一子を喪う ・ 今昔物語 ( 4 - 35 )
今は昔、
天竺に仏(釈迦)の御弟子である一人の比丘(ビク・修業僧。)が道を歩いていた時、荒田(アラタ・放置されて荒れている田。)を掘り返している翁一人と若い男一人の二人がいた。
比丘は「田を耕しているのだ」と思って通り過ぎようとすると、その若い男が突然倒れて死んでしまった。ところが翁は、ちらりと見ただけで、何も言わずになお鍬を振り立てていた。
比丘はその様子を見て、「翁は年老いている。若者が突然死んだのを見ても何も言わずに掘っているのは、なんと嘆かわしい心の持ち主だろう」と思って、翁に訊ねた。「その死んでしまった男を見てみろ。その男は、お前とどういう関係だ」と。
翁は、「これは私の子でございます」と答えた。比丘はいよいよ「奇怪な心の持ち主だ」と思いながら、「太郎か二郎か(長男か次男か)」と訊ねると、翁は、「太郎でも二郎でもございません。ただ、この男一人だけでございます」と言うので、比丘はいよいよ不可解な思いが増して、「母はいないのか、どこにいるのか」と訊ねると、翁は「母はおります。住処はあの煙が立っている山の麓です」と言う。
比丘は、「この翁は、とんでもない悪党らしい。せめて、母親だけにだけでも早く行って知らせてやろう」と思って走って行った。
家に行き着き入ってみると、白髪の嫗(オウナ)が一人、麻糸を紡いでいた。
比丘は媼に、「彼の所に、あなたの子が父親と共に田を耕していましたが、たった今、突然倒れて死んでしまいましたが、父親は何とも思っていないようで、なお田を耕しているのは、どういうことなのでしょうか」と話した。
媼はこれを聞いて泣き悲しむかと思ったが、露ほども驚く様子がなく、「さようでございますか」と言って、何とも思わない様子で、麻糸を紡ぎ続けている。
そのため比丘は、さらに不可解な思いになって、媼に訊ねた。「父親である翁は、目の前でたった一人の子が死ぬのを見ても驚かなかった。極めて不可解と思って母親のもとに急いで知らせに来たが、あなたもまた驚かない。もしかすると何かわけがあるのですか、どうですか。もしわけがあるのであれば、ぜひ聞かせていただきたい」と。
媼は、「これは実に嘆かわしいことでございますが、先年、仏が説法なさいました所に、嫗・翁はそろって詣でてお聴きしましたが、仏は『諸法は空(クウ)也。有(ウ・実在するもの)と思うは僻事(ヒガゴト・間違った事)也。只万(ヨロズ)の事をば空(ムナ)しと思うべき也』とお説きになられるのを承りましてからは、万の事は無きものだと悟り切っておりますので、媼も翁も、たった一人の子が死にましたことを見ましても、何とも思わないのでございます」と言うのを聞いて、比丘はたいそう恥ずかしくなった。
賤しい田夫(デンプ)ですら、仏の御法(ミノリ)を信じて、ただ一人の子の死を悲しまない。自分はこの事を悟ることが出来ていない。邪見(ジャケン・因果の道理を認めない過った見解。)につたないことを恥じて比丘は去っていった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆