友達が多い人と、少ない人がいる。
わたしは、少ない人の最先端にいる。
つまり、ほとんどいない。
これは、ひとつには、ものぐさ、めんどくさがり、親切心なし、世話焼きの反対、協調性なし、
などなど・・・自分の性格に起因する。
たとえば、大勢で集まった時、スナップ写真を撮る。
撮った写真をすぐさま、焼き増して、その場にいた皆に配る。
わたしは、いつももらうばかりで、配ったためしがない。
というか、データのまんま、なんの加工も加えられず、ずっと眠っている。
いつも「ありがとう」と言う側の人と、「ありがとう」と言われる側の人。
それぞれの定位置がある。
たまには、ちょっとぐらい、頑張らないといけないのに、いつも、「ありがとう」とにっこりするだけ。
そうやって、そんな積み重ねから、知らず知らず、友達リストから、どんどん外されていく。
「またお茶しようね」と送信されたメールの最後に、挨拶言葉が添えられる。
「ぜひ、お茶しようね。楽しみにしています」
そうメールで返信して、一件落着。あとは、ほったらかし。
おたがい、社交辞令。
こっちからアクションを起こすことは、めったにない。
お声がかかったら、リアクションする。
(そういえば、声や拍手に反応して踊る、サンタさん人形があるなあ・・・)
気が付くと、友達が100人いるAさんと、友達が0人のわたし。
これを自業自得と言わずして、なんと言う?
付き合うのが、めんどくさい。
時間を合わせて、いっしょに食事して、おしゃべりして、・・・ホンネも言えないような仮初めの会話は、つまらない。
ホンネは言わないほうが、いいと思っている部分もある。
当たりさしさわりのない会話は、わたしには、聞いても聞かなくても、しゃべっても、しゃべらなくても、
べつにどっちでもいい。
べつにイヤではないけれど、あっても、なくてもいい。
そういう付き合いも含めて、「トモダチ」と言うのか?
おしゃべりするぐらいの人なら、何人もいる。でも、べつにトモダチではない。
趣味でよく顔を合わせる人たちがいる。でも、べつにトモダチではない。
「知人」だ。
仲のいい「知人」のことを「トモダチ」と言う人もいる。
ま、べつに、どっちでもいい。
口に泡を飛ばして、議論するようなことではない。
わたしのニュアンス的感覚でいうと、
わたしには、「トモダチ」と「知人」の間を行ったりきたりする人が、100%。(100人ではありません。念のため)
つまり、知人はいても、「トモダチ」という位置で、ぴたっとフィックスする人はいない。
自分が、未完の人間なので、割れ鍋に合う綴じ蓋、そんな商品価値のないガラクタは、
クリニャンクールの蚤の市(パリ)にでも、足しげく根気強く通っても、なかなかないだろう。
あえて言うと、隅っこで三角座りしているわたしと、それを見ている、もうひとりの自分が、真のトモダチか。
この黒子トモダチは、わたしにとっては、とてもいい人。
わたしのことをよくわかっている。理解してくれる。付き合いも長い。
なぜなら、もうひとりのわたしだから。
いつも、二人で会話し、漫才みたいだったり、一人芝居みたいだったり、
音響や美術舞台装置つきの大舞台のミュージカル仕立てだったり。
ときには、(いや、最近は、毎日)、文字にしたりして、ブログにアップする。
ひとりで、見えない相手としゃべっている、わたしは、かなり怪しい、アブナイ人だろう。
これは、ひょっとして現実の世界と、どこやらの世界を行ったり来たりする、ビョーキ??? (宇宙人なら、まだマシ)
本来は、病院にいなければいけない?
家が病院? 病院が家? いや、元の星に強制送還?
自宅軟禁のアウン・サン・スー・チーさんも、やっと本格的に活動の場を得たようだ。
わたしは、軟禁されているわけではないが、自分で勝手に檻に入っている。
外の世界に出ても、檻のサイズと同じ面積、体積以上には、はみ出せないに違いない。
わたしがボケても、だれひとり、わたしの周囲の人は、気づかないと思う。
いつも、にこにこ、なにを考えてるのかわからない、おばあさん。
そのわたしを見て、ちょっと、かなしくて、もうひとりの自分が、「違う、違う」と首を横に振っている。
やはりわたしは、この星にはなじまない、缶コーヒーばかり飲んでいるヒトか?
ただでさえ、本日の記事、内容がないのに、どんどん無意味な文字の羅列になってきた。
トモダチの話は、いずこへ・・・?
星に帰る時間なので、ここで終了いたします。