先日、3月7日の日には実家に帰って姉妹たちと遅いひな祭り会でした。でもその「ひな祭り会」というのは取ってつけたようなイベントだったのです。姉妹たちとは時々何処かへ一緒に出かけますが、予定していたその日に母も地域の用で出かけなくては行けないことが分かって、その母の代わりに留守番としてみんなで父の元に集まったのでした。
ずっと前のブログに、「今父は風邪よりも重い病気に罹って」と書いたことがありますが、風邪よりもずっと重い病気・・・・
その父をひとりにはしておくことは出来ません。
「殿を囲んで、女達で賑やかにしましょ。」
四人姉妹と姪と又姪と、本当に女ばかりです。賑やかで楽しい昼食が一段落した頃、何故か私達の話題は、あの日は何をしていたかと言うものに変わっていきました。あの日というのは、そう、二年前の3月11日の事。
私は、こんなふうに集った時に、その話をするのはとっても大切なことだと思いました。
大切なことは忘れないことなんだと思います。
記憶というのは、脳にインプットしなおしていくから、ずっと忘れないのだそうです。そのインプットし直すと言うのは思い出す、またはそれを語る作業かと思うのです。
今日はルート君はお休みでした。
朝、「あの日も、君は家にいてくれたよね。」と私が言うと、
「ああ、そうだったね。」と彼はいつものように優しい声で短く返事をしました。
でもその後二人して沈黙。それは多分、その後の辛かった就活時代の時間の記憶が蘇って記憶の中を通り過ぎていったからかもしれません。
ふと、昨年の今日はどうしていたのかなと思った私は過去のブログを読み返してみました。3月11日には記事はなくて、その日のことは違う記事に書いてありました。→ここです「未来は見えない」
リンクを貼っておきながら、抜粋もアレってなもんですが、昨年の記事から―
「3月11日2時46分、電車も止まり道行く人も足を止め黙祷しました。私と夫は家でしました。長い1分間の黙祷でした。その時一瞬だけ恐ろしい津波の光景が蘇って来ました。後はひたすら祈りました。
あの日亡くなった方々で無念でなかった人は居なかったと思います。
ただ安らかに、ただ安らかにお眠りくださいと祈りました。
私たちは踏ん張ります、頑張ります。だから見守らなくて良いです。今生の思いを絶ち切って、どうか安らかにお眠りください。
そんな言葉を繰り返していたと思います。
私たちは生きている。だから考えながら頑張っていかなければならないのですよね。」
想いは、今年も同じです。
ただ私は思うのです。
―私たちは生かされた。だからこそ昇る朝日、沈む夕日をまた見ることが出来る。だけどこの二年間、本当に生きてきたのか、ちゃんと生きてきたのか―と。
4人も娘がいると、「大丈夫だよ、頑張ろうね。」以外の「死」に対して直球な言葉で、父の病気と向き合う会話もする者もいるのです。それは実は私。まあ、そうだろうと思いましたか。
その会話の事はまたずっと先のいつか書くこともあるかもしれませんが、父もかなりの直球的な言葉で応戦してきます。
「やっぱり、この病気が自分の『死に至る病』なんだろうか。」
それを私に聞くのかと、口が開くのと言葉が出るのではびっくりして若干のズレが出るほどでした。
「分からない。」
そう、私は答えました。
―そう、わからないんだよ、おとうさん。
だけど確かなことは、この二年間、私達が生きてきたってことなんだ。そしてまた明日の朝昇ってくる朝日を見るんだよ。―
私にとって3月11日は過去を想い、そして未来を見つめる、そんな日になってしまったのかも知れません。
〈2011年3月11日のことを書いた記事は→「それでも朝はやって来る」 〉