文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

どのアメリカ?

2021-10-12 13:46:28 | 書評:学術・教養(人文・社会他)

 

 <アメリカと言うのは不思議な国である。驚くほど多様性に満ちており、差別も絶えないのに、いざと言うときには一致団結し、強い統一性を示す>というのが著者の主張だろう。著者はこのことを様々な観点から述べている。

 アメリカは一筋縄ではいかない。自由と平等を歌いながら「差別」は確かにある(もちろんそうでない人もいる)。ジョン万次郎を救助した捕鯨船の船長は、教会で万次郎が、家族といっしょに席ではなく、黒人たちの席に座るように牧師から言われたことに立腹し、2回も教会を変えている。そもそも白人と黒人を分けて座らせるというのが、今の感覚だったらあり得ないと思うのだが、神の前での平等を謳う教会でさえこうなのだから、一般の人々は、たとえ外に出さなくても、心の中はどうかは想像がつく。

 また、個人主義のアメリカでは、周りの空気を読む必要がないというのは、KY(空気読めない)という言葉が流行るような、空気社会日本に住む者としてはうらやましいと思う。アメリカでは、100人中99人が右と言っても一人だけ左と言うような人がいるらしい。日本だったら、そんなことをすれば、すぐあいつはビョーキだと言われてしまうだろう。

ただ競争が激しいだけでなく、その結果が明白にされ外へ示され勝ち負けがこれほどはっきりするのは、アメリカ社会の特徴かもしれない。(p140)



 これは運動の世界では今でも残っている。0コンマ何秒という誤差のような成績で大騒ぎされるのである。(これはどこの国でも同じだが) しかし学業の世界ではどうだろう。かっては日本でも、誰がどんな成績をとったかは(特に上位においては)割とオープンだった。上位者は成績が貼り出されていたのである。でも最近は、成績の貼り出しなどは、やられていないのではないか。我が国でも学業に関する競争は間違いなくあるが、結果は明白ではない。

 さすがに奴隷制度のあったアメリカでも、最近は根拠のない「差別」は非難されるが。「資格」や「能力」による「区別」は正当化されるとのことだ。我が国では、「競争」ということにあまりポジティブなイメージをもつ人は少なく、「差別」も「区別」も一緒に扱われることが多いのではないかと思う。

日本の一部にある競争こそが諸悪の根源だという発想は、アメリカにはまずない。(pp146-147)



 まあ、競争のない世界では社会の発展はないだろうなと思う。つまり、アメリカはなんやかんや言っても、実力のある人にとっては魅力的なのである。そこには、先祖がどうとかいったことは関係ない。固定された階級や制度なんてない。本人の力だけが評価されるのである。
 
 ところで、本書には、「人種」と言う言葉が多く使われている。「人種差別」という文脈で使われていることが多いので、定着しているように思えるこの用語を使うのは問題ないように思えるし、私も言葉狩りをするつもりはない。しかし、ヒトの種類は「ホモサピエンス」1種しかないというのが私の立場だ。要するに人種なるものは1種類しか存在しない。それは、白人、黒人、黄色人と、どのような組み合わせでも混血可能ということから立証できると思う。黒人だろうが、白人だろうが、黄色人だろうが、それぞれが環境に適応していった結果に過ぎないのだろう。だから使うとしたら「民族差別」と言う方が正確だと思うが、あまり一般的になっていないのは残念。

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

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銭形平次捕物控 096 忍術指南

2021-10-10 08:41:17 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)

 

 なんと、平次と子分の八五郎が忍者に弟子入りした。弟子入り策は左内坂の浪人成瀬九十郎。忍術にも流派は色々あるが、平次が弟子入りしたのは、伊賀でも甲賀でもない霞流という珍しい忍術。成瀬九十郎には、お加奈という娘がおり、寂しい感じだが、なかなかの美人。八五郎は、いつものようにこの娘にご執心。八五郎に言わせれば、お加奈は夕顔の花のようだということらしい。二人は、次平と五郎八と言う偽名で忍術道場に入門する。(ものすごく安直な偽名の付け方のような気がするが)

 一方そのころ、江戸では山脇玄内という泥坊が世間を騒がせていた。主に、高家大名や大町人を襲い、奪った金を貧乏人にばらまくのだから世間から喝さいを受けていた。

 平次が忍術道場に入門したのは、奉行所から、謀反むほんの企てがあって大変なので、中に入って探るように命じられたからだ。そのうち、平次は、成瀬九十郎こそ山脇玄内ではないかと思うようになるのだが、事件は意外な方向に動く。

 銭形平次の物語には、平次のライバル?として、名探偵ならぬ迷探偵が出て来て、話を盛り上げている。有名なのは、三ノ輪の万七だが、この話ではなんと八五郎がその役目を引き受けている。なにしろ無実の成瀬九十郎とお加奈をふん縛っているのだから。

「お加奈は泣いていましたぜ、可哀想に」
「俺はただ泣かせただけだが、お前は縛ったじゃないか。いずれにしても夕顔の花とは縁がないよ、諦めるがいい」



 まだまだ八五郎には、春は来ないようで・・・

 しかし、すっかり銭形平次に嵌ってしまったようだ。1話あたりが短くすぐ読めるのもいい。時代考証的には、少々変な点もあるのだが、フィクションとして読めば、なかなか面白い。

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

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悪友

2021-10-08 09:19:06 | 書評:その他

 

 

 最近よく「京大短歌」出身者の歌集を目にするが、本書の作者も、「京大短歌」に参加していたらしい。ちなみに、著者の名前の読み方は「さかきばら ひろ」さんといい、奈良女子大の出身だということだから女性である。

 まず目を引くのが表紙イラスト。サムネイルだとちょっと分かり難いが、いかにも怪しげなどこかの呪術師のようなイラストが描かれている。タイトルが「悪友」ということは、「君の悪友は、ラノベやファンタジー小説に出てくるような呪術師なんかい」とついツッコミたくなる。

 短歌の中に英語が入っているものは見たことがあるが、この歌集に収められている歌のように、ポーランド語が入っているものは初めて見た。Krakowとタイトルがつけられた章の中に含まれる歌だ。ちなみにKrakowはポーランドのクラコフと言う南部にある歴史ある都市のようだ。章のタイトルがKrakowなので、この章に収録されている歌はクラコフにインスパイアされて詠んだ歌なのだろう。ちなみに正式のポーランド語ではoの上に「’」が付くらしい。

 漫画・アニメや映画からもインスパイアされて歌を詠んだのだろう。そのようなタイトルが付けられた章がいくつかある。ただ、残念ながら私はそれらの元ネタにはあまり詳しくはない。この辺りがジェネレーションギャップなのだろうか。

 章のタイトルと収められている歌の間の関係性については、正直どうしてこの歌がこのタイトルの章に入れられているのかよく分からないものもある。訪れた場所や観た漫画・アニメや映画などでインスパイアされたものは分かりやすいのだが。

☆☆☆

 

 

 

 

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放送大学「社会調査の方法」レポート完了

2021-10-06 22:17:09 | 放送大学関係

 先般放送大学2021年度2学期の「生活経済学」のレポート(通信課題)をやったが、今度は残りの「社会調査の基礎」のレポートをやった。これで提出可能日がくれば、忘れないように出せばノルマ達成となる。

 今回、早めに準備をしているのは、50肩で中断していた秋田大学の通信教育の方をそろそろ再開したいからである。左腕の可動域はまだあまりもどっていないが(もどるのかな?)痛みの方は、よほどのことがない限りはなくなっている。まだまだ不便な思いはあるが、一時よりは大分ましになったので、そろそろ再開したいと思う。ひどいときはパソコンを打つのに右手しか使えなかったが、今は左手も使えるので助かっている。

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銭形平次捕物控 210 飛ぶ女

2021-10-06 10:53:02 | 書評:小説(ミステリー・ホラー)

 

 

「親分、お早やうございます。今日も暑くなりさうですね」
 御馴染の八五郎、神妙に格子を開けて、見透しの六疊に所在なさの煙草にしてゐる錢形平次に聲を掛けました。
「大層丁寧な口をきくぢやないか。さう改まつて物を申されると、借金取りが來たやうで氣味がよくねえ。矢つ張り八五郎は格子を蹴飛ばして大變をけし込むか、庭木戸の上へ長んがい顎を載つけなくちや、恰好が付かないね」



とこのように、物語は平次親分と、子分の八五郎の掛け合いで始まる。二人の掛け合いは、話の中でもいたるところでみられるが、これらも銭形平次の魅力の一つだろう。

 さて事件の方だが、藥研堀に住む旗本の石崎丹後の紛失物を探し出せば、褒美の金が百両もらえるというのだ。八五郎の叔母が世話になっている大家が、石崎家の用人と眤懇だったことから、この話が、平次に回ってきたという訳だ。

百兩といふ金があれば、半歳溜めた家賃を拂つて、女房のお靜に氣のきいた袷を着せて、好きな國府の飛切りを、尻から煙が出るほどふかしても請け合ひ九十七八兩は殘る勘定だつたのです。惡いことを大眼に見て袖の下かなんかを取るのと違つて、チヨイと物を搜さがしてやつて、百兩の褒美を貰ふのは、良心に恥ぢるほどの仕事ではないやうに、八五郎の太い神經では感じたのです。



 つまり、平次は貧乏だということ。江戸時代の岡っ引きは、奉行所に雇われているという訳ではなく、奉行所に勤める同心などの役人から私的に雇われた存在である。だから奉行所から給料は支払われなかったので、役人から小遣いをもらっていたが、その金額は驚くほど安かった。当然それだけでは生活が出来ないので、女房に店をやらせているのが常だったが、平次のおかみさんのお静さんには、これまで読んだ限りではそんな記述は見当たらなかったので、平次の無精さとも相まって、かなりの貧乏暮らしをしていたんだろうと推察される。

 さて、百両の探し物には心を動かされなかった平次だが、無報酬の玉川一座の事件の方には心惹かれる。玉川一座の花形・燕女が「殺されるかもしれない」というのだ。

 それから二三日、こんどは富澤町の和泉屋のところに泥棒が入り、番頭が殺される。和泉屋というのは、金貸しで繁盛した家だ。

 この三つの事件、石崎丹後の事件、玉川燕女の事件、和泉屋の事件がやがて一つに絡まり、平次の推理が冴える。そして最後に残るのは、八五郎の失恋。それにしても八五郎、惚れっぽいね(笑)

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

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共学高校のゲンジツ 1~3

2021-10-04 14:13:21 | 書評:その他

 

 

 

 

 共学校に通う少年少女たちの日常を描いた作品。特に大きな事件が起こる訳ではない。普通の日常を。少しユーモラスに描いたものだ。中心となっているのは、草野くん、奈良木くん、内浦くんの3人の男子と保延さん、尼妻さんをはじめとする女子たち。

 内浦くんは一見不良キャラだが、普通の人。保延さんは、鼻が弱く、いつも鼻をかんでいるし、スカートの下になぜかいつも、ジャージを履いている。尼妻さんは、花園に行くのが夢のラグビー女子でゲーム好き。草野君は、初めて会ったときにベンチの後ろ側にいたので、てっきり男子だと思っていたが、スカートを履いていたのでびっくり。

 特に面白かったのが、ある女子生徒が行った、眼鏡っ娘が眼鏡をとると美少女が現れるという法則の調査。67人目になっても、美少女は現れなかったようで、

「美少女にならないのならせめて・・・ 目を3にしなさーい!!」(1巻p123)



 そう、よくギャグマンガにある、眼鏡をはずすと目が3のようになってるやつだ。

 しかし、美少女なんてそうそうクラスにいるものではないと思う。よく学園漫画などを見るとクラスの女子はみんな美少女に描かれているが、共学高校に通っていた人は、自分の高校生時代を思い返してみるといい。いかに現実と二次元の世界が違うかということが分かるのではないだろうか。それに描かれているのは、美少女でないといいながらも、分類すれば美少女枠に入るのではないかと思う。

 盛り上がりのようなものは感じられないが、自分の高校時代を思い出す等、ノスタルジーを刺激され、結構この手の作品は好きかな。

☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

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「生活経済学」のレポート完成

2021-10-03 23:26:00 | 放送大学関係

 2021年度2学期のテキストが届いたので、さっそく「生活経済学」のレポート(通信指導)を完成させた。まだ提出期間ではないので、提出は出来ないが、提出期間になったら忘れないように提出しないといけない。

 「社会調査の基礎」の方は、まだ手付かずだが暇をみて、ぼちぼちやって行こう。

 

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地上絵

2021-10-02 08:58:41 | 書評:その他

 

 本書は、橋爪さんの詠んだ短歌を集めた歌集である。現代風の短歌がならんでおり、なかなか楽しい。例えば次のような歌だ。

I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる(p12)



 英文が入っている短歌は初めてみたが、面白い試みだと思う。

 体裁としては、タイトルの入っている頁は2首、入っていない頁は3首となっている。だから見開き2頁には、5首ないし6首の歌が入っていることになる。

 このタイトルは、その部分に収められている短歌からとられているが、「熱帯夜」と言うパートには、その単語が見られない。短歌にそのものずばりのキーワードが入っていることが多い。たとえば「地上絵」と言うパートには、上記の短歌が収録されているが、歌の中に「地上絵」というキーワードが見られる。このように収められている歌のひとつにそのものずばりのキーワードが入っているという訳だ。

 しかし幾つか例外がある。「星とカメレオン」と言うタイトルは、次の2つの歌から取られているのだろう。

よせがきに君が小さく描いてあげた舌のくるくるしたカメレオン(p16) 
坂道の降りきるまでをつなぐ手でたとえばも燃やせないこと(p17)



これも原則から言えば変化球だ。「とおざかる星」というパートに収められている歌である。

おそろいのキーホルダーはいつまでも持っててほしい星とおざかる(p84)



 お気づきだろうか。最後の言葉をそのものずばり使っている訳ではなく、ひっくり返して使っているのだ。

 ただ歌のまとめ方と、パートのタイトルの付け方には異論がある。歌集を編むときは、何らかの意図を持って歌を纏めるはずである。そしてその纏めた意図に相応しいタイトルをつけるのだ。しかし、何度読み直しても、そのパートに収められた歌からは、タイトルの意図が感じられない。もし私の読解力不足ならご容赦を。

☆☆☆

 

 

 

 

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