月一実家帰りを出来る範囲でですが、数年前から心がけています。
それは両親がちゃんと健在だった頃に、どちらかが具合が悪くなってから急に通いだすと、「いかにも」と言う感じがして嫌だなと思ったからです。
実家に帰るのは日常の習慣にしようと思ったのでした。
細かい事は述べませんが、こう言うことを当たり前にしておくと、いろいろな場面で自分が楽だと思います。
ところで今月は6日の日に、東京まで出掛ける用があったので、そのまま横浜に帰る事にしました。
でもその翌日の7日は、なんと母の誕生日ではないですか。
私たちが帰ると、母はいつもお寿司を取ってくれたり新しく出来た洋食屋さんで出前を取ってくれたりするのですが、今回は誕生日でなくても自分で作ろうと思っていました。
実はこの月一帰省には、昨年からもう一つの意味合いが私には生じてしまったのです。
それは独立して出て行ったラッタ青年に会う事なんです。
〈やっぱり子離れしていないのかも。〉
この数か月は二人で外で食事をしたこともあったし、この彼にとっては祖母の家でもある実家で会った事も数回。
私は今回は母にもですが、この息子にも自分の作ったご飯を食べさせたかったのだと思います。
だって自分の作ったものをみんなで食べるって、本当に素敵な事だと思うんですよね。
別にお料理は得意ではありません。それに自分では作ることの出来ない美味しいものを、素敵なお店や出前で頂くのも楽しい事だとは思うのですが、私的にはそれは「一番」じゃないんです。
最初は私一人の帰省の予定でしたが、呼び掛けたら姉妹全員集合になり俄然楽しさが増してきました。
エビフライは妹からのリクエストで、てまり寿司はラッタ君の提案。
朝、早くから家を出てやって来た妹も入れて全員でてまり寿司のネタを買いに行き、みんなで作りました。
姉が母の誕生日会ならぬ昼食会を始める前の挨拶を私にしろと言うので、
「お母さん。私たちはこれからもお母さんのすねをかじって生きて行こうと思います。だから出来るだけ長く生きてそのすねをかじらせてくださいね。」と言うろくでもない、いかにも私らしい挨拶をしました。
食事を作っている時にラッタ君が
「ばあちゃんは、一体いくつになったんだ。」と聞いてきたので
「82歳よ。」と伝えたら
「もうそんなになるのか。若いな。まったくそんな風には見えないよ。」と言ったのです。
もちろんこの話は、さっきのろくでもない挨拶にさりげなくねじ込みました。
母はすごく嬉しそうな顔をして、そして言いました。
「82歳で初めてこんな事をしてもらって・・・・」
この言葉は別に嫌味でも何でもないんです。でも、私は「本当だなあ~、」としみじみとした気持ちになりました。
父の時は何か節目の時には、その誕生日に合わせて集まったりしたのですが、母にはそういう機会もなく、またそう言う発想もなく今まで来てしまいました。もちろんささやかなプレゼントは渡してはいますし電話などでお祝いも言ってきましたが、このようにこの日に合わせて集まったことなどなかったのです。
なんだか親不孝だったなー。
一瞬の短い間にそんな想いが過りました。
「あっ、なんだか涙が…」と母は言いました。
こんな程度の思い付きでそんなに喜んでもらって・・・・と思ったら、母がせき込みだしました。
咳をしながら
「涙が喉にまわったみたい・・・」などと
その続きを言うので、コホッコホッゲホッっとなり思わず心配になって
「気合を入れて、咳をした方が良いよ。ちょっと今日、何かあったらね、新聞に載っちゃうからね。
『82歳の誕生日の涙の挨拶で咳き込んで死亡。』
シャレになりませんて。」 !
と言うわけで、母の涙のもらい泣きバージョンと言うシーンはボツになりました。
メニューの品数は少ないけれどなんたって量が多いので、お腹がいっぱいになりました。
一人ひとり個別のケーキ。私はココナッツのケーキ。母は普通のショートケーキでしたが、凄く美味しそうでした。
近所に美味しいケーキ屋さんがあるって素敵な事ですよね。
帰る時に、仏壇に手を合わせ、父の写真に心の中で
「じゃあ、またね。」と言うと、なんだか写真の中の父は、本当に笑っているように見えました。
― まさかね。
と思いましたが、この日に実家に帰ろうと思ったのはたまたまだと思っていたけれど、本当は
「この日に来い。」と父に呼ばれたのかもしれないと感じたのです。
「うん。またね。」と私はもう一度父に言い、ちょっとだけ涙で瞼が濡れたのでした。