ていた私は、徐々に怒りがこみ上げてきました。そして妹の所に飛んで行って大人たちに向かって叫びました。

「ヤメテー !!!

この子は、私の妹なのよ !

もう止めてください。」

そしてスノウさんには

「大丈夫。お姉ちゃんが守ってあげる。」と言い、そしてそこで夢は覚めたのでした。

 

目が覚めて、私は自分の夢に戸惑いました。

夢は真実の心の声だからです。もちろん11歳の私に「真実の心の声」などとは分からなかったかもしれません。

ただ、私はこの夢を誰にも言わずにずっと忘れていませんでした。

 

あの頃は、妹に対して「ざまあみろ」と思っていた自分に、「そうじゃないよ。」という本当の気持ちを教えてくれた夢だったと思っています。

 

だけどその夢は、未来に大きく意味を変えて行ってしまいました。

何かがスノウさんに何かを投げつける、また何かが何かを彼女に投げつける。

彼女はひとつひとつ、それらを拾っては戻し拾っては戻していたのです。

「ヤメテー !!!

この子は、私の妹なのよ !

もう止めてください。」

私は記憶の中の夢の中で叫び続けていました。

 

乳癌やって、肺がんやって、腎臓にも癌があって、脳腫瘍で三回頭を切ったなんて凄くないですか。凄すぎませんか。

「大丈夫。お姉ちゃんが守ってあげる。」って夢の中で言ったけど・・・・・。

それでも一つだけは約束を守ったと思います。

最後まで傍に居るよと言った約束は。

 

駆けつけた私たちの見守る中で、彼女は呼吸をする事を止めたのです。

スノウさんは、とうとう力尽き、3月13日に静かに眠りにつきました。

 

 

不定期に、続きます。

 


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約8年 その3

2022-03-25 01:02:27 | ランダム自分史

約8年 その1」と「約8年 その2」の続きです。

ちょっと名都さんが生まれた日の事をお話ししましょう。

だけどその前に、なんだか知りませんが私が漁夫の利を得て、母に「天使に見えた。」と言われたお話をします。

姉の蝶子さんと名都さんは12歳差で一回りも歳が離れていて、私も10歳違いです。スノウさんと名都さんも5歳差。

そんな時に子供が出来たことを知らされた母と父の間では、なんだか理不尽な会話がなされていたらしいです。また誰とは言いませんが、他の人にも心無い暴言を吐かれ、母は傷つき心が揺れていたそうなのです。

 

その日、キッチンの引き戸を開けると、母が流しで何かを切り刻んでいました。

トン・トン・トン・・・・

その音が凄く元気がなかったのです。

肩を落とし背中も丸まって、母は見るからにしょんぼりしていました。

「ママ、どうしたの  ?」

母は子供のまま大きくなったような人なので、こういう時に「何でもないわ。」などとは言いません。

「赤ちゃんが出来たの。でも誰も喜んでいない・・・。」

「えーっ !?

何言ってるの ?

大丈夫だよ。 誰もその子を可愛がらなくても、私が可愛がってあげるから。ママ、頑張って。」と私は言いました。

それは私がまだ10歳前で、赤ちゃんが出来て喜ぶ以外の選択肢を知らなかったからだと思います。

だけど母は持っていた包丁を置いて、私の所にやって来て、私をぎゅうっと抱きしめました。

そして後から母は言いました。

「あの時、花ちゃんが天使に見えたのよ。」って。

 

今これを書いていて、ちょっとだけ涙が出てしまいました。

若かったお母さん。今、私は逆にあなたをぎゅうって抱きしめたくなりましたよ。

 

さて、母の臨月が近づいてきた頃、我が家総出の祈りは、男の子が生まれる事だったのです。なんたって上の三人が女の子なので、一人ぐらい男の子が欲しかったのだと思います。実は私も姉も男の子が生まれますようにと毎日手を合わせて祈っていました。可愛らしい弟が欲しかったんじゃないかしら。

4人目の子供を母はお産婆さんの家で産みました。

 

ある夏の夜。

家には12歳の姉と10歳の私しかいませんでした。蒸し暑い夏の夜は、あちらこちらの窓は開け放されていました。すべての部屋についていた電気さえも幻のように感じさせるのが、夏のマジック。

姉は洗濯機を回していました。

私は眠くなって二段ベッドの下の階でうつらうつらと眠っていました。

その時、リーンと電話が鳴りました。

姉が飛んで行って電話に出ました。

そして寝ている私の横で「花ちゃん、・・・・・・・・・・」と言ったのでした。

「うん。分かった。」と私は言いました。

そしてひとしきり寝ると、ガバッと飛び起きて、洗濯物を部屋干しをしている姉の所に飛んでいき言いました。

「今ね、変な夢見ちゃった。お姉ちゃんがやって来て、この世の終わりのような声で『お姫さまだって。』って言ったんだよ。夢だよね ?」

姉は目を吊り上げて言いました。

「夢じゃないよ !!花ちゃんたらさぁ『ああ、分かった分かった!!』って煩そうに返事したじゃないのよ。私、なんか余計に哀しくなっちゃった。」

「えっ、そうなの。それはごめんね。寝ぼけていたんだよね、私。

だけどさあ、ああ、そうなの。そうなんだぁ。お姫様だったのね。お姉ちゃん、どうする。うち、女四人だよ。ああ、弟じゃなかったんだぁ。」と、私と姉は男の子が欲しいと祈っていたものですから、がっかりしてしまっても無理はない事だと思います。。

 

名都さん、ごめんね。

だけど私と姉ががっかりしたのは、その日だけのたぶん1時間ぐらいだけだから。

私の時の、「お父さんの帰りが毎晩遅くなった」より、ずーーーーーっとマシだからね。

 

それに私たちは寧ろ女四人で良かったなと考えが変わるのに、ほとんど時間がかからなかったし、この名都さんは大人しい子供で、それゆえに子供時代はそれなりの苦労をしていたみたいだけれど、素直で子供らしい愛らしさがあり、近所の人たちにも愛されていました。

私も母との約束を守って、小さな妹の子守は本当に良くしました。名都さん、覚えてないだろうね(/_;)

ただ年齢差の違う姉を持つことは、名都さんにとってはけっして子供時代は楽しい事ではなかったと思います。

なんたって、彼女が10歳の時私は20歳。一緒には遊びません。それどころか彼女の小学校の面談に、母の代わりに出席したり、小学校の運動会に今の夫と一緒に(その頃は夫ではないが)見に行ったことがあるくらいなのです。完全に大人が子供を見る視点だったし、私にとっては彼女の名前は「小さく愛らしい者」の代名詞で、姉に娘が生まれても、その子の名前を呼ぶのに間違えて妹の名前を呼んでしまう事もしばしばあったのでした。

そんな私たちの姉妹四人の楽しさが生きてくるのは、新人であろうが中堅どころであろうが、皆が中年と言う年齢に入ってきた頃からだったと思います。

 

ところでこの名都さんが生まれた日の話に、スノウさんの影がないのは、まだ6歳だった彼女はおじさんの家に預けられていたのでしょう。

夜遅くに父が帰って来たかもしれませんが、たとえ朝まで姉と二人でも、私は何も怖くもなかったです。

二人姉妹の末っ子と言う居心地のいい城から追い出された私は、たぶん姉にその居場所を求めたのだと思います。たった3つ違いの彼女は、私のもうひとりの母のようなものなんです。

私はこの時、心の奥底で、何かを期待している自分がいた事を知っていました。

母には私が天使に見えたと言いましたが、私には私の中の悪魔が見えていました。

スノウさんにだって、私と同じ事が起きるのよと私は思っていました。

これは人類の普遍のテーマだって言いましたでしょう。

だからそれは本当に予想通りに起きたんです。

我が家の新プリンセスは名都さんです。

今なら分かるんです。私が何を期待していたのか。それは私が居場所を姉に求めたように、彼女にもそれを私に求めて欲しいと思っていたのだと思います。

だけどそれは期待通りには行かなかったんです。

かつて捨て猫のような気持ちになっていた私は、気の強いひねくれた女の子になって言ったけれど、彼女は自分の中にドアを作り、そのドアの向こう側に逃げ込むことを選択したのでした。

 

ある時、私たちの祖母が病気になり、短い間だけでしたが我が家にやってきました。その時、口の悪い祖母がスノウさんに付けたニックネームが「コドク」でした。

私にはおばあちゃんと孫が仲が悪いという事が理解できず、単に一人になりたい年頃だからだと思っていましたが、今思うと、そんな名前で呼ばれては好きになれるわけがないですよね。これは前にも書いたことがありますが、スノウさんがある時言いました。

「あの人が嫌いだった。だけどあの人は嫌味のように私の誕生日に死んだのよ。」

それまで祖母の命日など、すっかり忘れていた私でしたが、その言葉を聞いて、忘れられない日になってしまいました。

私はこのおばあちゃんの事が大好きでした。

だけど命日までは覚えていたくはなかったのです。しかしこの先、スノウさんの誕生日を思い出すとき、絶対にセットで思い出すと思います。

これって、スノウさんの「嫌味のように」のせいじゃない ?

 

また不定期に続きます。

 


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約8年 その2

2022-03-21 18:20:15 | ランダム自分史

約8年 その1」の続きです。

 

私のお母さんは、私たちを愛だけで育てた。

そう私が言うと、時に人は誤解して、「素敵なお母さんですね。」などと言われることがありました。

いや、素敵なのはこの私の言い方でしょう。

子供を「愛だけ」で育てられるわけがないのです。

だけど、私たちはまぁまぁいい子に育ちましたよ。よくよく考えるとお母さんの愛には、本当は凄く助けられてましたから。

よくよく考えないと分からないのかと言う所ですが、てんこ盛りで母と娘の話、私には言いたい事がたくさんありますよ。でもそれはまた別のお話。

 

とりあえず「愛だけ」の母には、子供に対する気持ち的配慮というものがなかったような気がします。

でも昔のお母さんの半分ぐらいはこんなものだったと大目に見て、私はそう思いたいです。

「お前なんか、橋の下から拾って来た。」などと言う、訳の分からない言葉が流布していた昔、その言葉を聞いたことがある人は結構いるんじゃないかしら。

こんな言葉で平気で言っちゃうグループの人の中に母は入っていました。

 

その母が、面白おかしく楽しげに話す、私が生まれて来た時の話・・・・・

「お姉ちゃんが生まれた時、パパは嬉しくて、毎日毎日仕事が終わると飛んで帰って来たの。でも花ちゃんの時は、お産婆さんが『お姫様ですよ。』といった途端にガッカリしちゃって、毎晩帰って来るのが遅くなっちゃった。」

それを本当に楽しげに話すんです。きっと母にとっては、「まったく~」という面白い想い出なんでしょうね。

吃驚しちゃうでしょう。

でもこの時、私にもその話は面白く感じていたんです。だって、母が楽しげに話すし、それよりも現実的に、自分のポジションが如何に快適なものなのかが分かりかけてきた頃だったからだと思います。

お姉ちゃんがいて、私が二人姉妹の末っ子で、そして母は私たち二人にいつも可愛らしい服をお揃いで着せていました。

良く家族四人で出掛けていました。

疲れたと言うと、父がおぶってくれました。

私は、少々の我儘も許されるチヤホヤされるプリンセスだったのです。

 

でもそれは、スノウさんが生まれたあの日の朝まででした。

妹は生まれた時から、それはそれは可愛らしい顔をしていました。それがちょっと嬉しかったと思います。

だけどそれもすぐにあまり嬉しくなくなりました。

どんなことがあったのかなんて、詳しくは書かない事ですが、下の子供が生まれたらと言うよくある話です。

 

早くに結婚した父と母は、今思えば、若く精神的には子供だったのだと思います。

新しい可愛らしい子供に両親は夢中になりました。彼女が新プリンセスです。

私は居心地のいいお城から放り出された惨めな子供に成り下がってしまいました。

 

そうなってくると、蘇ってくる私が生まれた時の父の話。

「ガッカリして、毎晩遅くに帰って来ていた。」

いつも何かに飢えていた・・・・・。

 

だけどね、こんな話、実は昔はざらでしょ。

別に父と母が特別に愚かだったわけじゃないし、と言うよりも、これは人類の、いや、別にいきなり大きく出たわけじゃなくて、真実だから言うのだけれど、これは人類の普遍のテーマなんですよね。

「エデンの東」、映画を見て号泣し、また本を読んで滂沱の涙を流しました。

別にクリスチャンではないけれど、アベルとカインの話は胸に突き刺さります。

 

確かに子供の頃は惨めな自分を感じていたけれど、今思えば、その時の欠落感が今の私の感性を作り出し、知識をかき集めたのかと思ったら、必要な時代だったかもしれません。

でもそれは、今だからそう思えるのです。

 

私とスノウさんの姉妹としての出会いは、ベストとは言えなかったと思います。

 

また不定期に続きます。

トップ画像は3月20日の日の朝のスカイツリーです。

 

 

※ アクションボタンやコメント欄を閉じているので、なにげにランキングに入る数で励まされています。よろしかったら押してくださると嬉しく思います。

 


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約8年 その1

2022-03-14 12:31:21 | ランダム自分史

今度スノウさんに会ったら、この話をしてあげようと、ある時私は思いました。

この話と言うのは、スノウさんが生まれた日の朝のお話です。

 

私が4歳になってそれからほぼ一か月後の朝の事でした。

朝目が覚めると、私と姉は違う部屋で同じ布団に寝かされていたのです。

ぬくぬくとした気持ちの良い布団の中で、目が覚めた途端に大好きな姉が横に居て、不思議に思うのと同時に幸せな気持ちになりました。

姉が

「隣の部屋でお母さんが赤ちゃんを産んでいる。」と言いました。

それを聞いて、私はドキドキし、そしてワクワクしました。

まさに隣の部屋で、秘密の儀式が行われているのだと思ったからです。もちろん4歳になったばかりの子供が「儀式」などと言う言葉は知らなかったと思います。だけどイメージはそんな感じです。なぜならその日の数日前、母はもうすぐ赤ちゃんがやって来るようなことを私に言いました。

「どこから来るの?」

「お母さんのお腹からよ。」

「えっ、どんな風に ?  どうやって ? お腹がパァーって開くの?」

「ええ、そうよ。その時、光がパァーって包み込んで『おぎゃあ』って産まれてくるのよ。」

「えっ、光が !!

それ見たいな!!

見る事が出来る ?」

「ううん。見ちゃダメなの。それは見られるのはお産婆さんだけで、他の人が見たら目が潰れるのよ。だから絶対に見ちゃダメよ。」

 

母は自宅出産でした。

それで幼い子供に部屋を覗きこまれないように、そんな予防線を張ったのだと思います。

だけどそれを聞いた私は「オサンバサン」と言う、シャーマンのような女性や光に包まれて生まれてくる赤ちゃんって素敵だなと思いました。きっとその赤ちゃんは金糸で出来た衣をまとって生まれてくるに違いないと夢を膨らませました。

でも母は、私に赤ちゃんの話をするのが遅すぎたと思います。そんな素敵な不思議な事がすぐに我が家で起きるとは思ってもみない事で、スノウさんは私にとっては唐突にやって来た妹だったのでした。

 

朝もかなり早い時間で、私と姉は隣の部屋で起こっている見えない出来事よりも、二人でぬくぬくとした布団の中でふざけ合う事に夢中になりだしたころ、同じく部屋を閉め出されていた父が私の布団の横で、障子に指で穴をあけていました。

それを見つけて私はガバッと跳ね起きました。

「パパ駄目よ !!! 目が潰れるわ。」

父は驚いて私を見ましたが、夫婦と言うものは似たり寄ったりなんだなと後から思います。父は何も動ぜず

「大丈夫。パパは特別に許されているんだ。」と言ったのです。

 

それからはさっきとは違う意味で、私はドキドキしていました。父はそう言ったけれど、本当に大丈夫なのだろうかと。

だけど父が障子の穴から中を覗いた時からほどなく、妹は産声をあげました。

すぐに父が呼ばれ、そこからはワサワサとバタバタとしていました。

かなりの早朝だったので、私も暖かい布団の中で二度寝してしまったと思います。

 

もちろんこの話をスノウさんにした時は、こんな私主体の話ではありませんでした。

朝起きたら別の部屋にいた。それはかなりの早朝だった。父が障子に穴をあけて覗き込んでいて、赤ちゃんが生まれてくることを心待ちにしていたと言うようなことを話しました。

でもこの話を本当にスノウさんにする前に、何故か夢の中で完全な予習をしたんです。だけど夢の中のスノウさんは、それがどうしたのと言わんばかりでした。

ところが実際も、まるっきり夢と同じ。

それがどうしたのと言うような無反応だったのです。

 

たぶん寝たきりになってしまったスノウさんには、まったく興味のない話だったのかもしれません。

残念だなと、私は思いました。

もしも誰かが、私が生まれた日の朝の話をしてくれたとしたら、私はとっても嬉しく思うのに・・・・・。

 

母が話した私が生まれた時の話・・・・・

本当に情けなくて涙が出ちゃうから。

 

また不定期に続きます。

 

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よろしくお願いいたします。 m(__)m

 

 


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