ひとつ前の記事には、睡蓮の花が咲いた画像を載せました。
もうその睡蓮は枯れて、今年の花の役目を終えました。
でも今日は、その話をはじめにしましょう。
その花を最初に見かけたのは、家事や雑用で忙しかった10日の日の夕方。〈最近いつも忙しない〉
すでに萎みかけていました。だからあのようなちゃんと咲いていない花の画像を載せたのでした。→「何もないような一日でも」
その日の夜、夫にその睡蓮の話をしました。
夫は凄く残念がって
「睡蓮の花はほとんど二日しか咲かない。しかも俺が会社に行く時間には間に合わない・・・。」と嘆きました。
そして私は
「明日、ちゃんと花が咲いている写真を撮っておいてね。」と課題を与えられました。
翌日の朝、
「ああ、もう少しなのになあ。」と言いつつ、夫は出勤。
忙しさにかまけてうっかりと言うことの無いように、ベランダを事あるごとに意識し、一応その課題を終えた私です。
綺麗な花を見ながら、この花は夫が見るべき花なのになあと思いました。
いつも言っている事ですが、水生の花とメダカなどの水辺の生き物は夫の担当であり彼がお世話をしているのです。
その日の夕方、再びベランダを覗くと、花は閉じて蕾の状態になっていました。
「あらまっ。今日は眠る時間が早いんじゃないの。昨日は同じ時間に起きていたじゃないの。」と花に話しかける私。
―睡蓮の花は二日・・・
と言う夫の言葉が頭を過りましたが、なんとなく私は違うような気がしてしまったのです。
また翌日の朝、
「ママ~! 花が咲いているよ!!」と言う夫の嬉しそうな声で目が覚めました。
ちゃんと彼の出勤に間に合うように、花は早起きして咲いたのです。
それで昨日早く寝たのかと私は思いました。
えっ、
今、
そーーーーーんなわけないじゃーーーん!!
って、思いましたか。
花のリズムがたまたまそうなっただけとか天気の違いとか、そう考えるのが普通のことかもしれません。
でもね、私にはやっぱり花が、咲いている自分を夫に見せたかったのだと思えてならないのです。
花は言葉を持っていないけれど、もし心を持っていたならば、きっとそう思ったはず。
鉢をもっと日の当たる場所に移動させ、写真を自分で撮っている夫の背中を見ながらそう思います。
そして
それはそう信じた方が、人生は楽しい。
そう思うんです。
「今年の睡蓮」の一枚目は二日目、二枚目三枚目は、三日目に撮った睡蓮なのでした。
この花は4日咲いて眠りについたのです。
〈今日は出来るだけ家にいて、お片付けに終始したいと思います。休憩時間にはブログ更新などをしているかもしれません。〉