蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

側からうるさい

2023-06-18 | 老い
映画というものは夢があってよい。
一昨日、有料配信で観た映画「椿の庭」もそうだ。
良いところが濃縮還元ジュースのように詰まっている。
美しいところだけを100万本のバラからエッセンスを絞り取って作ったPerfume香水のように、見えない面はあえて見ないで、目の前の事実に、うっとり没頭するのが良い。
見えているものが頂点、氷山の一角であるとしても、一角は偽ものではない。
経験が浅いと、下に隠れている部分は想像できず、全て見えない部分も見える部分と同じなのかと勘違いするだろう。
一時だけ、夢の部分だけを味わうのも良い。

映画を見ながら、じつは、突っ込みどころ満載で、地に足が着いた現実派のもう1人のわたしがウルサイ、ウルサイ。
例えば、庭掃除する時は、美しいハイクオリティ月刊誌の表紙を飾るようなお着物ではなく、モンペが便利、だとか、色々。
監督もさすがに気を使って、リアリティも加えておかねば、と思ってか、植木屋さんが入って作業するシーンを入れていたが。

そして、ネタバレを恐れながら書くが、、、
あんな100000%理想的なこの世の去り方は映画でしか見られない。
(とは言え、遠縁の奥さんのお母さんは、超理想的な終わり方だった。
あ、それから、伯母も。さらにご近所さんのお姉さんも。
少ないなりに、映画の世界以外にも結構いるなあと)

ハッピーエンドを観ながら、わたしのアタマの中では映画のヒロインのエンドと同時に別ストーリーがスタートした。
死んだ瞬間に幽体離脱して、そのまま元の身体に戻り、ストーリーが繰り広げられていた。
こちらは現実味溢れるストーリー。
75歳はお肌の曲がり角は、とっくに過ぎて、アタマの曲がり角。
認知症は結構な割合で発症している。
さらに、病気も。
一旦入院して治癒したものの、そこからがまた新たな闘いが始まる。
わたしは、身内の高齢者(祖母、実父、舅、姑)が命を全うする様子を間近で見て、つくづく「生と死」について思う。
自分が思うような、理想的な終わり方はなかなか出来ない。
が、それぞれ。
周りが判断したり、評価するものではない。
病院、施設、自宅、場所、経緯も色々。
簡単には終わらないことだけは確かだ。
ではあるが、本人にとっては自分の経験は初めてだから、余裕も能力も精神力もないだろう。
わたしがざっと身内を見てきての感想は、体力と気力が、両方ゼロになった時点が合致すれば良いが、微妙にズレると苦しい。
体力があっても気力がない、気力があっても体力がない、、、どっちも苦しい。

1番美しい理想的な時点で、この世を去るのは、本当に映画の中の世界だと実感した。
だが、目の前の美しい四季折々の自然には癒される。
思い出さえも美化される。

あるがままに生きたい。
というか、それしか出来ない。

そう書くだけで涙が出る。
無料の天然目薬。
わたしはお得に出来ている。


【蛇足、追加】
余韻に浸りながらこのブログ記事をアップした。
で、まだ配信時間が残っているので、最後にもう一度観ようと、トド夫にTVの前から退去していただき、パソコンから再キャストしようとした、、、のだが、、、
あらま、視聴時間は72時間ではなく48時間でもう切れていた。
一昨日観ていて、本当に良かった。たまたまスレスレセーフ。
これからは注意しなければ。
72時間を勝手に脳内で自動変換され48時間だと思い込んでいるところが、全くをもって信用できない、わたしの脳。





椿の庭

2023-06-17 | 映画
さあ娘婿が設定してくれた配信映画、作動して観れるかどうか、ちょっとチェックしよう、、、
と、パソコンを立ち上げ、テレビも電源を入れた。
途中までは教えられた通りに行ったのだが、最後、キャストする(パソコンからテレビに飛ばす)ところが、なんどやっても上手くいかない。
受け手側のテレビも、教えられたボタンを押して待っているが、うんともすんとも、パソコンと繋がらない。
どこに移動しても、関係ない画面、画像や映像ばかり。
自分のGoogle IDでテレビからログインしたりしてみたが、、、ダメ。
何度やってもダメ。
仕方なく、優しい娘婿にLINEで尋ねてみようと文字入力したら途中で固まってしまった。
益々仕方なく、もう一度パソコンに移動して、映画サイトやら、なんやらかんやらして、またまたGoogleにログインして、さらに映画サイトにログインして、、、無駄な動きをいっぱいしたら、何やら別画面が現れて、動き出した。
やれやれ、、、娘婿にLINEしなくて良かった。
優しい娘婿を、いくら金曜日の夜だといっても、絶対にうんざりさせるところをギリギリ阻止できた。
どうにか動き、ついでにその勢いで視聴を一日繰り上げた。

翌日(今日)は土曜日ということもあり、配信映画を一気に観た。 
午前3時まで。
これを深夜というのか明け方というのか。 
映画を観終わった後、目が冴えて眠くならない。
とりあえず直近ブログをアップした。
それから。
あらま朝まで眠れなかったらどうしよう、、、と、心配したが、横になって3秒も数えないうちに眠りに着いた。 
眠り人形のようだ。
(「眠り姫」とはさすがに言えない)

で、その映画は、「椿の庭」。(2020年)
富士純子主演。
日本家屋の美しい佇まい、四季の庭、移ろいゆく季節、時代が描かれている。
写真家の初メガホン作。
写真家らしく、写真を見ているよう。
自然の光でフィルムカメラで撮られたそうだ。
ちょっと暗く、ざらついた映像。
機器??配信のせい???
インターネットで検索ヒットした人の日記によると、映画館で観るのが絶対オススメだそうだ。
その人は、公民館らしい割と小さなスペースで、時期遅れで観たらしい。
もう映画館で観れるところはない、と書いておられた。

フランス映画「夏時間の庭」(2008年)を映画館で観た後と同じような感覚だった。
テーマが同じだから。
国が違っても流れるものは共通だ。
静かな、セリフがほとんどない映画は、まさに映像美。
自分の心情とぴったり重なる。



自宅で映画

2023-06-17 | 日々のこと
梅雨の合間の晴れ。
洗濯、いっぱい無理やり追加。
洗濯物を干していると、爽やかな風。
これ、わたしの好きな瞬間。 
単純だけど、一生続くといいなあと思う。
爽やかな風に幸福を感じるのは、意外に簡単なようで、簡単でもないかも知れない。
この幸福、何の意味も価値も感じず見過ごしていたら一生出会えない幸福だ。
我ながらお手軽お得な感性に、ちょっと嬉しくなる。
どこが良いのか、さっぱりわからん、という人もいる。人それぞれ。
人工的に作り出すわけではない、自然の風、妙味が好きなのだ。
肌に心地良い。

さて。
昨夜は、優しい娘婿に、さっそく映画、作品都度、有料配信出来るようにパソコンを操作して頑張ってもらった。
「キャストする」という指示がイマイチよく意味がわからないのだが、「電波?を飛ばす」のようなニュアンスらしい。
設定御礼は、焼肉弁当(頂きもの)と、福さ屋の辛子明太子(頂きもの)と、トレトレ釜揚げシラス(頂きもの)と、カレーライス(作りました)。
といっても、昨夜のメニューなんだけど。

子供はカレーだけ。
3番目孫(6歳なったばかり)に、「カレーだけじゃ面白くない」と不満を漏らされた。
1番目孫(小5)は3杯〜4杯おかわりしていた。
(最後は鍋から自分で直接、入れていた)
育ち盛り。
でも2番目孫(小3)は、「あんまりお腹空かない」と、おかわりなし。
1番下(もうすぐ3歳)はモリモリ2杯おかわり。
色々だ。

と、相変わらず、話は逸れている。
今日は、昨夜、購入した映画が見られると思うと、楽しみだ。
一度視聴し始めると72時間以内に見終わらないといけない。
昨夜は試しに最初の出だしのところをチェックしたので、あれも視聴開始と見なされたとすると、日曜日夜までが〆切。
大丈夫だと思う。
ちゃんと繋がっているかどうか、夜に見てみよう。
もし、良い感触ならまた配信購入してもいいなあと、まだ観ていないうちから期待。
単純なわたし。
幸せが、まあなんと手近にあること。
ケーブルTV経由?で、外からわざわざ買わなくても映画は観ることはできるのだが、とりあえず、インターネットの有料映画サイトから拾ってみた。
いや、ぴかりと光るものをすくいあげた。
自宅のケーブルTV経由で観れる映画と似たような値段だった。
値段は同じようでも、作品が肝心。
あくまでも、観たい映画に出逢った時のためにスタンバイ。
わたしはこだわり派なので、何でもかんでも時間を持て余して退屈しのぎに観るパターンではない。

とかなんとか、実は全ては天国までの待ち時間、暇つぶし。







わたしにとっての「怪物」

2023-06-15 | 映画
映画「怪物」を先週、6月5日に観た。
観た直後は、よくわからなかったこともあり、帰りの電車内で、誰か知らない人のブログで解説を読んだ。
明確な説明がされていて、なるほど、と腑に落ちた。
一緒に観た人は、「子供の頃を思い出した」と子供時代プレイバック、キラキラ目だった。
わたしはその個人的感想には、全く共鳴できなかった。
映画は観る人それぞれの解釈、感性で観るものであり、価値観を押しつけてはいけないので、わたしは人の感想には口を挟まない主義。
監督の狙いだの意図だの、知ったかぶりをしたところで始まらない。

ではあるものの、わたしは、あれは「三部作」という解説を読み、脳の血流が滞っていたようなところに補助サポートを得た気分。

一つ、見落としてしまいがちな、聞き漏らしてしまいそうなセリフで、印象に残る、隠されたキーポイントがあるのだが、ネタばれに繋がってはいけないので、書かない。

後からじわじわと効いてくるボディブローのよう。
「怪物」というタイトルには、それぞれの意味があるようだ。
田中裕子、渋い演技。
永山瑛太、こういう役どころ、多い。なかなかのもの。
そして、ご存知、安藤サクラは、是枝監督作品にはなくてはならない女優さんなのか。
彼女の普段着を兼ねたような仕事着が、ファッション的に参考になった。
動きやすそう。
て、観る視点がズレている?

わたしの映画感想は、わざわざ独立させて書くような(立派な)ものではない。
映画鑑賞を幸福度を得るには消極的アクションだと決めつける、幸福論研究の方がおられるが、諸説あるので、決めつけに対してわたしは異議を唱える。
人それぞれ。
違う、と感じたら、それはそれで、自分の感情や考えが浮き彫りになり、自覚できる。

映画は面白いものも、面白くないものも、感銘するものも、全く理解できないものも、色々ある。
海の中で、落とした靴を探すようなもの。
落としたコンタクトレンズを探すほど、確率が低いものではない。
プールの中なら靴はすぐ見つかる。
でもコンタクトレンズは、体はじっと動かず瞬きしただけでどこかに飛んで行ってしまって紛失することがある。
(何度も経験済み、泣きをみた)
映画は、比較的、楽に、苦労せず楽しみを得ることが出来る。
が、見過ぎて、別の映画と話がこんがらがったり、良さや感動をちゃんと掴めないまま溢れ落ちたりすることがある。
新作なら、一度観ると、近い将来に何回も観ることはないだろう。
話題作を次々追い続けるのも、刺激の受け取り方としてインプットばかりでは、もったいない。
ちゃんと受け止め、感じ、考える時間があると、またストーリーの息を吹き返す。
発酵させたりする(寝かせる)時間も欲しい。

何もしない楽しさ

2023-06-14 | 人生
映画をサイトから有料配信して自宅で観ようと思った。
が、出来ない。
想定内。
がっつり※(がっかり※の入力ミスではありません)、わたし、最新通信機器が使えない世代。
気に入った映画を選ぶ手前までID登録、ログインして準備したが、肝心の、TVで観るところまで行かない。
このTVは夫や孫たちも録画したものやケーブルTVを観るから、変なことになっては皆んなが困る。
なので、自分しか使わないモノなら構わないが、他のひとたちも利用するため、自信ないことは失敗を恐れず無理やりやって迷惑かけたくない。
優しい娘婿にお願いしてみよう。
頑張らずに丸投げ。
そうやって、どんどん新しいことに挑戦しなくなる。
益々、脳が萎縮していく。

昔からの仕事仲間で、全く通信オンチがいる。
ほぼ、何も出来ない。
娘さんに全て設定してもらって、自分は、最後の「go」のタップするだけ。
でも、自分でやっていると自慢している。
こういう性格の人は強い。
良い人生が送れる。

と、イヤミのひとつも言いたくなる。
わたしが、やりたいが出来ないことの一つに、最新通信便利ツールがあり、使いこなせない。

あんなに昔に画期的発明をしたエジソンはスゴイ。
通信ではないけれど。
だが、通信は、絶大な革新が起きる反面、その一方で情報操作など弊害も生み出す。


さて。
話は変わる。
今までやってきて、楽しかったことと、楽しくなかったこと。
それを振り返り、楽しかったことを思い出して、その方向に沿って進みたい。

かつて、ジムに7年通った。
スイミングやマシーントレーニング、エキソサイズ プログラムに参加した。
これは、今の身体を作るのにほんの少しは役立ったかも知れないが、楽しくなかった。
7年やって、ご苦労様と、自主設定タスクから自分を解放した。
憂鬱な気分が、ぱ〜っと晴れた。
良かれと思って自分に鞭打ってやることは、やがて重荷になり苦しくなってくる。
そもそも、体育系は苦手で運動は嫌い。
でもそれでは身体に良くないだろうと、頑張ったが、やはり嫌いなものは嫌い。
嫌いなのに7年やったのだから、まあ良しとしよう。

学生時代は勉強は大の苦手で大嫌いだったが、絶対に避けて通れなかったので、無理やり歯を食い縛って?(へんな表現)頑張った。
その時に頭に入れたことは、今でも覚えているから、まあ、苦労は報われたというほどではないとしても、マイナスではなかったのだろう。
が、精神的にはマイナス。こころに傷を負った。
頭が悪いのだから仕方ない。
悪いなりに頑張った、と自分の傷を舐める。

楽しいと感じる好きなことは何だったのだろう?
書くと恥ずかしい。
若気の至りっぽいことが多い。
アタマが弱い若い女の子にありがちな、そういう女子だった。
若いのだから仕方ない。
どんなことが楽しかったか、一つ一つ列挙しようと思ったが、恥ずかし過ぎて出来ない。
その頃と同じことを今、しても楽しいかといえば、そうでもない。
若さを楽しむ年齢が過ぎた。

仕事は楽しかったか?
否。
辛かった。が、わりと平気だった。
ではあるが、社会を知り、表面的な浅いところから少し奥深くに行ったかも。
貴重な経験をした。
キンキラした、ゴージャスな遊びの世界にも行こうと思えば行けたのに、行かなかった。
わたしの母も、交友関係は、派手な華やかさとは真逆の、とても地味な真面目な人と親しくしていた。
ド派手ケバケバは嫌いなんだろう。
自然ネイチャー素朴派。

わたしは、中途半端だ。
読書したり、何かに夢中になって研究したり、のめり込んだりもせず、何もせずに今日に至る。
これからもその延長上にあるだろう。

幸福な結婚をして(これだけブログで愚痴ってはいるものの、不満は幹ではなく枝部分)子供に恵まれ、そして無事、巣立ってくれたのは何よりだ。
今は趣味も見つかり、楽しんでいる。
あとは、静かに老いていくだけ。

そう書くとミもフタもないが、よくよく考えてみると、充実した幸せな時間だった。
十分楽しませてもらった。
今となれば、これ以上望むものはない。
なんて、もうすぐ死ぬ人みたいなことを言っている。
でも楽しい毎日だ。

「楽しい」にも温度が人よりも低いかも知れない。
出る杭は打たれる。だから、出ないで土の下。
地下から世の中を見る。

それにしても、、、
映画に話をもどす。
認知症をテーマにした映画は観たくない。
老いと対峙するものも重い。
役所広司が先日、カンヌ映画祭で最優秀男優賞を取った作品が観たい。
彼が、「どんな時が一番楽しいですか?」とインタビューを受け、答えていた。

「何も予定のないお休みの日に、今日は何をしようと、考えて、1日が終わる、というのがとても楽しいと思います」

この答え、頷いた。
わたしと全く同じだ。
違いは、偉業を成したか、全然何もしてないか、そこだ。
そして、忙しい真っ最中の役所広司が、スケジュールが空いた日が無さそうなこと。
まるっきりわたしとは真逆だが、得られた幸福感が同じなら、結果良ければ全て良し。
わたしは、一市民なので褒められることもないが咎められることもない。
わたしが楽しく、周りにも影響も与えてないが、迷惑もかけていないから良い。
普通の凡人が得られる最大の喜びかなと、一人でニヤニヤ、ニコニコしている。

※写真は昨日のお出かけ先。



イラつく

2023-06-13 | 暮らし
いろいろ、こころに傷を持ったまま、溜め込むことはある。
過去完了形なら良いが、まだこれからも続くとなると、傷が癒えることがない。
未来に続くと考えるだけで、絶望的な気になる。
そういう時は、わたしは解決出来ないまま、細切れに休憩する。
休憩しないと身が持たない。
対峙しない。
一旦、ほっとく。


話はころっと変わる。
政治家で、実は女優。
教師で、実は登山家。
美容師で、実はアスリート。
医師で、実は陶芸家。
お風呂屋で、実は絵本作家。

そういう、もう一つの意外な顔があると相乗効果があって楽しい。
主婦で実は○○、というのはよくある。
片方(主婦業)はわりと自由度が高い、個人の価値観がそれぞれで、評価基準があいまい。
両方ともが、ガチガチハードなものだと、両立は難しい。
引退してから、もう一方の趣味に本腰を入れることが多い。
が、不自由な環境の中で頑張って時間を作るからこそ、絞り出せるものがある。
人間って不思議だ。

わたしは、今は主婦もしていない、妻もしていない。
時々、主婦と妻をして、首の皮一枚でポジションに繋がっている。
なので、夫に「おかあさん」と呼ばれると、わたしはアンタの母親じゃない!と、なぜかムカついてしまう。
娘に「おかあさん」と呼ばれると、死ぬまでわたしは娘にとっては、「おかあさん」なので、べつに問題ない。
が、夫に、「おかあさん」と呼ばれる筋合いはない。
「おばあさん」とでも呼ぼうものなら、顔は鬼と化している。
なにぃ?だれが「おばあさん」なん?!
実際は、おばあさんなんだけど。
おばあさん以外の何ものでもないのだけれど。
言われる相手によって、こうも気分が変わるなんて、勝手きままなのだろう。
が、何かわからない黒いものが気分を悪くさせる。
言いがかりと、取られるだろうけれど、そういう気になるものは、抑えようがない。

孫までいるのに、なぜいつまでも、おかあさんなのか。
ムカついてムカついてしかたない。
娘たちは別のところに住んでいるのに、いったい誰のおかあさんなのか。
呼び名ひとつで、わたしはものすごく不機嫌のどん底に陥る。
この意識の違いは何なのか。
わたしが吐き気を催すほど不快になっているのに、夫はその状況を全く気づかず、気にも留めない。
さすがに、「おかあさん」て、何?それ?と、わたしは夫に言う時もあるが、いまだに「おかあさん」と夫は言う。
神経と感情の線をブチっと自分で断ち切って、もうどうでもよくなる。

ついでに、疑問に思うことがある。 
せっかく、娘一家、孫たちが来てくれているのに、夫は隣の部屋でTVを観る。
放送中のものならわからないでもないが、何十年も前から延々とやっているワンパターン時代劇の録画。
なにもわざわざ今、観なくても良いものを。
全く理解できない。
新婚当初から理解できないまま。
人の嗜好は、それぞれ。
押し付けたり、強制したりしなければ、それでよい。
期待しない。諦めている。

子育てが終わり、親を見送った後は、もう何もない。 
だが、そう言ってしまえばそれまでで、終わってしまう。
別に夫婦を終わらせたいわけではないので、積極的に喧嘩をしない。
日本人にはとても多いと思われる日本的夫婦である。
仲良くしようと努力も一応している。
今更、波風を立てても誰も幸せになれない。
個人と、個人が、同一空間にいる。
ただし、2人の過去は重なる。

どちらかが病気になったりして、助け合う事態が来ることもあり得る。
今は今。
そぉっと、毎日、つつがなく、いきたい。





こころの病

2023-06-11 | 子育て
自分ではどうすることも出来ない、自分の気力について、ある方(裕さん)のブログを読んで、あ、これだ!!と腑に落ちた。
双極Ⅱ型障害!

こころの病気なのだ!!
なんだかとても気持ちが落ち着いた。スッキリした。

幼い頃から、悩まされていた。
やる気が出ない。
やる気を出したわけでもないのに、ある時、いきなり(良い)結果が出る。
逆もある。
MAX火を噴いて頑張り続けているのに、「やる気がない、さぼっている」と見なされ、ますます、ハッパをかけられる。
自分の熱量や努力と、評価される時期や内容のギャップが激しく、評価そのものに対して疑心暗鬼に陥っている。
気持ちとズレが生じている。

躁鬱症なんだわ、これ。
静かな、他人を巻き込まない躁鬱症。
自分ではコントロール出来ない自分の何かに操られる。


子供の頃から、母のヒステリー症状にはかなり悩まされた。
1日も早く家を出たい、そう思っていたのは、このヒステリーのせいだったのではないかと推測する。
母のヒステリーは、わたしの神経が蝕まれるほどだと感じた。
小学校では成績がパッとしないこともあり、担任の先生が成績優秀生徒を可愛がっているような気がして被害者意識が芽生えた。
わたしのやる気のなさと、結果について、強烈に圧力をかけてきた。
その後、成績は上がったが、頑張りと成績には合点がいかず、大人は信用出来ない、と大人を避ける子供だった。
わたしは、無表情で、自分の感情や意思を外に表さない子供になり、そのまま大人になった。

わたしの子供達にも無意識でこころを傷つける態度で接していたら、後悔してもしきれない。
済んでしまったこと、もうやり直せないので、子供達は自力で経験を通して治癒し「欠け」を治して欲しい。
わたしがそうしてきたように。(まだ完結していない、未熟なままだけど)


ちなみに、セルフ カウンセリングは効果的だと感じる。
昔の母から受けたこころの傷を文章にして書いていたら、自然に涙がこぼれた。
自浄作用?
自分の傷を自分で治す、一種の癒し。
自分で自分の傷を舐める。

他者が精神がおかしくなっている間は、まともに寄り添わないのが良い。
寄り添うと巻き込まれる。
じっと(他の関係ないことでも考えて)狂気の嵐が去るのを待つのが良い。
と、強くそう思う。
これは、わたしの経験から私流対処法。


昨夜、長女一家が夕食にやってきた。
一番下孫が眠くなり寝かしたのだが、1〜2時間ぐらい寝て、起きてからがグズリまくりで、強烈にわたしの神経に障った。
ずーっとずーっと長い間、泣き続け、パパ、ママが交替であやしたり宥(なだ)めたり、よしよし、泣かないで、いい子いい子、と、抱っこしたり、抱っこしたまま歩き回ったり、何かを食べさせようとしたり、、、ご機嫌を取っていた。
3歳って、こんなかんじだった?
わたしは、アタマに釘をガンガン何本も打ちつけられるかのごとく、ギャンギャン泣く孫がうるさくて、むかついて、どうしようもなかった。
口では「親って、偉いねえ、こんなに泣かれて大変やね」と労いつつ、
こころの中では精神のブレはMAXに達し「はやく、家に帰れ!!!」と思った。
娘婿に「もし、この子が7人きょうだいの4番目だったら、どうしてるでしょうね?
誰が機嫌を取って宥めてくれるんでしょう?」と言った。
娘婿は無言で、あやしていた。

わたしは、3人の子供を育てた経験がありながら、毎度、あの、子供の狂気に触れると、こちらの狂気スイッチがオンになる。
だが、幼児相手にまともにキレて怒ったりしているところを知られたくない。
大人気ないから。
祖母が孫にキレていては、話にならない。
自分の未熟な部分、欠陥をさらしているようなものだ。
本当に自分では抑えられないぐらいマイナス神経が暴走する。
老化で益々凶暴になり暴走しているのか?
頭を掻きむしるぐらい、イライラ苦痛。
泣き声は、こちらの理性を吹き飛ばす。が、必死で耐える。
爆発させたら、自分の評価を下げる。
忍耐と理性でギリギリまで耐える。
子供虐待は、この線を越えるのだろう。
すっと越えられる、境界がほぼない、すぐ目の前の線。

後から聞いたら、眠かったらしい。
わたしが子育て中に得た答えと同じ。
子供がわけがわからないほど、手に余る、始末に困る、どうしようもない時は、眠い時。
何度も何度もそれを経験する度に、初めて接したように悩み、狂い、神経が乱されるのだが、眠かったようだという原因を知り、度々の前例で嫌というほどわかっているのに、同じことを繰り返し、学習能力がない。
子供が制御不能になる、その度にわたしも狂っていた。
子育てはそれの繰り返しだ。
そんな経験を積んでいるにも関わらず、またまた孫と同時に狂う。
痛いことに慣れることは決してなく、痛いと感じる痛みは、いつ痛い目に遭っても痛い。
それとも、いまだにキンキン乱されるのは、わたしだけだろうか。

ご機嫌が治って、まるで何ごともなかったように別人になって、ニコニコしている孫を見て、ああ良かった、というよりは、ため息が出る。
陣痛と同じ。
耐えていれば、やがて止む。
世の中の親は皆んな経験していることだが、時間が経つと忘れるようだ。





時を楽しむ

2023-06-10 | 暮らし
最近、ご近所さんたちの高齢化が進んでいる。
先一昨日の夫スイス行方不明事件の方は90歳。 
個人情報漏れ漏れ苦手女性も90歳。
そして、他にもたくさんいる。

今日、バス停に向かって歩いていると、町内女性たちの井戸端会議。
一応、大きく会釈して通り過ぎようとすると、その中の最年長女性が言った。

「おばあさんの会議です」

なるほど、その通り。
わたしは、自分は若手だと実感した。
しかし、若手はまだわたしの子供世代や孫世代も控えている。
上から2番目、下から3番目。
これ、つい最近までのうちの家族構成図。
姑、我々、子供たち夫婦、孫たち。
4世代が同時進行している。
まさに社会の縮図。
税金の使い道、分配もそりゃあ難しいことだろう。

おばあさんたち、お元気だ。
つい最近まで(そんな気がするだけで、もっと前)、自治会で彼女たちは後方支援ながらも縁の下の力持ち的に仕事、役割をこなしていた。
当時はわたしは、現在の長女、次女世代、働き盛り。
自治会会議に子連れで参加していた若いお母さんも、あのベビーちゃんたちは大きくなって立派な大人になっている。
一世代一世代ずつ、順番に歳を取っている。

自治会掃除の日、バリバリ陣頭指揮を取っていた男性がいた。
長身。足りない用具を調達係にテキパキ指示していた、、、カッコイイなあ、、、
この方、じつは、わたしの長女が通っていた地元小学校の同級生のお父さん。
もちろん、お母さんも知っている。柔和な方。
カッコイイ人は、いつまでもカッコイイんだ、、、と、ほれぼれ。
わたしと同世代であることは間違いない。
まだまだイケているではないか、見捨てたものではない、と、へんに嬉しくなった。
まだ働ける年代。役に立つお年頃。
その上の、我々の親世代だって、まだまだ元気で、道で長々と立ち話しているんだし、、、。

今、わたしが住んでいる地域は、ほんの腰掛けのつもりだった。
本拠地は、嫁ぎ先の、県をまたいだ東隣の地。
わたしが生まれ育った地は現在の住所と西に隣接する県。
3つの地域を少しずつ西から東に移動したことになる。
今いる場所は、子供の教育と仕事のため、便宜上、家を設けた。
仮の住まいだという認識だった。
が、35年以上も経つと、住民の皆さんと同じ時間を過ごし、同じ時間分量、歳を重ね、感慨深いものがある。
そう言いつつ、隣の家には、メインのご夫婦以外に誰が住んでいるのか、家族の移り変わりを知らない。
お隣さんを初めて見た時は一番下の子供さんは小学生だったが、その後、3人のお子さんたちはどこの学校へ行き、どこに就職し、家族でどこで住んでいるのか知らない。
(下の娘さんが高校入学時に仕立てた学校の制服を、お隣さんが留守で預かったことがある。
どこの高校かそれでバレバレだったようで、奥さんが気にしてか、制服を渡した時、一言コメントされていた。
が、わたしは全く興味がなかったので、どこの高校か知らない。いまだに。)
が、車は常に数台停めてあるので、ご近所に住んでおられるのだろう。
情報通の町内の知人から、お隣さんの情報を得る。情報の逆輸入。
わたしは、あまり人の生活には首を突っ込まない主義。
うちの、やたら大きく伸び放題の木にも35年以上、お隣さんから一言の文句も言われないことには胸を撫で下ろしている。
いつ苦情を言われるかとヒヤヒヤしているが、もう限界!という頃には、必ず植木屋さんに伐採してもらっている。
どうせ切るなら早々に切って、スッキリさっぱりすれば気持ち良いものを、、、。
ちなみに、木が茂って隣家に迫っていることに関しては、かなり隣家は忍耐強いと思われる。
(もうそろそろ暑くならないうちに今月中には植木屋さんに連絡しなければ、、、)
両隣に関しては、何ごともトラブルなく今日まで来て、ほっとしている。

孫たちの運動会に行くと、孫たちの親たちも同じ小学校だったことを思い出させる学校伝統行事がある。
わたしは、地元出身ではないので何とも感じないが、娘は母校に子供たちを通わせ、運動場も教室も同じなので、ある意味、懐かしいと同時にこころが落ち着くのではないだろうか。
小学校の同級生も同じ町内に家族と住んでいるし、その子供たちも同じ学校に通っている。
なんだか、ほのぼの、ほんわかする。
中学、高校と進むにつれ、道は分かれていくことだろう。
が、また戻って来る場合もある。

そんなこんなで、一通り、やるべきことを終えると、仮の住まいがいつの間にか、本拠地になり、本拠地は別荘になった感がある。
中には、定年後、他の地に移住したりする人もいる。
選択肢は広がる。
出来る範囲なら何をしてもよい。自由。
そういう頃には気力も体力も衰えていることもあるだろう。
気力、体力があるうちに、したいことをする!
したいこと、そのものがない場合は??
そこまで面倒見れません。各人に任せます。
自分に問い、自分と対話していただきたい。
自分と対峙する機会を得ると、またその後の展開や感じ方も変わる。

時間の経過を振り返り、その結果(周りの人々やコト)が目の前に、毎日、同時進行で進んでいることに触れると、深い味わいを感じる。
例えそれが、単にご近所さんのお年寄り達を目にするだけだったとしても、時の移ろいを感じて楽しめる。
楽しい芽は、意外にどこにでもあるんだと、今更ながらの新発見に驚く。

光と影、表と裏

2023-06-09 | ブログ
わたしの知性面の大師匠であり、先生である、とあるFIREブロガーさん。
毎日更新されるブログに啓蒙啓発されているが、前々からなんとなく思っていることがあった。

この方は、ご自分が歩んでこられた道に、何一つ、後悔がない。
というか、年老いて後悔しないよう、悩みや迷いの末に、舵を切り今日に至っている。
曇り一つない。
そして、これまでの歩みは、素晴らしい。
正々堂々、どこに出しても恥ずかしくない立派な輝かしいものだ。
その点には私は脱帽し、尊敬している。

が、おや?と、ふと感じたことがある。
奥さんに関する記述が一行あった時だ。
あれ?
わたしは妻の立場を長年やってきて、夫が思っている妻像、なんだか違う、違和感を覚えた。

このブロガーさんのように努力し、自信を持って人生を邁進する、、、なかなか出来そうで出来ることではない。
なんの異論もない。
全ての事柄に、立証できる文献なり研究なりの証拠を示して力説される。
納得できる。
この「全ての事柄」というところに疑問を感じた。
学問、科学や政治、経済は研究すればするほど幅や奥を知る。
そして、研究の結果、自分の信念を持ち確立する。
まるで意義なし。

人間のこころについては、幸福論を追求するのがこの方の生涯のテーマなので、これで全てが網羅されている。
が、、、わたしの疑問はそこにある。
文献や研究、データに基づく分析、理解。
これは大事。
単なる勘や思い込みがもしあったとしても、それを仮定として、立証できれば良い。
立証プロセスこそが重要である。

それはその通り。
で、疑問はほとんど解決され、さらに幸福を深め邁進するために、日々、充実した時間を能動的に過ごされている。

が、しかし、、、
そのブロガーさんの奥さんのことは、全て自分が思っている通りだと、信じておられるようにお見受けする。
客観的学問的探求と、実際の「灯台下暗し」的な感覚。
現状において幸せな人に、不安を煽って新興宗教に誘う手口に、こういう切り口がある、、、が、わたしは新興宗教の手先でも幹部でも教祖でもない。
わたしと、ブロガーさんの奥さんは、全くの別人、別人格なので、同じではない。
何の利害関係もない。
一緒くたにしてしまい、自分の考えを押し付けるのは、筋違いで間違っている。
なので、ここからは話を一旦離脱させる。

何の疑いも持たない自分の信念を持っている人は、オメデタイ場合がある。
厄介である場合がある。
何も知らない。
自分が正しいと思い込んでいる。
むしろ、他人の意向や意見に振り回されるのは、幸福になる障害である、と説く。
自分軸を持つ。
つまり他者の言うことを聞かない、耳を貸さない。
一旦聞いてから、言うままにならない、従わないのならまだしも、最初から耳自体を持たない。
自分の考えに疑う余地もないと思っている。

それは、違う。答えは一つではない。
人間や物事の一面はそうでも、多面的側面がある。
その多面的側面があることを知りながら、あえて言及しないのは納得できる。
が、多面的側面を一刀両断している。
ある意味、潔い、、、のではあるが、
自分のこころの衛生上、幸福度を上げるためにも正解ではあるが、、、
少しでもこころの隅っこに、自分は正しくない面があるということを認識してほしい。
ちなみに、幸福論では、「正しい」「正しくない」には判断できる根拠や基準がなく「好き」か「嫌い」か、らしい。
そうやって、自分をどんどん幸福に導いていくのは、浄化され天国に近づいて行くかの如く、素晴らしいことだと思う、、、ものの、、、

わたしはやはり、人間には欠点があるし、間違いや失敗も起こす、そのマイナス、影の部分も受け止めなければいけないと思う。
ではあるが、なかったことにするほうが、幸福になれる場合による。
大事故や災害、病などには、原因を客観的に追求はしても、受けたこころの傷、マイナスには触れないようにすべきだとは思うが、
普通の日常、ノーマルに戻ったら、人としての陰と陽があることは陰を否定するのではなく認めてほしい。

それと幸せな家庭とどう関係があるのかと思われそうだ。
自己肯定は自分を幸せに導き、幸福度を上げるのはよく理解できるのだが、
自戒や自省を含めて、なんだか片手落ち感を感じずにはいられない。
自分が幸せになるためには、他者の不幸に目を瞑らなければならない?
自分も家族も幸せをシェアすると良い。
よく言われる言葉がある。
喜びを2倍に、悲しみを半分に。

その、喜び分野はよくわかるのだが、夫婦間でエゴ等のぶつかり合いはどうしているのかと。
取るに足らぬ普通の当たり前のことなので、わざわざブログには書いていないのだろう。
それにしても、、、なんか、プラスばかりでは、わたしは落ち着かない。
あのFIREブログ主は、夫婦でお互い見て見ぬふりをして、幸せ度をアップしているのだろうか。

人が幸せになろうと努力しているのに、あれこれ思うのは、土に穴を掘って吠えて埋めるならいざ知らず、しかも自分のブログに書いて公開するなど、ほんと、余計なお世話である。
ブロガーさんが自分のブログに良いことだけ書いて、言いたいことだけ書いて、何が悪い?
嫌ならそのブログを読みに行くな、来るな、である。
こんな言いがかり的なことを本人には直接言ってないし、言う必要もないし、影響力のない自分の蝶ブログに、ボソボソ呟いている。

しかしまあ想いを吐き出すのに、こんなに文字数を使い、気分が悪くなるほど長文になってしまった。
本当は、ズバリ、ズバっと書きたいのだが(文字数もほんの少しで収まる)、人を斬ると自分も不快になる厄介な性分なので、いつもオブラートに包み過ぎて、なんのことやらわかりにくい。
言いたいことが吐けて気分スッキリかというと、そんなこともなく、長すぎて、船酔いした気分。
誰をも幸せにしていない。

まあ、そういう日もある。



同床異夢?同床同夢?

2023-06-08 | ブログ
作家の著書や文献紹介しながら幸福論を唱える人気FIREブログがある。
私はそのブログの大ファンで教示される記事を参考にしている。

ただ、全てを丸々頭から受け入れるかというと、御多分に洩れず、そんなことはない。
もしそんな全てを受け入れていたら、洗脳されていることになる。
この箇所、少し違うな、と疑問を持ったり違和感を覚えるほうが健全、正常だと思う。
丸呑みは、自分で考える力、思考力を停止させる。

とは言え、頑固一徹過ぎるのは良くない。
人の意見は全く耳に入れずシャットアウトすると、融通性ゼロとなり、周りと摩擦、軋(きし)みを生み、孤立する可能性がある。
進歩する機会を自分自ら閉ざすことにもなる。


ブログでは、ブロガーさんが薦める著名作家などの言葉が、何度か、手を変え品を変え、抜粋され紹介される。
で、その中で、わたしが、異論反論を持つことは次のようなものだ。

幸福を得るための自由時間を過ごすのには、能動的な時間と、そうでない時間に、分かれる。
趣味を持ち、楽しむのは能動的な時間の過ごし方らしい。
逆に、TVや音楽、映画は、受け身なので幸福感を高く感じるには至らないそうだ。
疲れを取る、リラックスする、癒される、というのは積極的幸福論から弾きとばされる。
ガッツリ頑張らなければ、高い幸福感は得られないということ。
ちなみに、読書は幸福度を上げるには積極的時間の使い方らしい。

だとすると、わたしは幸福感をあまり得られていないことになる。
本は読まないし、映画は好きだし、TV(主にNHK)は日課だし、音楽もBGMで流している。
そんな受け身の状態でも、みっちり、たっぷり幸せを感じている。
だらだら薄い幸福の垂れ流しか。
濃い幸福を脳をしっかり使って自分で掴みにいかなければならないらしい。

そうかなあ、、、
そんなダラダラ、薄い時間でも満足だけど。
が、ブログを書くのは、積極的行動らしい。
そして、趣味を持つのは幸福の極め、最高のようだ。
では、「趣味のことをブログに書く。しかも読書で研究して」、とか、「趣味がブログ」だったりすると、ダブルでもトリプルでも幸福感に貢献していることになる。
ではあるが、趣味とブログ以外のその他のことは、消極的で受け身。
わたしはエネルギッシュでスタミナたっぷりではないので、あれもこれもは、疲れる。
半分寝ているぐらいが丁度良い。

あるいは、宗教分野に精神世界を持っていくのも良いかも知れない。
上記のFIRE人気ブロガーさんも、今日から何日か禅寺で禅修行に入るらしい。
幸福の辿り着くところは極楽浄土か、天国か。
しかし、不幸な人に「幸せになれますよ」と釣る、勧誘する、悪徳新興宗教は許せない。
罪だ。
とは言え、出家しなくても、生きたままでも、悟りを開けたら結構なことだ。
だが、生仏は、なんだか、諸説ありそうだ。
(ちなみに、逆説の接続詞ばかり、続く)


ところで。
私がこの人気FIREブロガーさんのことで懸念していることがある。
今はまだお子さんも義務教育中だし、子育ては外せないが、いずれ手を離れた時に、お二人ご夫婦は、夫婦を続けているのだろうかと思う。
家庭生活の基本は、夫婦両輪。
肝心の、片輪である奥さんの話は全く出てこない。
なんだか肩透かし。
まるで、わたしのブログのようだ。

自分の幸福を突き詰めてFIRE生活を送るのは大いに結構だが、夫婦の絆的なものは、全く感じられない。
ひたすら、奥様お手製のグルメで美味そうな綺麗な食事やデザート写真をアップされるだけ。
いかにも写真映えし、いかにも手がかかっていそうな食卓の品々。
その毎日の写真には暖かい日常、幸せが凝縮されているのだろうけれど。
FIRE夫のブログを「幸せな家族」「FIRE成功者」という見られ方、位置付けをするためには、大いに貢献している。
が、奥さんは一体何を考えているのかと、つい深読みしてしまう。
子育て中は、ただただ毎日の生活をフォローしていくことが第一なので、それ以外は(仮に考えていたとしても)行動には移しにくいかも知れない。
この、幸福論を唱え実践しているFIREブロガー夫の奥さんは幸福なのだろうか。
一番身近な存在、素材にはあえて手を触れていない、地雷だったりしたら恐ろしいので、、、
幸福を追求する場合、書物や著名人の名言はもちろん研究には欠かせないが、生活の視点が抜け落ちているような気がする。
ご本人(FIREブロガーさん)も薄々気づいていて、ワザとその視点には触れないのではないかと想像する。
なんでもかんでも、全てを知り尽くしても良いことばかりではない。
知って苦悩が始まるより、知らずに不安がないほうがずっと良い。
曇ったガラスで見ることも大事かと思う。
特に身近な日常は。

子供は巣立つが、さて、幸福を追求し尽くした夫に、子供が巣立った後、妻はどうするか。
同時に妻も巣立っていく可能性はある。
今から探りを入れ、予め手を打つと、幸福度が下がりそうで、故意にやらないのではないだろうか。

こんなことを書くのは、幸福な人を羨み僻む、穿(うが)った見方、意地悪、ひね曲がった性悪か。
余計なお世話以外の何ものでもない。
とは言うものの、FIRE夫の妻の立場で、まだ現役年齢の妻が無職だとしたらどんな意識なのかと、ちょっと思った。
毎日、美しい食事の写真のみに参加するだけで満足なのだろうか、と、(時代遅れ感のあるわたしでさえ)わたしの経験を振り返り、そう感じた。
ブログには書かれていないだけで、奥さんは仕事を持っているのかも知れない。
あるいは、夫婦同じ考え、ライフスタイルで、二人共がFIREなのかも?(奥さんは専業主婦のように思えるが)
または、奥さんは夫がどんな職業でも(FIREでも)、専業主婦なら夫の仕事は関係ない、関与しないのかも?
想像で、ものを言っても何にもならない。
時間の無駄である。

すみません。
わたしの無駄時間に無理やりお付き合いしていただいてしまった方がおられるとしたら、お詫び申し上げます。