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森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

9月11日、木曜日。

2014-09-11 23:50:10 | 梢は歌う(日記)

最近、自分の中の老いと向き合わなければならないこともあり、今日という日の朝のバタバタもあり、ためている書きたいドラマ記事もありで、さて何から書こうかと思ってツイッターのトレンドワードに目が行った時に、思わずドキリとしました。

そこには「9.11」とあったのです。

私の中の風化っぷり・・・・・・。

なにげにショックでした。

風化させてはいけないのです。あの悲劇からたった13年しか経っていないのですから。

たった13年。

だけれど自分の中の13年はあっという間ではあってもたった13年とはいえない大きな13年だったかもしれません。

 

それでもあの時、ふとアメリカという国に感じた疑念に共鳴してくれた友達との会話やまた別に正義のためなら多少の犠牲も仕方がないと言った知人に、裏付けが取れていない報復に何が正義だと声を荒らげて反論したなど、あの事件の後の日々が昨日のことのように蘇ります。

記憶というのはインプットし直すから忘れないらしいですよ。

世の中には、報復のためにはなんの罪などない一般人、つまり子供も殺しても仕方がないという考え方をする人がいるんですよ。

それがどういうことなのか分かりやすく言おうとして、

「自分たちは何もしていなくて普通に暮らしていたら、ある日マンションの裏に爆弾が落ち始める。それと同じことなのよ。そんなことになったらどう思うの?」と言ったら

「バカバカしい。実際にマンションの裏に爆弾なんか落ちないのに下らないことを言うな。」と言われたけれど、私はこの会話にならない会話にお口あんぐり。

申し訳ないけれど、私の中でお馬さんが走って行き、そして鹿さんが通り過ぎて行きました。

何かの話を挟んだ後、私はにっこり笑って言いました。

「大丈夫よ。男女平等の世の中になったのですから、次に戦争が起きたら女の子もちゃんと戦争に行けるから。」

もちろん彼女は女の子のお母さんだったのです。

戦争というのは大概正義の旗のもとに開戦されてしまうというのがままあることだと思います。

正義のためなら多少の犠牲もしかたがないんでしょ、ふん、てな感じです。私のそんな嫌味も通じていたかは疑問です。

以前の職場には顔も体格も迫力があって、言葉も強い人がたくさんいました。その人たちはその全体の醸しだす強さから自分の主張を剛力で正しいんだというふうに持っていくのです。

それまではほぼ家でのほほんと子どもと暮らしていた私には、いろいろ考えさせられるものがありました。それはもしかしたら社会の縮図なのかと。

その彼女たちの剛力パワーが私に向けられたことはなく嫌な思いをしたこともなかったのですが、だから傍観者的にそのパワーの行方を見ていたのかもしれません。

ただ私は思っていました。

強さ=その意見が正しいと言うのはナシ。

そういう世の中であってはならないんだと。

それは今も昔もー。

 

花や虫は地球のリーダーが人間だなんて思っているわけもなく、その命の営みをただ淡々と継続し続けているのです。

だけれどやっぱり私達人間の地球への影響力は大きくて、計らずとも地球生物のリーダーとしての自覚という観点からものを見るということも大切なことなのではないかと思います。

そんなわけで花と虫の画像添付です。

 

以前の9.11の記事は→「9月11日、日曜日」です。

 

 

コメント (2)
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