憧れの車輌たちは、早くも第10弾を迎えました。今まで多数の方にアクセスいただき、大変有難く、そしてうれしく思います。折角今までにたくさんの写真を撮ってきたので、大事にしまっておくのも勿体無いので、出来るだけ多くの方にご覧いただき、また楽しんでいただければと思います。これからも、出来る限り続けていけるよう頑張っていきますので、皆様よろしくお願いいたします。
お願いなのですが、私ごと当ブログをランキングに登録しておりますが、出来るだけ沢山の方にご覧いただければと思いますので、お手数ですが「鉄道ブログ」のバナー(ボタン)をクリックしていただけるようお願いいたします。これは個人の利益とかそういうものではなく、只ここに「私のブログ」があることをできるだけ多くの方に知っていただき、見ていただきたいためのものですので、わがままなお願いですが、どうぞよろしくお願いいたします。
前置きが長くなってしまい申し訳ありません。
第10弾は、「クモハ42系」です。
私が旧型国電に興味を持ち始めたのは、高校生になる頃からだと思います。戦前型の電気機関車が退役して行く中で、同時に旧型国電が数を減らしつつあることを鉄道雑誌を買うようになってから知り始めたからかもしれません。首都圏でも、高崎(両毛線・信越線)や川崎(南武線・鶴見線)で旧型を見ることが出来ましたが、いずれも急速に淘汰され始めた頃でした。
ちょうどこの頃に見た鉄道雑誌に飯田線や身延線、大糸線の旧国が終盤を迎える記事があり、そこで見た「クモハ42系」に非常に惹かれることになりました。
「クモハ42」は、2ドアで側面にズラリと並ぶ小窓、前頭にパンタグラフを振りかざし、貫通幌枠をそなえ引き締まった前面に、戦前のスターの面影を見ました。
また、これとは対象に合いの子流電「クモハ53」は、戦前型とは思えぬ流美なスタイル、パンタグラフを後部に移しスッキリした前面、ウインドシル・ヘッダーの無い広窓が並ぶ側面にも、かつて関西急行として活躍したスターであったことを十分に語れる存在と思えました。
昭和58年4月17日 豊橋にて 165系と並ぶ「クモハ43013」
飯田線で最後まで残った「クモハ43」。出力をアップした同型のクモハ53もいましたので、2ドア車に出逢う機会は多くありました。「クモハ42」が既にいなかったので、片運でも同型が心の拠り所であったといえます。ちなみに、このとき既に80系が全廃になっており、すべて165系に置き換えられてしまいました。
昭和57年10月5日 小野田線本山支線 長門本山にて 折返し待機の「クモハ42005」
飯田線の「クモハ42」亡き後、最後まで同車が残った小野田線にて。個人の趣味ですが、私はスカ色で前面に貫通幌受けが付いた姿が好きだったため、小野田線の同車には物足りなさを感じていました。同車が最後の戦前型営業車として残るとは思いもよりませんでした。
昭和58年2月23日 伊那松島機関区にて 「クモハ53007」
実車を見て改めて惚れてしまいました。併結4連を組み滅多に見せない前頭部。このときに初めてこの前面を拝むことが出来ました。ホントにカッコいいです。
しかし、その後の活躍は長くは続かず、飯田線の旧型全廃を前に引退してしまいました。運用離脱後は浜松工場の留置線で、その前面を私たちに見せて「最後のお別れ」を告げていました。
私はトータルで旧型国電が好きでしたが、特にこの2型式には思い入れがありました。しかし、時すでに遅し、流電「クモハ52系」とともに「クモハ42型」は廃車となっておりました。また、「クモハ53007」も前頭側を併結面にされていたため、堂々と先頭に立つことは滅多にありませんでした。
そんな中、最後まで残った「クモハ43」や「クモハ53008」が先頭に立って元気に走ってくれたので、これを励みに飯田線に通うことが出来たのだと思います。
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第10弾は、「クモハ42系」です。
私が旧型国電に興味を持ち始めたのは、高校生になる頃からだと思います。戦前型の電気機関車が退役して行く中で、同時に旧型国電が数を減らしつつあることを鉄道雑誌を買うようになってから知り始めたからかもしれません。首都圏でも、高崎(両毛線・信越線)や川崎(南武線・鶴見線)で旧型を見ることが出来ましたが、いずれも急速に淘汰され始めた頃でした。
ちょうどこの頃に見た鉄道雑誌に飯田線や身延線、大糸線の旧国が終盤を迎える記事があり、そこで見た「クモハ42系」に非常に惹かれることになりました。
「クモハ42」は、2ドアで側面にズラリと並ぶ小窓、前頭にパンタグラフを振りかざし、貫通幌枠をそなえ引き締まった前面に、戦前のスターの面影を見ました。
また、これとは対象に合いの子流電「クモハ53」は、戦前型とは思えぬ流美なスタイル、パンタグラフを後部に移しスッキリした前面、ウインドシル・ヘッダーの無い広窓が並ぶ側面にも、かつて関西急行として活躍したスターであったことを十分に語れる存在と思えました。
昭和58年4月17日 豊橋にて 165系と並ぶ「クモハ43013」
飯田線で最後まで残った「クモハ43」。出力をアップした同型のクモハ53もいましたので、2ドア車に出逢う機会は多くありました。「クモハ42」が既にいなかったので、片運でも同型が心の拠り所であったといえます。ちなみに、このとき既に80系が全廃になっており、すべて165系に置き換えられてしまいました。
昭和57年10月5日 小野田線本山支線 長門本山にて 折返し待機の「クモハ42005」
飯田線の「クモハ42」亡き後、最後まで同車が残った小野田線にて。個人の趣味ですが、私はスカ色で前面に貫通幌受けが付いた姿が好きだったため、小野田線の同車には物足りなさを感じていました。同車が最後の戦前型営業車として残るとは思いもよりませんでした。
昭和58年2月23日 伊那松島機関区にて 「クモハ53007」
実車を見て改めて惚れてしまいました。併結4連を組み滅多に見せない前頭部。このときに初めてこの前面を拝むことが出来ました。ホントにカッコいいです。
しかし、その後の活躍は長くは続かず、飯田線の旧型全廃を前に引退してしまいました。運用離脱後は浜松工場の留置線で、その前面を私たちに見せて「最後のお別れ」を告げていました。
私はトータルで旧型国電が好きでしたが、特にこの2型式には思い入れがありました。しかし、時すでに遅し、流電「クモハ52系」とともに「クモハ42型」は廃車となっておりました。また、「クモハ53007」も前頭側を併結面にされていたため、堂々と先頭に立つことは滅多にありませんでした。
そんな中、最後まで残った「クモハ43」や「クモハ53008」が先頭に立って元気に走ってくれたので、これを励みに飯田線に通うことが出来たのだと思います。