わたしは、ある一定の枠から、出ることが出来ない。
少し、はみ出たりすることはあっても、自主的にすぐに元の檻の中に戻ってくる。
まるで、DV被害者のように。
DV被害者は、暴力の恐怖から、相手から逃れることができないわけだが、
わたしは、別に暴力を受けるわけでも、ののしられるわけでも、なんの圧力も受けない。
つまり、自由なのに。
でも、自由は、束縛があってこその自由で、本当の自由のなかで、自分を解放すると
大空の上で、飛べない鳥のようになってしまうだろう。
たぶん、なにかに囚われている。
ほんとうの意味では、自立していない。
こんな年になって、情けないような気もするが、
得るものと失うものを比較し、自然と自分をコントロールしてしまう。
ブレーキをかけ、自分の位置を確かめ、制御する。
自己責任をもって何事も行うべきであり、自己責任の範囲は、広いようで、けっこう狭い。
たとえパリに一人旅しようが、ほんとうの意味での自由ではない。
ひとときの擬似・開放区だ。
だれも、わたしを束縛しているわけではないのに、自分で勝手に束縛されている。
ほんとうに自由になれるのは、死ぬときなのだろうか。
だとすると、死は、そんなに怖いものではなく、
一生に一度ぐらいは味わってみたい、待ち望んでいたことかも知れない。
ただ、一度味わうと、後戻りできない。それがコワイ。
大切なもの、愛するものと永久的に別れることは、わたしにとっては出来ない。
だとすると、自由を束縛しているものは、自分にとって、かけがえのない人々ということだ。
死は、確かに怖いし、避けられない。でも天寿を全うする死は、怖くない。
「死」以外の状況で、自分の大切なものを失うとすると・・・
家族崩壊・破産・病・戦争・諍い・災害・事故・・・・
自宅にポスティングされる、宗教関係のチラシに書いてあるような内容になりそうだ。
いつなんどき、幸せな日常がストップするかも知れない。
欲を張らず、感謝のこころを忘れず、身の丈に応じた生活を送るべき。
これまた、近所のバス停に設置されている、どこかの宗教の、ありがたい教本みたいな内容になりそうだ。
自分のこころを縛るのも、開放するのも、自分次第。
誰の影響も束縛も受けるものではない。
すべて、自分にある。
こころが軽くなり、アタマが軽くなり、そして、カラダも始動し始めた。
お腹が空いてきた。
家族も起き出して来た。
朝ごはんを食べて、さあ、今日も元気に出かけよう。