![]() | 完訳 ファーブル昆虫記〈1〉 (岩波文庫) |
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岩波書店 |
昆虫文学としてあまりに有名な「ファーブル昆虫記」。本書はその第1巻に当たる。ちなみに、私の読んだこの本は、岩波文庫版で、山田吉彦氏と林達夫氏の訳によるものだ。この巻で扱われている昆虫は、くそむしと呼ばれるたまこがね類、狩人蜂のつちすがり類、あなばち類、じがばち類、はなだかばち類、そして土を使って独特の巣を作る左官蜂とも言えるはなばち類である。
ファーブルの時代には、昆虫に対して、なんとも牧歌的な迷信が流布していたようだ。例えば、くそむしは、運んでいた糞団子が、1匹では引き出せないような穴のなかに落ちると、助っ人を連れて戻ってくるといったようなことである。彼はそのような俗説が、たとえどのような権威者から唱えられようと、徹底的な観察と実験で真実を掘り起こして、反論を加える。
ファーブルは、徹底した実証主義者だ。彼の信念となっているのは、「実験を通じ学問に事実という強固な基礎を与えねばならない」(p325)ということなのである。彼は、ユーモラスで芝居がかった語り口で、観察したことを微に入り細に入り説明するが、その一方で観察している目は冷静そのものだ。そしてその卓越した観察力と推理力で、昆虫たちの纏っているヴェールをはがしていく。
虫たちも、ファーブルに目をつけられたら最後だ。徹底的に付きまとわれて、巣は壊されるわ、私生活を暴き出されるわで、大変な迷惑である。それだけではない。ファーブル先生、虫を解剖したり、針で刺したり、窒息させたりと、なんともサディスティックなこと。それだけではなく、あなばちに刺されたらどのくらい痛いかを自らの体を使って実験しているのだから、マゾっ気の方もあるようだ(笑)。おまけに、警察に不審者として連行されそうになったり、葡萄摘みの女たちに、理性を失ったかわいそうな人とおもわれたり。しかし、もちろん、そんなことでめげるファーブル先生ではない。
虫たちの持っている本能というのは、本当に不思議なものだ。例えば、狩人蜂たちは、種類により獲物とする虫がちがうが、それぞれどこを攻撃すれば、幼虫の餌として新鮮さを保っていられるかを知っているのである。反面、そのすごい本能は、全く応用がきかないというのがなんとも面白いところだ。ファーブルが取り上げている蜂たちは、何キロも離れた知らない場所からも巣に戻ってこられるというのに、巣の位置を少し変えられただけで、自分の巣かどうかを判別できなくなるのだから。
これは致し方のないことではあるが、扱われている昆虫は、それぞれ図が載せられているとはいえ、フランスの昆虫なので、私達にはそれほどなじみがないだろう。もしこれが、私たちにとっても身近な昆虫だったら、興味の度合いが一段違ってくるのではないだろうか、しかし、それでも昆虫たちの持つ本能の不思議さ、面白さというものは、十分に伝わってくる。昆虫好きの人には必読の書だろう。
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