趣味の社交ダンス。
昨今の流れは、一般男性と踊りたがらない女性が増えてきている。
かつては、踊れる男性が少ないこともあり、男性は引くて数多で、お殿様。
ハーレム状態。
今は、パーティダンス系から競技ダンス系へと好まれるダンステイストが移行している。
すると、昔風のパーティダンスは見向きもされなくなり、女性たちは、競技系、若いプロアテンダントを相手にするようになる。
昔の、鼻息荒い、殿様モテモテオヂサンは、哀れなるかな自然淘汰の対象。
かつての男尊女卑、パワハラ、モラハラ、セクハラ愚行も、時代が去った後、被害者女性たちから明るみにされたりしている。
もう、元殿様たちは、お歳で踊れないけれど。
しかし、まだ(比較的)若い、元殿様も棲息している。
需要(踊って欲しい女性たち)が供給(踊ってくれる男性たち)に追いつかなかったかつてとは違う。
黄金のチヤホヤ期を浮かれて過ごしていた勘違い殿様たちは、レッスンもちゃんと受けず技量は停滞したまま(そこに加えて老化)、今は干されている。
対人関係をちゃんと築いてこなかったツケは大きい。
女性を、若さ、スタイル、女性美で選り好み、仕分けし選んでいた男性に、悔しい思いをして涙を飲んでいた女性は、レッスンを積み、上達していった。
やがて自分の技量に合う男性は少なくなり、上手な優しい若いイケメンプロを相手にするようになる。
横暴な、男尊女卑を絵に描いたような男性を今に見返してやる、、、とレッスンに励んだ女性たち。
今の世の中に、重なる部分がある。
経済力があるだけの男性は結婚相手を探すのに苦労する。
女性は自立してきている。
が、その一方で、昔のままの、お気の毒な状況から抜け出せない女性もまだいる。
経済力と家事(&性)を交換する時代ではない。
男女、子育て、家事も平等に。
ではあるが、理想通りには行かない現実が俄然、横たわる。
レス夫婦も増えているようだ。
が、その実態が表に出ただけで、水面下では昔からあったのかも知れない。
しかしながら、わたしは男女平等を語れない。
なぜか?
自分は克服できていないからだ。
病理を抱えたままである。
解き放たれていない。
人のアタマの中は見れないし、強制も出来ない。
何を思っているのかわからない。
想像するのみ。
それを「思いやり」とも言う。
思いやりがあるかないか、で、全く違う。
高齢の絵本作家さんが、先日、NHK TV「あさイチ」の生放送で、「思いやり」について端的に語っていた。
思いをやる=こころを巡らす。
相手にこころを持っていく。
最近、わたしが人の話を聞いて急に涙もろくなったのは、今まで他人には無関心、無感動だったからだろう。
人並みに、こころが動くようになった。
共感したり、響いたり、その人の気持ちになったり、添わせたり、、、
動物の気持ちになる時もあって、まだ「思いやり」初心者だ。
おちおち動物園にも行けないことになる。
話が前後するが。
わたしは若い頃、若い女性である特権を思い存分、享受した。
若い女性であるというだけで、どれだけ優遇されたか、、、自分以上の待遇。
これは、それと同時に、裏を返せば、若くなくなれば用済みなのではないかと思った。
寿退社が当たり前、クリスマスケーキの身分。
キリギリスのように歌ってばかりではいけない、ちやほやされている間に、力を蓄えなければ、、、。
が、結局は、株を高値で売り抜けるかのように、若さを武器にしたベストの選択をした。
自分をよく知っていた。
自分は若さしかない、ということを。
シンデレラは王子様と結婚してハッピーエンドではない。
そこから、本当のドラマが始まる。
現実を突きつけられるわけである。
なんだか、小説が書きたくなってきた。
今、生きている人以外は、生まれてきて死ななかった人はいない。
どんな人も必ず死を迎える。
プリザーブドフラワーになっても、美しさは生きた本物ではない。
大勢の国民が、防腐処理された、英雄の横たわる身体を見に来てくれても、身体は生きてないわけで。
というわけで、皆んな、生まれたら若死に以外は歳を取ってあの世に行く。
例外はない。
そんなわかりきったことに歯向かって抗っても、無駄。ロス。
では、生きている間、若い間に最大限のことをすれば良いのか。
べつに、最大限でなくてもいい。
ゆっくり幕を閉める。
過去の出来事も、走馬灯のように。(ありゃりゃ、それは死ぬ間際の表現か)
話はころっと変わるが、映画は面白い。
観た瞬間より、時間が経ってから、じわ〜っとジワジワ効いてくる。
その時、感じなかったことが、別の時間に、別の次元で押し寄せて来る。
今までは惰性、付き合いの一環で映画をたくさん観ていたが、これから、主体的に選ぶ趣味は、映画にしよう。
家の外にも出れるし。引きこもり防止。
※写真は、映画館にウォーキングで辿り着く途中にある池。
先週より水鳥が増えていた。