寛永六(1853)年ペリーが来航し、日本は帝国植民地時代の国際環境の苛烈な時期に入った。存亡の危機をさけんだ志士たちを群がって輩出し、一方、幕府も諸藩も江戸期科学の伝統に西洋科学を溶接し、ついに明治維新の成立とともにその急速な転換という世界史上の奇跡といわれる近代国家を成立させた。
その19世紀は、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。よって、日本は、海上よりくる列強の侵入をふせぐため、海軍システムを導入、国産の艦船をつくり、勝つための艦隊整備を行って来た。そのエネルギーが頂点に達するのは、日露戦争、バルチック艦隊(新鋭艦は5隻を含む戦艦8隻)に対し連合艦隊司令長官東郷平八郎率いる日本艦隊(戦艦4隻)で挑んだ時であった。
明治38(1905)年5月27日午後2時、「皇国の興廃、此の一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」もし、一戦に敗れれば、こんにちの日本はありえなかったであろう。満州において善戦しつつも、しかし結果においては戦力を衰耗させつつある日本陸軍が、一挙に孤軍の運命に陥り、半年を経ずして全滅、当然日本国は降伏する。全土がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの租借地になり、北海道全土と千島列島はロシア領になることが考えられた。満州や李朝鮮もほとんどロシアの属邦となり東アジアの歴史も大きく変わった可能性がある。
果たせるかな、5月29日午前7時、装甲巡洋艦ドンスコイの自沈を最後に、日本は大勝を帰すこととなる。結果は、ロシア艦隊の主力艦のことごとくは、撃沈、自沈、捕獲されたが、日本側の損害は水雷艇三隻であった。
この日本海海戦を契機として、ルーズベルト米国大統領の仲介によりポーツマスにおいて講和条約が9月5日調印されるに至る。また、この海戦は世界史を変え、欧亜という異なった人種のあいだに不平等が存在した時代は去り、白色人種も黄色人種も同一基盤に立ったのである。
小国日本が、物量で大きな差のある大国ロシアに対してなぜ勝ち得たのか。バルチック艦隊の到来を伝えるため170kmはなれた石垣島まで15時間かけて命がけで手漕ぎのボートで知らせにいった宮古島の5人の若者がいたように、おのおのができる範囲のことをできる限りの力を尽くすことによって、国家の危機にあたり国家に随順したことがあげられる。近代国家建設を目指して日本人の誰もが「坂の上の雲」を追いかけていた時代であったのである。
一方、昭和16(1941)年、常識では考えられない対米戦争を日本は開始した。当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっており、対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、誰もが保身上、沈黙した。その陸軍内部でも、ほんの少数の冷静な判断力のもちぬしは、ことごとく左遷された。結果は、常軌はずれのもっとも熱狂的な意見が通過してしまい、通過させることによって、他のものは身分上の安全を得たことにほっとするのであった。ちなみに、日露戦争の場合、ロシアがまさに皇帝独裁システムのもと、官僚制度が同様に腐敗した状況だった。
両戦争の比較すると、日露戦争は、太平洋戦争とは異なり、合理主義的計算思想から一歩も踏み外してはいなかった。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。五分五分の戦況を、なんとか作戦の優越によって六分四分までもってゆき、同情国に恃(たの)み、外交の手をもって一挙に終戦へこぎつける、という政略的計算があったればこそ開戦へ踏み切っている。太平洋戦争では、算術性の代用要素として哲学性をいれ、戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない「必勝の信念」の鼓吹や、「神州不滅」思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、日本軍首脳部の基礎思想になってしまっていたのである。
昭和と明治の国家の質も異なっていた。昭和十年代に軍事国家であった日本は、軍閥が天皇の権威を借りて日本を支配し、あたかもかれらが日本人の居住地であるこの国を支配したかのような意識の匂いももった。当然、国民はかれらの使用人になり、末期は奴隷のようになった。日露戦争当時は、国民が、艦隊を追い使っているような位置にあり、租税で艦隊をつくって、海軍に運営させている。海軍は国民の代行人であり、代行人が無能であることを国民は許しはしなかった。
世界第二位のGDPを築くにいたった現代の日本はどうか。年に三万人が自らの命をたたねばならない社会状況であり、また、わが子や介護を必要とする親を虐待する事件が毎日のように報道されている。「坂の上の雲」を追いかけている人がどれだけいるのだろうか。便利なものがあふれ、生活が満たされすぎているがゆえに逆にそれぞれが現状に甘んじてしまっている状況にあり、かつ多くのひとが閉塞感をいだきつつ日々を送っているのかもしれない。
今、日本に必要なのは、日本海海戦の際艦橋にて微動だにせず日本海軍を見守り続けた指揮官のように、国家の危機に凛として対峙することができるリーダーの存在であり、また、無私の気持ちをもち、ひとのために尽くしていこうとする思いをもった人々の存在である。
*『坂の上の雲』司馬遼太郎著 文藝春秋 新装版第1冊 1999年 参照
その19世紀は、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。よって、日本は、海上よりくる列強の侵入をふせぐため、海軍システムを導入、国産の艦船をつくり、勝つための艦隊整備を行って来た。そのエネルギーが頂点に達するのは、日露戦争、バルチック艦隊(新鋭艦は5隻を含む戦艦8隻)に対し連合艦隊司令長官東郷平八郎率いる日本艦隊(戦艦4隻)で挑んだ時であった。
明治38(1905)年5月27日午後2時、「皇国の興廃、此の一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」もし、一戦に敗れれば、こんにちの日本はありえなかったであろう。満州において善戦しつつも、しかし結果においては戦力を衰耗させつつある日本陸軍が、一挙に孤軍の運命に陥り、半年を経ずして全滅、当然日本国は降伏する。全土がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの租借地になり、北海道全土と千島列島はロシア領になることが考えられた。満州や李朝鮮もほとんどロシアの属邦となり東アジアの歴史も大きく変わった可能性がある。
果たせるかな、5月29日午前7時、装甲巡洋艦ドンスコイの自沈を最後に、日本は大勝を帰すこととなる。結果は、ロシア艦隊の主力艦のことごとくは、撃沈、自沈、捕獲されたが、日本側の損害は水雷艇三隻であった。
この日本海海戦を契機として、ルーズベルト米国大統領の仲介によりポーツマスにおいて講和条約が9月5日調印されるに至る。また、この海戦は世界史を変え、欧亜という異なった人種のあいだに不平等が存在した時代は去り、白色人種も黄色人種も同一基盤に立ったのである。
小国日本が、物量で大きな差のある大国ロシアに対してなぜ勝ち得たのか。バルチック艦隊の到来を伝えるため170kmはなれた石垣島まで15時間かけて命がけで手漕ぎのボートで知らせにいった宮古島の5人の若者がいたように、おのおのができる範囲のことをできる限りの力を尽くすことによって、国家の危機にあたり国家に随順したことがあげられる。近代国家建設を目指して日本人の誰もが「坂の上の雲」を追いかけていた時代であったのである。
一方、昭和16(1941)年、常識では考えられない対米戦争を日本は開始した。当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっており、対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、誰もが保身上、沈黙した。その陸軍内部でも、ほんの少数の冷静な判断力のもちぬしは、ことごとく左遷された。結果は、常軌はずれのもっとも熱狂的な意見が通過してしまい、通過させることによって、他のものは身分上の安全を得たことにほっとするのであった。ちなみに、日露戦争の場合、ロシアがまさに皇帝独裁システムのもと、官僚制度が同様に腐敗した状況だった。
両戦争の比較すると、日露戦争は、太平洋戦争とは異なり、合理主義的計算思想から一歩も踏み外してはいなかった。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。五分五分の戦況を、なんとか作戦の優越によって六分四分までもってゆき、同情国に恃(たの)み、外交の手をもって一挙に終戦へこぎつける、という政略的計算があったればこそ開戦へ踏み切っている。太平洋戦争では、算術性の代用要素として哲学性をいれ、戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない「必勝の信念」の鼓吹や、「神州不滅」思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、日本軍首脳部の基礎思想になってしまっていたのである。
昭和と明治の国家の質も異なっていた。昭和十年代に軍事国家であった日本は、軍閥が天皇の権威を借りて日本を支配し、あたかもかれらが日本人の居住地であるこの国を支配したかのような意識の匂いももった。当然、国民はかれらの使用人になり、末期は奴隷のようになった。日露戦争当時は、国民が、艦隊を追い使っているような位置にあり、租税で艦隊をつくって、海軍に運営させている。海軍は国民の代行人であり、代行人が無能であることを国民は許しはしなかった。
世界第二位のGDPを築くにいたった現代の日本はどうか。年に三万人が自らの命をたたねばならない社会状況であり、また、わが子や介護を必要とする親を虐待する事件が毎日のように報道されている。「坂の上の雲」を追いかけている人がどれだけいるのだろうか。便利なものがあふれ、生活が満たされすぎているがゆえに逆にそれぞれが現状に甘んじてしまっている状況にあり、かつ多くのひとが閉塞感をいだきつつ日々を送っているのかもしれない。
今、日本に必要なのは、日本海海戦の際艦橋にて微動だにせず日本海軍を見守り続けた指揮官のように、国家の危機に凛として対峙することができるリーダーの存在であり、また、無私の気持ちをもち、ひとのために尽くしていこうとする思いをもった人々の存在である。
*『坂の上の雲』司馬遼太郎著 文藝春秋 新装版第1冊 1999年 参照