広島・山口萩・津和野の旅行の記録―
二日目は結構盛りだくさんの一日でした。
津和野を後にして、次は萩市にやってきました。
以前の記事にも書きましたが、ずっと昔に行った所の再訪は、過去の自分を訪ねる旅でもあるのです。
松下村塾の前でニコリともせずにカメラを睨み付けるように写真を撮っていた10代の私を凄く良く覚えています。
その時、私は「暑いから疲れちゃったな。」とか思っているのではないのです。
10代の私から見ると29歳の松陰は立派なおじさんで、そしてその人となりを知らなくても幕末の志士たちに大きな影響を与えた人、ただそれだけで大きな尊敬に値する人でした。
私は大まじめに
「松陰先生、ワタクシも日本の未来の為に自分の出来る何かを頑張ります。」そんな思いを込めてこの写真を撮っていたのです。
世界の片隅で誰の目に止まらない石ころのような人生であっても、私はかっこよく生きたかった。
大志とは自分自身のちっぽけな成功ではなくて、何か大きなもののために働くことだと思っていた昔―。
ああ、それが・・・・・。
この年月の残酷さは何だろう。
今日の安穏、明日のささやかな幸せの追求に終始する毎日。要らぬ脂肪を来たるべき食糧難の為に自分自身の肉体に蓄える事に労をなし写真をどんなに小さく切り刻んでも、そのふくよかさは隠せない・・・。
「暑いねー♪」とニコニコ笑っている私。
だけどこれでいいんだと思う。これが良いんだと又思う。
もしも松陰が今生きていたら、この日本を見て何を思うのだろうか。きっといろいろな事を多岐にわたって考えるだろう。
ただ彼はこれだけは思うに違いない。
この国の女たちには笑っていてもらいたいと。
松下村塾と松陰幽囚の旧宅・吉田松陰歴史館などは松陰神社の境内にあります。
松陰の辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」 が有名だと思うのですが、もう一つその死罪が言い渡された時に作った歌があるのです。
それは「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」でその石碑がこの松陰神社にはありました。
子供が親を思っている以上に親は子を思っている。今日、その知らせ(死罪の)聞いて親は何と思うだろうと言うようなもので、嘆く親の心情を思ったものだと思います。
10代の私にはおじさんに感じた松陰は、今ここにまた来てみると、わが愚息とさして年の違わない青年なのでした。
私はしみじみと子供を思うように哀れで切ない事だと思ったのでした。
その石碑の文字を見つめながら、
―違う道はなかったのだろうか、逃れる方法はなかったのだろうか。なんとしてでも生きのびて叶わなかった夢の続きをやらせてあげたかった
などと、思っても仕方のないようなことを考えていたのでした。
以下は松下村塾・松陰幽囚の旧宅と維新の志士たちの歴史の余韻が漂う萩城下町の写真日記です。
城下町。高杉晋作の生誕地。
ここでトップ画像の説明ですが、菊谷横丁のなまこ壁です。ここは「日本の道百選」に選ばれているんですよ。他の道も趣があって素敵です。
下は江戸屋横丁だと思います。
木戸孝允の家にも行きました。彼の家は、藩医の家でかなり豊かだったと思われます。中二階建ての家でかなり中は広かったです。
庭にはこの時代には珍しい棕櫚の木がありました。豊かだったことがこんな木からもうかがえます。
庭の松
幼少の時の手習い。
二回には上がれませんでしたが、上は書斎になっているみたいです。
ここを出て次はさっき見かけた古民家風の喫茶店でお茶でも飲みたいなと思って、時計を見たら集合時間5分前でした。
1分前にバスに着いたので遅刻ではありませんが焦りました。
萩はやはり見応え十分な街です。
だけれどブームが去って以前ほどの賑わいはないそうです。
ただ来年の大河ドラマが松陰の妹がモデルの「花燃ゆ」。
また人気が再燃すると、今はじっと息をひそめてその時を待っているような、そんな感じもしたのでした。
少なくとも私と夫はドラマを見ながら「ああ、ここ行ったね。あそこも行ったね。」と煩い事でしょう。
余談ですが、「龍馬伝」の影響で、私の中では高杉晋作と言ったら伊勢谷友介なのです。(ごめんね、拓ちゃん←分かる人には分かる^^)
ところが今度のドラマでは、伊勢谷友介は何と松陰なんですよ。
ああ、混乱しちゃうわ。
因みにそのドラマの高杉晋作は高良健吾、そしてヒロイン文の最初の夫となる久坂玄瑞に東出昌大。 ヒロインは井上真央だし、なんか朝ドラから皆さんやってきましたと言う感じですね。
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