曇、25度、92%
私が育ったのは福岡市の西、唐津街道を西に走れば海を見ながら佐賀に向かい、早良街道をを北に走れば山を越えて佐賀に入ります。海の幸山の幸がどちらも豊富なこの街で、高校を出るまで生活しました。ここには有名な商店街があります。商店街といってもアーケードーのような商店街ではありません。長さはどれくらいでしょう、1キロもあるかしら。今その商店街を歩くと、昔からの八百屋も魚屋もポツポツとしか残っていません。中には小学校で同級生だった男の子のかまぼこ屋があります。店をのぞくと、魚のすり身を揚げるさつま揚げを、小さな彼がいつも揚げている姿が見えました。ところがここ数ヶ月お店のシャッターは閉まったままです。なぜ有名かって、早良街道、唐津街道を使って、朝採れの野菜、お魚、果物が運ばれて来て、ずらっと並んだリヤカーで売られます。リヤカー部隊と呼ばれていました。今では流通が変わって来ました。リヤカーの数も随分減ったそうです。
その商店街のやや西のはずれに、昔とちっとも変わらない店構え重いガラスの引き戸の豆屋があります。並んだ日本中から集めた豆の樽、昔は真っ白い枡が豆の上に乗っていました。枡で3つと言って、母が小豆を買っていました。飛び切りの黒豆も信州の花豆の良さも、主婦になった私に教えてくれたのはここのおばあさんでした。おばあさん、よく考えると私が小さい頃のおばさんです。
普通の店では手に入らない豆が並んでいます。 白あんのために求める手亡の白豆を求めるために、豆やの硝子戸をがらっと開けました。いつもは、おばあさん亡き後、おばあさんソクッリな私と同じ年代のおばさんがお店に出て来てくれます。ところが、昨日は、やや細身のやはり私年代のおばさんが、慣れた様子で店の中でシャキシャキと働いています。手亡を300gください。と私。お店にはお客は私ひとりです。豆を秤に移しながら、私のスカートが可愛い、何処で買ったの?と聞いて来ます。これは作ってもらったものと話すうちに、急に幾つ?と聞きます。いやはや、早口で、矢継ぎ早に話すこと。57です、と言うと、私73よ。びっくりしました。お若く見えますねえ、と話します。
いつもの恰幅のいいおばさんは、お元気ですかと聞くと、妹よ。とおっしゃいます。全然似ていません。私は小さい頃からこの店に来てることを言うと、急に、どこの学校とお聞きになります。まじめに私学の小学校から公立に転校したことなどを話していると、そのおばさん同じ私学の先輩でした。ここからが大変です。なぜか長い長いこのおばさんの初恋の話を聞く羽目になりました。その間にお客が3人、手を動かしながら、話は、ずっと昔の初恋の話。大分に転校して行った相手の男の子が、蝉を入れた手紙をくれて、好きだったと書かれていたという話です。
今考えても、何処から初恋の話になったのかよく覚えていないのですが、4人目のお客さんが入って来た時に、また来ますねと店を出ました。おばさん、ゆっくり来てね、とおしゃいました。初めて会った方から、初恋の話を聞くとは、なんだか心温まります。それにしても随分時間が経っています。私の実家と主人の実家を移動するときは、この商店街を通ります。いいお豆があるこのお店には必ず寄ります。きっと、初恋の話のおばさんにもまた会えると思います。地元に生活するってこういうことなんでしょうね。
昔から変わらず、 お豆は白い紙袋に入れられます。そして両端をきゅっと捩って渡してくれます。この捩り方、昔のお婆ちゃんが、一番しっかりしていましたね。