蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

平凡、けっこう、好きです。

2011-07-07 | 暮らし

昨日の記事は、3年前にも同じ人物と思われる内容をアップしていた。
(夫人の名前は、適当のようだ→わたしの、いい加減さが、バレバレ)

書きながら、この内容、どこかで書いたことがあるなあ・・・と思いつつ、
まあ、いいか~と、詰めも甘く、アップした。
3年経っても、彼女は同じ。
記事を読み返し、あまりの同じさに、改めてびっくりした。
ただ、わたしの態度が、3年前の記事に比べると、ぶっきらぼうになっているようだ。

ちょっと遠慮しつつ、おどおどしつつ、困惑・・・というのが、3年前。
今は、半分、キレかけ。
嫌われてもいいや、という捨て身の気持ちが、ありありと読み取れる。
ひとは、同じことを繰り返していると、良くも悪くも、変化するものなんだな、と、思った。


わたしの日記なんぞ、おもしろくもなんともない。
もうちょっと、ハプニングやアクシデント、サプライズ(あああ、全部、カタカナ英語)
そういうものが、ばばっと次から次へ、予期しない展開になれば、
痛快、スカっとするだろうに。

毎日のごはん、
朝は、メザシと梅干、白米、昼は、ラーメン、夜は、八宝菜と、・・・・
こんなの、食べました、おいしかったです、まずかったです、少なかったです、多すぎました。
そういうメニューの羅列レポートのかんじ。(実際のメニューは違うけれど)

こんなの、つまらんですね。
しかし、人生は、ほとんどが、つまらない一日と、何事もない一日で構成されていて
ほんの一握りの、花火のような数日が、アクセントになっている。

一生のうちで、食事をする回数は、ほぼ決まっている。
誰と食べるかにもよるだろうし、どこで、どんなふうに食べるか、
ひとつひとつを味わって食べてみるのと、無意識とでは、違ってくるだろう。
なにごとも無意識にやっていると、どんどん知らないうちに時間は経っていく。
こうやって人生の持ち点を使っていくと、残りは少しずつ減っていく。
食べることだけに限らず、すべての分野においても、そう。


卒業した学校の同窓会誌が先日、郵送されてきた。
1年に1回、きちんきちんと送られてくる。
明治23年以来、もう170回近くになるようだが、
途中、第二次戦争のあたりは、何年か中断されている。
そこで、各年度の卒業生の3行だよりが、毎回、順番で掲載されている。
それを読むと、おもしろい。
たった3行で、その人がよく表されている。

毎日の生活に埋もれているようで、埋もれていない。
みんな、結構、いきいきと生きている。

どうでもいいことを、あーだ、こーだと綴るのが好きなわたしだが、
じつは、けっこう、楽しく毎日を送っている。
そして、こんな平凡な毎日が気に入っている。
(サプライズは、ありませんが)


毎日の繰り返し。点となり、やがて線となる。
人やモノ、モノゴトと出会い、交差し、そして、線は面となり、面は立体となる。
そうやって、いくつもの点や線、面や立体は、時空を超えてつながる。
過去、現在、未来へと。

なので、毎日のゴハンも、その構成要素の必須アイテム。
もう見たくないほど見飽きた夫も、重要なキーマン。
子供たちは、未来へと誘ってくれる大事なマンパワー。

ということで、不平を言っても一日は終わるし、
楽しく過ごしても、一日は終わる。
じゃあ、楽しいほうが、いいですね。
(あたりまえですが)

ついでに、ほんの少し先のことを見据えて、
毎日、ちょっぴり努力すると、鬼に金棒。


ということで、まったくマトメになっていないところで、
今日はオワリです。

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