ハクモクレンの花がほころび始めた。
確かにモクレンとコブシとは異なる風情だけれど、花はそれぞれというに尽き、このコブシは嫌いじゃない。
一茶は、〈青みたる中ににこぶしの花盛〉と越後の春をたたえた。

孫Lが通っていた保育所までの道にコブシの大木があった。迎えに出た折、花盛りに指をさすと、「知ってるぅ。朝ママが言ってた」てなことを口にしたのだった。見上げれば、純白の無数の鳥のよう。もう一度一緒に見上げてみたい風景の一つ、かな。
2008年に82歳で亡くなった歌人前登志夫さんの随筆集を読んでいると、同じ白い花でも朴の花がしばしば登場する。氏の吉野の山家の庭には、朴の花や泰山木、大山蓮華が咲く。谷間に咲くとホトトギスが鳴く。そして、山中の若葉の木々の風を和讃として聴かれた。
〈朴若葉ひるがへし吹く若葉風弥陀来迎の和讃称ふる〉
山人として人生を貫かれた。転んだり、草崖から転落。その後遺症で頭蓋内部の血腫。血を吐く…。病院の窓から桜を眺め、「〇〇たい。〇〇たい」と望みを綴る。そんな晩年の素顔や絶筆に触れると、雲の上のお方でありながら親しみさえ感じてしみじみとする。
幾度となく開き、読み返す。
私の心のやすめどころ、仏教書以上の教典となる。
確かにモクレンとコブシとは異なる風情だけれど、花はそれぞれというに尽き、このコブシは嫌いじゃない。
一茶は、〈青みたる中ににこぶしの花盛〉と越後の春をたたえた。

孫Lが通っていた保育所までの道にコブシの大木があった。迎えに出た折、花盛りに指をさすと、「知ってるぅ。朝ママが言ってた」てなことを口にしたのだった。見上げれば、純白の無数の鳥のよう。もう一度一緒に見上げてみたい風景の一つ、かな。
2008年に82歳で亡くなった歌人前登志夫さんの随筆集を読んでいると、同じ白い花でも朴の花がしばしば登場する。氏の吉野の山家の庭には、朴の花や泰山木、大山蓮華が咲く。谷間に咲くとホトトギスが鳴く。そして、山中の若葉の木々の風を和讃として聴かれた。
〈朴若葉ひるがへし吹く若葉風弥陀来迎の和讃称ふる〉
山人として人生を貫かれた。転んだり、草崖から転落。その後遺症で頭蓋内部の血腫。血を吐く…。病院の窓から桜を眺め、「〇〇たい。〇〇たい」と望みを綴る。そんな晩年の素顔や絶筆に触れると、雲の上のお方でありながら親しみさえ感じてしみじみとする。
幾度となく開き、読み返す。

私の心のやすめどころ、仏教書以上の教典となる。
花(木)の好き嫌いは人それぞれの感性なんでしょうが、私の場合は、主に「色彩」ですね。
でも、日本の中にいては「ちょいとねぇ」と頷けない極彩色な花が、南国の眩しい位の空の下では、しっくり、似合うという現象も見てきました。
ちょっと喩えが違うかもしれませんが「やはり野に置けレンゲソウ」で、自然の中で生まれた花々は、何処であっても好ましい姿だと思います。
最近は、外国に出る機会が無くなった為でしょうか、近隣の野で季節季節に何気なく咲く山野草の花が、何ともカワイらしい思う様になりましたよ。
コブシはルーカスくんとの思い出でもありますね。
昔、長野(亡夫の故郷)へよく出かけたころ
遠くの山にうっすら雪が降ったように見えました。
ずっと後に山こぶしと知りました。
↓
「コブシの花はモクレンと比べて品位のない
粗野な花」とありました。えっ!と思いました。
感性は人それぞれ、とは言えここまで言うとは
コブシの花が可哀そうです。
上田三四二の随筆だったと思います。
主観の相違であれば仕方ありませんね。
コブシはコブシでも、私が路傍から見上げるコブシと長野の林間に望まれたものとは違うでしょうね。
ひょっとしますと、本当に何か違いがあるかもしれません?
どこのお宅の玄関先にも地植えやプランターで洋花の同じものが並んでいます。
海外からのものが本当に多く入り込んでいますね。
その土地、国土で育ってこそ美しさが光る花々もあるでしょう。
花は野に置け、利休でしたかね…?
少なくとも、花は野にあるように…、この思いが好きです。