森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

2018年1月22日は大雪

2018-01-22 23:30:02 | 梢は歌う(日記)

 

なんかね、次は蝋梅とか牡丹の写真日記を書こうかなって思ったんだけれど、こんなに雪が降っちゃうんじゃ、雪の画像を載せないわけにはいかないよね。

もちろんどこにも行けないからベランダからの画像です。

 

 

雪が降ると、世界はいきなり白黒の世界。

 

色があるのはベランダだけ。

 

マンションの10階まで行って雪の日の黄昏時を撮りました。

 

本当は階段の所に出て、違った方向を撮りたいと思っていました。

でも階段に出てみたら、すぐ下で雪掻きしている人がいたのです。

なんだかその近くで写真を撮ってるなんて、なんとなく不謹慎なような気がして、少し離れた所の通路から撮りました。

 

だからと言って、私がはしゃいでいたわけではありません。

階段の雪掻きは、しておいたのです。でもほんの少し時間が経ったら、すべて時間の無駄と言う状況に戻ってしまいました。

そうなる事は分かっていたのですが、遣らないわけにはいかないという気持ちになるのですよね、雪掻きって。

量が止めどもなく多かったら、明日の朝の雪掻きが大変な事になってしまいそうで。

 

今日は私の仕事も中止になりました。

夫殿は2時半ぐらいに帰って来て、私はちょっと驚いてしまいました。でもそれが一番ベストだったと思います。

ラッタ君は横浜でいろいろと苦労しながら帰宅。

ルート君も出来るだけ安全な道を辿りながら、いつもの何倍もの時間をかけて帰ってきました。

 

朝から夜はそうなることが分かっていたのに、それでも日本人は仕事に行くんですよね。

私が仕事の確認のメールを入れた時、地面にはまだ何も積もっていなかったのです。だから最初は検討してからまた返事すると言う返事が返ってきました。それで私もちょっと確認のメールを送るのが早かったかなと思ってしまいました。でもそのすぐ後から、雪はどんどんひどい状況になってしまったので、早い対応が出来て良かったと思いました。

台風や大雪などから、人々が「逃げる」対応(通勤通学も含めて)が出来ないならば、天気予報の本当の意味がなさないと思うのです。

 

とにかく二人の子供たち(大人だけど)が無事に帰れるまで、落ち着く事なんか出来ません。

ああ、昔みたいに、雪が降ったら

「わーい、(*´▽`*)、雪だ~ !!」とはしゃぐだけの子供に戻りたいものですね。

 

雪の想い出、たくさんあるでしょう。

雪がたくさん降る地方の方は、それは冬の日常だと思います。でも関東平野で暮らしていると、雪こそ家に居ながらの非日常なんですよ。だからたくさんの想い出が出来るのです。

楽しい想い出もたくさんあります。

 

でも私はやっぱりあの日の事が忘れられません。

2014年2月8日は大雪

その記事を読むと、デジャブかと思うほど、同じ画像が並んでいます。まあ、同じ場所から撮ったので仕方がないですね^^;

 

大勢の方々にとって、今日は大変な一日だったと思います。

 

私も家族の心配をしてずっと落ち着かない気持ちでいました。

でもそれは心の問題。

今日の私はおでんを作って、またもすいとん入りのお汁粉を作って、あとは普通の家事や自治会の仕事を少々、無くなった仕事の時間をこれと言って生かす事も出来ないで・・・・・

何をしていたんだろうって考えてみたら、時々かかって来るルート君の電話に出たり、ラッタ君のツイッターをこっそりい覗いたり、ラインを送ったり、階段の雪掻きと称して外に出て、ルート君が帰ってこないかと見ていたのでした。

ああ、まったくもう~。

ツイッターでも呟いてしまいましたが、「ただ心配してるだけ」って言うのは母親の大事なお仕事なんだと思います。

 

 

コメント (2)
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「北斎とジャポニズム」に行ってきました。

2018-01-22 00:04:55 | お出掛け日記

10月から「国立西洋美術館」で開催されていた「北斎とジャポニズム」展も今月、1月28日で終わりです。

終了間際ですが、1月18日に行ってくることが出来ました。

 

北斎の浮世絵に西洋画家たちが如何に影響を受けたのか、その対比展示に期待値もあがりワクワクしました。ところがいざ鑑賞してみると、そんな対比など関係なく、もう北斎の版画にノックアウトされた私。

 

「あれぇ、浮世絵って初めて見たわけでもないし、北斎だって知ってるよなあ。」と思いました。

でももしかしたら、じかに見たのって初めてだったのかも知れません。

 

北斎の絵の細かさに、シニアグラスをしっかりかけて至近距離15センチぐらいの所からじぃっと引き込まれるように見ていましたら、感動がふつふつと沸いてきました。

ふと横を見ると学芸員の方がいらして、思わず

「これは版画ですよね。」と確認してしまいました。

「そうなんですよ~ !」

「凄いですね。凄すぎます。」

「そうなんです、そうなんです。」

「ああ、ごめんなさい。思わず話しかけちゃったりして。でも誰かにこの感動した気持ちを言いたくなっちゃって。」

「いいのですよ。まったく同じ気持ちでここに毎日立っていますから。」

 ほんのわずかな触れ合い。でも私は同じ気持ちを共鳴し合う事が出来て、本当に嬉しかったです。

絵ですよと言われたら、ここまでの感動はなかったと思います。

細部にわたった細やかな絵。だけど版画はそれを彫る人がいて、そして摺って色を付ける人たちがいたのですよね。だけど名前が残っているのは北斎だけ。それでもこの作品に携わった人たちは皆誇りをもって、それに携わっていたと思うのです。

ー きっとのちの世にも残っていく作品に違いない。それに今俺はかかわっているんだな。ー

なーんてことを思っていたか真実は分からない事ですが、私にはそう思えてならないのです。

この時代の版画は人々の暮らしの中に入り込んでいたと思うのです。

歌舞伎絵はプロマイドのように、ユーモラスな絵は漫画のように、そして風景画を見ては旅へのあこがれを募らせていたとか。

人々の暮らしの中に入り込んでいた時代には、作品を完成させる人たちの想いには、皆それぞれの誇りがあったと思います。だけどやっぱり元である下絵の段階で、その想いは変わっていくと言う事はあったように思います。

「触れる」と言う事で、人の感性は磨かれると思うのです。彫り師も摺り師も素晴らしい下絵に触れる事によって、触発し合って行ったに違いありません。

北斎の絵は凄い。そしてさらに名も知らない人たちの想いが一枚の作品から伝わって来て、さらなる感動を私に感じさせたのだと思います。

「このような作品をこんな至近距離で見せてくださってありがとう。」と、私はその学芸員の方に言ってしまいました。

 

もちろんこれは「北斎展」ではありません。

 

私たちは最初、たとえ海外の作品と北斎の作品と同じ構図の物があっても、それはたまたまであってこじ付けなんじゃないのかと笑いあっていました。

だけど北斎の作品が海外に紹介されると、その時代の画家の人たちはやはりかなり影響されたと思いました。それはその習作が残っているところからそう思ったのでしたが、時代がイキイキとした動きのある絵画を求めていた所に、日本の浮世絵が紹介されると、その動き・構図・細やかさなどの斬新さに心惹かれたのは当然と言えるでしょう。

それは日本の浮世絵の方が素晴らしくてと言う意味ではないと思います。

「触れる」と言う事によって、人々は影響され合うのです、いい意味で。

 

展示の最後に「アンケート」を書くところがあったのですが、それは書いた方が良いですよ。なぜなら絵葉書を一枚頂けるのです(笑)

私はそのアンケートの最後に

「西洋の画家も日本の絵師もお互いに影響され合ったと思います。そしてこの絵画展に来た私も、彼らの絵に何らかの影響をぜひ受けたいものだと思いました。」と書き込みました。

それは本当の事で、そして多分知らず知らずのうちに、その影響は受けていたのではないかと思いました。主に写真などを撮る構図などで。

 

ああ、そうそう。

これは繰り返して言いますが「北斎展」と言うわけではないのですよ。

だけどこんな風に北斎に惹かれたならば、今まで全く興味のなかった「すみだ北斎美術館」に行こうかなという気持ちになりました。そんな良いところがあったのですよ。

 

北斎の話ばかり書きてしまいましたが、展示されていた絵画は皆好きなものばかりでした。

また数枚絵葉書を買ってきましたので、載せておきます。

 

  ピエール・ボナール「洗濯屋の少女」

 クロード・モネ「陽を浴びるポプラ並木」

 クロード・モネ「アンティーブ岬」

 ポール・セザンヌ「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」←アンケートに答えて頂いた葉書です。

フライヤー

 

 

北斎の絵葉書も買ってきました。

 

 絵葉書を5枚買うと、もらえるオマケ。

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