文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
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書評:一茶の相続争い 北国街道柏原宿訴訟始末

2017-10-01 11:26:32 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
一茶の相続争い――北国街道柏原宿訴訟始末 (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店

・高橋敏

我と来て遊べや親のない雀
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
やせ蛙負けるな一茶是にあり


 いずれも小林一茶の句である。この俳句からは、一茶とは、小さきもの、弱きものに対しても優しいまなざしを向ける好々爺のような人物を思い浮かべてしまうのではないだろうか。

 しかし一茶の本名である百姓弥太郎としての姿は、このような句からは想像できないようなものだろう。何しろ、実の弟と父の遺した遺産を巡って十数年もの争いを繰り広げたのだから。本書は、この弥太郎としての一茶を描いたものである。

 一茶は、1763年(宝暦13)北信濃柏原宿の百姓弥五兵衛の子として産まれた。3歳の時、実の母と死に別れて、8歳の時に入って来た継母との折り合いも悪く、弟仙六(弥兵衛)も生まれたため、15歳で江戸に奉公に出される。江戸で俳諧師となった一茶だが、殆ど実家には帰っていない。

 ところが、1801年(享和元)に実家に姿を現したところ、そこには病に倒れた父弥五兵衛の姿があった。一茶は、この父を献身的に看病したようだ。おそらく弥五兵衛の方にも、一茶に対する色々な負い目のようなものがあったのだろう。遺産を一茶と弟弥兵衛に分割するという遺言書を遺したのだ。

 一茶はこの遺言書を盾に、血を分けた弟を相手に、遺産分割に関する訴訟を起こすのである。人は歳を取ると、故郷への思いが強くなるのだろう。一茶の気持ちも分からなくもない。しかし、これまで村に対しても実家に対しても一切の貢献をしてこなかった一茶に対する村人の目は冷たかったようだ。

 驚くのは、この訴訟が、公平に処理されたということと、文書により色々な手続きが行われているというところである。結局、一茶は遺産の半分を受け取ることになった。

 帰村した一茶は、24歳年下の娘菊と結婚するも死に別れ、生まれた子も次々に亡くなり、自らも中風を発症してしまった。再婚した妻雪にも逃げられ、再再婚した妻やをとの間にようやく娘やたを遺すことができたのである。しかし一茶はやたが生まれる前に既にこの世の人ではなかった。

 人は誰でも二面性を持っている。俳人一茶もその例外ではなかったのだろう。後に柏原宿の入り口に一茶の句碑を立てた際に先頭に立ったのが、かって父の遺産を巡り骨肉の争いを繰り広げた弟弥兵衛だったということが、なんだかほっとするような読後感を残す。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。

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