中国地域の藩と人―地域を支えた人びと (中国総研・地域再発見BOOKS) | |
クリエーター情報なし | |
中国地方総合研究センター |
徳川政権260年における中国地方の藩について紹介した、「中国地域の藩と人―地域を支えた人びと」(中国地方総合研究センター編:中国地方総合研究センター)。この時代、中国地方には、全部で41の藩が存在したという。現在の5県に対して、41藩では、一見藩の数が多いように思えるが、これは、支藩や廃藩になったものも含めての数だからだ。例えば、鳥取県の米子は、鳥取藩の一部だったが、独立した米子藩が置かれた時期もあった。また幕末の雄藩・長州藩も、本藩の他に長府、清末、徳山、岩国の4つの支藩があったのだ。これらの藩からは、多くの人材が輩出され、数々のドラマが生み出されて来た。
ところで、江戸時代を幕藩体勢というが、意外なことに、「藩」が正式な名称だったのは、幕末の慶応4年(1868)に「政体書」により、旧大名領を「藩」と称してから、明治4年(1871)に廃藩置県がおこなわれるまでの僅か3年余りだったという。もっとも、江戸時代中期ごろからは、俗称としては、使われていたようだが。
藩と言えば、中心になるのは、何といっても殿様である。中国地方にも、多くの名君と呼ばれる殿様がいた。何人か紹介してみよう。
まず、池田光政であるが、この人はなんと3つの藩の藩主を歴任している。父の死により、姫路藩42万石を8歳で相続したが、幼少を理由に、鳥取藩32万石に移封された。そして、叔父の岡山藩主・池田忠雄が死ぬと、忠雄の嫡男光仲が幼少だったために、再度国替えになり、最終的には、岡山藩31万5千2百石の藩主となったのだ。光政は、藩政改革に力をつくしたことで知られている。
松江と言えば和菓子で有名だが、これは、松江藩主松平治郷(不昧)の影響だ。治郷は、茶人として知られているが、政治家としても有能で、父の代では失敗続きだった藩政改革を成功に導いたという。この他にも、長州藩主毛利重就など名君と呼ばれる人物が多い
家臣の方も負けてはいない。茶人として知られた広島藩家臣の上田重安、藩政改革に力をふるった長州藩の村田清風や周布政之助など、まさに多士済々である。
本書は、副題に「地域を支えた人びと」とあるが、単なる人物の紹介にとどまらず、藩政時代の産業や教育などにも幅広く触れており、あの時代の中国地方の様子がうかがえる、興味深い内容となっている。中国地方の幕藩期に限定して記述されているので、通常の歴史書とは一味違う興味深い話題が満載だ。中国地方に住んでいる方だけでなく、他の地方に住んでいても故郷が中国地方にある方、中国地方に興味を持っておられる方などもぜひ読んでみてほしい。
☆☆☆☆
※本記事は、姉妹ブログと同時掲載です。