京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「親鸞ファン」

2019年02月25日 | 講座・講演

  
「親鸞ファン」と講題に表現されたのは釈撤宗氏(聞き手)だったそうですが、コピーライター・糸井重里さんのお話を聞いてみたくて西本願寺の聞法会館へ。10時半開演のため10時に着けばと出かけましたら、すでに長蛇の列。開場後は詰めて詰めて、詰め合った大広間。

信者ではなく「親鸞ファン」。けれど限りなく近い感覚で、親鸞への思慕、憧憬の念がおありなのだそうだ。
今のこうした親鸞への気持ちは、例えば祖母から話を聞くとか、小耳にはさんだとか、関心のある仏像や寺を訪ね参拝する、などしてきた日常から、いつしか育まれていったものだおっしゃる。交流のあった吉本隆明氏も、親鸞との関わりのきっかけを「家が浄土真宗だったから」と言われたとのこと。

言葉に触れ、教えを学び、ぎりぎりのところまで近づいたとき、この先のことは、わからないけれど身をゆだねることができる、見えない世界とつながれる、と最後に思い切って崖からジャンプできる人を信仰心があると人と言えるだろう。かなり「宗教的才能がある人です」とは釈氏。ここに「信者」とそうではない人との差をみることができる。


いろいろ抱えながら生きなければならない人たちの思いをどこまで広く応援できるだろうか。一部の出家者のためではなく、在家での広がりは大事だ。
everyone(誰でも)の立場で救いとる親鸞。何か特別な修行を課すでもなく、ただお念仏をと説く。「こんな自分でもいいのか!?」という思いは、花を咲かせる最後の小さなタネ(糸井)である。親鸞は、そういう思いの人をも救いあげてきた。

現代人は、自分の苦しみに合う道具はないか?と求めるが、むしろ、不安定な言葉から自分の内面を掘り下げ、どれだけ心をのばしていけるかが問われてくる。個々によって違う背景、環境。これ一つで効果があるという、インパクトある言葉はないが、今日一日に、よりよく関われるものが潜んでいる。
「ああこういうことか…」と加齢とともに親鸞に近づける、「思想家親鸞」の魅力を語られた糸井さんでした。

私の耳は、自分が聞きたいと思う言葉だけをからめとっていた、ということで、勝手に解釈し、摘まみ出した。それでも残しておこうと思って…。私の中では、「信じる」という感覚がいつもうすぼんやりしたまま…。隠しておきたいことなのかもしれないのだけれど。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする