智者は智者を知る ・ 今昔物語 ( 4 - 25 )
今は昔、
西天竺に竜樹菩薩と申す聖人がおいでになられた。知恵無量にして慈悲広大なお方であられる。
また、その頃に、中天竺に提婆菩薩と申す聖人がおいでになられた。この人もまた、智(サト)り深くして仏法を広め伝えようと願う心が深かった。
(史実としては、二人とも南天竺の出身らしいが、多くの聖典や文献が本稿のように誤伝されているらしい。)
さて、提婆菩薩は、竜樹菩薩が知恵無量であられるとお聞きになって、その所に参って、仏法を修行しようと思って、遥か西天竺をさして向かわれた。
その道は遥かに遠く、ある時は深い河を渡り、ある時は梯(カケハシ・断崖や谷川などに架け渡した仮橋。)を渡り、ある時は遥かなる巌の山を張り付くようにして登り、ある時は道もない荒磯を渡り、深い山を通り、広い野原を進んだ。
ある時は、飲み水に事欠く難所を通り、ある時は食糧が絶えてしまった時もあった。
このように堪え難い道を涙を流しながら進んでいくのは、未だ体験していない仏法を学び習得するためであった。
苦しみ悩むこと数か月を経て、ようやく竜樹菩薩のもとに着いたのである。
門口に立って、付き人に取次を願いたい旨伺いを立てようとした。すると、ちょうどその時、一人の御弟子が外からやって来て、庵に入ろうとするところで出会った。
その御弟子が尋ねた。「どちらの聖人がおいでになられたのでしょうか」と。それに答えて、「申し上げることがあり、参りました」と。
御弟子はそれを聞いて中に入り、師の菩薩にその事を申し上げた。菩薩は、それ相応の御弟子によってお聞きさせた。その御弟子は、「いずれからどちらの聖人がおいでになられたのでしょうか」と尋ねた。菩提菩薩は、「私は中天竺の者です。お噂では、『大師(高僧に対する尊称)はその知恵無量であられる』と聞いております。かの地からの道のりは遠く険しく、容易に行ける所ではありません。その上、年老いた身は疲れ果て、歩くのさえ難儀で、道中が絶え難いほどです。しかしながら、ただ、仏法を習い修得しようとの思いが強く、仏法を伝授されるべき因縁があるならば、必ずたどり着くことが出来ると思って、身命をかえりみることなくやって来たのです」と答えた。
御弟子はこれを聞いて、中に入ってこの由を申し上げた。師は、「若い比丘か、老いたる比丘か、どのような様子か」と尋ねられた。
弟子は、「まことに遥かな道を歩いてきて疲れたのでしょう、痩せ衰えていますが、たいそうと尊げであられる人です。立ち上がることが出来ず、門のわきで座り込んでいます」と申し上げた。
すると、大師は小さな箱を取り出して、その箱に水を入れて、「これを持って行って与えなさい」と言って与えられた。御弟子は箱を受け取って、提婆菩薩に与えた。提婆菩薩は箱を受け取って、箱に水が入っているのを見て、僧衣の襟の所から針を抜き出して箱に入れて御弟子にお返しした。御弟子はその箱を受け取って大師にお渡しした。
大師が箱を受け取ってご覧になると、底に針が一本入っている。それを見て、意外なことに気付いて大慌てして仰せられた。「本当の智者がおいでになられているのだ。すぐに中にお入れせず、度々お訊ねしたことはまことに恐れ多いことであった」と。そして、僧房内を掃き、清らかな敷物を敷き、弟子に「急いでお入り頂くように」と命じた。
弟子は大師の言葉を承って、お尋ねした。「他国より参った比丘は、門の外において何も申しておりません。大師は来訪の由をお尋ねになられました。その本意を尋ねるのに、大師は箱に水を入れてお渡しになられました。遠国より来られたので、まずは水を飲んで喉を潤していただくためにお渡しされたのだと思っていましたところ、比丘に差し上げますと、比丘は水を飲むことはなく、僧衣の襟から針を抜き出して、箱に入れて返されました。あの比丘が大師に針を奉ったのだと思っておりました。ところが、大師は針を箱に入れたままで、このように大切にしてお呼び入れされるのは理解できません」と。
大師はあきれたように笑って、「お前の智(サトリ)、はなはだ愚かである。中天竺の比丘が遥かにやって来て、仏法を伝授してほしいと言う。我はそれに答えることなく、箱に水を入れて与えたのは、『水を入れた箱は小さくとも、万里の姿が浮かぶ。我が知恵は小さな箱の水のようなものであるが、そなたの万里の知恵の姿をこの小さな箱に浮かべなさい』と問いかけて、箱に水を入れて与えたのである。それに対して、やって来た聖人は、我が心を察知して、針を抜き出して箱に入れたのは、『自分の針ほどの小さな知恵で、あなたの遥かな大海のような知恵の底までも見極めましょう』という応答なのだ。長年我に付き従って修行してきたのに、知恵薄くしてこの心を悟らず、中天竺の聖人は遥か遠い所から来たというのに、わが心の内を見通しているのだ。知恵が有ると無いとは、優劣の差が遥かに隔たっているのだ」と仰せになられたので、弟子は、肝も心も砕かれるように辛く思った。そうではあったが、大師の言いつけにより、その聖人をお入れするように伝えた。
聖人は僧房に入って大師にお会いになった。
瓶の水を移し変えるかのように、すべてを伝授なさった。仏法の伝授を受けて、もとの国に帰り、仏法を広めた。
知恵があるのと無いのと、理解が早いのと遅いのとは、はっきりと分かるものだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
無着菩薩と世親菩薩 ・ 今昔物語 ( 4 - 26 )
今は昔、
天竺において仏(釈迦)が涅槃(ネハン)に入られてから九百年後のこと、中天竺の阿輸遮国(アユジャコク)という所に、無着菩薩(ムヂャクボサツ・4~5世紀頃の人物)と申す聖人がおられた。知恵は甚深(ジンジン・非常に奥が深いこと)にして弘誓(グゼイ・仏道に精進し、あまねく衆生を救済しようとする菩薩の誓願。)は広大である。夜は兜率天(トソツテン・天界の一つで、内院には弥勒菩薩が住院する。)に昇り、弥勒菩薩(ミロクボサツ・釈迦入滅の五十六億七千万年後にこの世に現れ、衆生を済度する未来仏。如来となることが定められている菩薩である。)の御許に参って大乗仏教の教法を学び、昼は閻浮提(エンブダイ・人間の住む世界)に下って、衆生のために仏法を広めた。
また、その弟に、世親菩薩(セシンボサツ)と申す聖人がおられた。北天竺の丈夫国(ジョウブコク)という国に住んでおられた。知恵は広くして人を哀れむ心が強かった。ただ、東州(トウシュウ・須弥山の東方洋上にある国?)より賓頭廬尊者(ビンヅルソンジャ・釈迦の弟子の長老に同名人物がいるが、その人とは別人、または伝説化された人物らしい。)と申す仏(シャカ)の御弟子がやって来て、この世親菩薩に小乗(ショウジョウ・大乗の対。小さな乗物で、利他をはからず、自己の完成にのみ専念する教法。)の仏法を教えた。 そのため、長年、小乗の仏法を信じ、大乗の仏法というものを知らなかった。
兄の無着菩薩は、遥かに遠い地に居ながら、弟の心の内を知り、何とか工夫して大乗の教えに導き入れようと思われて、自分の門弟の一人に命じて、かの世親がおいでの所に行かせて伝えさせた。「速やかにこの地にやって来なさい」と。
その弟子は、大師(無着菩薩を指す。大師、菩薩は、どちらも高僧に対する尊称として使われることが多い。)の言い付けに従って丈夫国に行き着き、世親に無着菩薩の伝言を伝えた。世親は無着の申し出に従って行こうとしたが、その夜、無着菩薩の弟子の比丘が、門の外において十地経(ジュウヂキョウ・華厳経の十地品と同じ)という大乗の経文を読誦していた。
すると、世親はこの経文を聞くと、甚深にして自分の知恵では理解できるものではなかった。そして、思ったことは、「私は長年にわたって修行が拙く、このような甚深の大乗の経文を聞くことがなく、小乗を信じて修行してきた。大乗を誹謗(ヒボウ・そしること)してきた罪はとても大きい。誹謗の誤りは、ひとえにこの舌から起きている。舌こそが罪の根源である。私は今、この舌を切り棄てよう」ということであった。そして、鋭い小刀を取って、自ら舌を切ろうとした。
その時、無着菩薩は神通の力を以て遥か彼方からこの事を見て、手を差し伸べて、舌を切ろうとしている手を捕らえて切らせなかった。この両者の距離は、三由旬(ユジュン・1由旬は諸説あるが、牛車の一日の行程とされる。)である。
無着菩薩は即座にやって来て世親の横に立ち、「お前が舌を切ろうとすることは、極めて愚かな事である。まことに、大乗の教法は、真実の理(コトワリ)である。諸々の仏はこれを誉め給う。諸々の聖衆(ショウジュ・菩薩や天衆)もまたこれを尊ぶ。私はお前にこの教法を伝授しよう。お前は速やかに舌を切ることを止めてこれを修行せよ。舌を切ることは懺悔したことにはならない。これまでは舌でもって大乗を誹謗した。今よりは舌でもって大乗を讃えよ」と仰せになると、掻き消すように姿を消した。
世親はこれを聞いて、兄の教えに従って舌を切ることを止めて、大乗に出会うことに歓喜した。
その後、無着菩薩の御許に行き、真心をこめて初めて大乗の教法の伝授を受け、終には瓶の水を移すが如く受け継がれた。兄の無着菩薩の教え導く力は不思議な力を持っていた。
世親は、その後、百余部の大乗論を作って世に広げられた。名を世親菩薩と申すはこの方である。たいへん世の人々に崇められた人である、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
弥勒をお待ちする ・ 今昔物語 ( 4 - 27 )
今は昔、
天竺の摩訶陀国(マカダコク・古代インドの大国)に護法菩薩(ゴホウボサツ)と申す聖人がおいでになられた。この人は、世親菩薩(前回に登場している。)の弟子である。教法を広め、知恵甚深(ジンジン・非常に奥が深いこと)なること、人に優れていた。されば、その門弟の数は極めて多かった。
また、その当時に、清弁菩薩(ショウベンボサツ)と申す聖人がおいでになられた。この人は提婆菩薩(ダイバボサツ・竜樹菩薩の弟子で、前々回に登場している。)の弟子である。この人もまた、知恵が甚深にして、門弟の数も多かった。
ところで、、清弁は「諸法は空(クウ)なり」と立論した。(この世の一切の存在はすべて実体性のないものであるとする思想で、竜樹・提婆を経て清弁に継承されたもの。)
一方の護法は、「有(ウ)なり」と立論した。(無着・世親によって大成された唯識学に立つ有の思想。)
そのため互いに、「我が立つ所が真実である」と争った。
護法菩薩は、「この事の争い、誰にこの両説の正否を判定することが出来ようか。されば、弥勒(ミロク)にお尋ねしよう。早速、共に兜率天(トソツテン・天界の一つで弥勒菩薩が住んでいる。)に昇ってお尋ねしよう」と言った。それに対して、清弁は、「弥勒はまだ菩薩の位であられる。なお、一念の[ 欠字あるも不詳。]ある。されば、お尋ねすることは出来ない。今に成道(ジョウドウ・仏道を成就して仏(如来)になること。弥勒菩薩は、釈迦入滅の五十六億七千万年後に仏となり、この世に出現されるとされている。)なさるので、その時にお尋ねすべきである」と言って、その争いは終息しない。
その後、清弁は、観世音(カンゼオン・観音菩薩に同じ。)の像の前において水を浴び、穀物を断ち随身陀羅尼(ズイシンダラニ・釈迦が観音に伝授したものとされる)を誦して、誓願申し上げた。「私は、この身のままでこの世に留まり、弥勒の出世にお会いしたい」と、三年の間祈念した。
すると、観世音自ら姿を現されて、清弁に仰せられた。「そなたは、何事を思い願うのか」と。清弁は、「願わくば私は、この身を留めて、弥勒の出世の時をお待ちしたいのです」とお答えした。
観世音は仰せになられた。「人の身は虚しいものであって、生きながらえることは出来ない。されば、善根を積んで、兜率天に生まれるよう願うべし」と。清弁は、「私には、願う事は二つはありません。ただ、この身を留めて、弥勒をお待ち奉らんと思うことだけです」とお答えした。
観世音は仰せになられた。「さればそなた、ダナカチャカ国(南インドの一国らしい)の城(ジョウ)の山の巌の執金剛神(シュウコンゴウジン・金剛力士に同じ。護法神である。)の所に行って、誠を尽くして執金剛陀羅尼(シュウコンゴウダラニ・呪文のようなもの?)を誦して祈請すれば、その願いが遂げられるだろう」と。
清弁は、観世音の教えに従ってその所に行き、手印を組んで呪文を唱えて、起請すること三年に及んだ。
すると、執金剛神が姿を現して清弁に訊ねた。「そなたは、何事を願ってこのような事をしているのか」と。
清弁は、「私が願うところは、この身がこの世に留まって、弥勒の出世をお待ち奉ることですが、観世音のお導きを受けてこちらに参ったのです」と答えた。
執金剛神が話された。「この巌の内に、阿索洛宮(アソラキュウ・阿修羅の住む宮殿。鬼神の宮殿といった意味らしい。)という所がある。作法通りに祈請すれば、自然に石の壁が開くだろう。その中に入れば、その身のままで弥勒をお待ち奉ることが出来よう」と。
清弁は、「穴の内は暗くて何も見えないでしょう。どうして仏(弥勒菩薩が如来となってこの世に現れるとされる。)の出現されたことを知ることが出来ますのか」と尋ねた。執金剛神は、「弥勒がこの世にお出になられた時には、我がやって来て教えてやろう」と答えた。
清弁はその言葉を得て、熱心に祈請すること、さらに三年を経たが、まったく決心が揺らぐことがなかった。そして、芥子を呪して(ケシヲシュシテ・芥子(からし菜の種子)一つまみを火中に投じては呪文を唱えることを、所定回数繰り返すことで満願を迎える加持を行った。)、その石の壁の表面を打つと洞が開いた。
その時、その場には千万の人(大勢の表現)がいたが、誰も入ろうとしない。清弁はその戸口に仁王立ちになって、大勢の人に「私は長い間起請して、この穴に入って弥勒をお待ちするのだ。もし同じ志がある人は一緒に入ろう」と言った。
それを聞いた人々は皆恐れおののいて、一人としてその戸口あたりにいる人がいなくなり、「ここは毒蛇の窟(イワヤ)だ。ここに入る人は、きっと命を失くすだろう」と言い合った。
清弁は、それでもなお「私は入る」と言うと、六人ばかりが後に続いて入った。その後、もとのように戸が閉じてしまった。入らなかったことを後悔する人もあった。また、恐れる人もあった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
三つの願い ・ 今昔物語 ( 4 - 28 )
今は昔、
天竺において仏(釈迦)が涅槃(ネハン)に入られて後、[ 欠字あり。国名が入るが意識的な欠字らしい。]国に一つの寺院があった。その名を[ 欠字あり。寺名が入るが未詳。]寺という。
その寺の本堂に白檀(ビャクダン・栴檀の異称。香木の一つ。)の観自在菩薩の像が在(マシ)ました。霊験あらたかで、常に詣でる人が数十人に及んでいた。
ある人は七日、ある人は二七日(フタナノカ)、飲食を断って精進潔斎して心に願う事を真心を尽くして祈請すれば、観自在菩薩自らおごさかで美しい装いを整えて、光を放って木像の中からお出になって、その人にお姿をお見せになられる。そして、その人に哀れみを垂れ願う事をお聞き届けになられる。
このようにお姿を現じられることが数度に及ぶので、ますます帰依し供養し奉る人が多くなっていった。されば、多くの人が集まるので、この像に近付くことを心配して、像の周囲に七歩ばかり距離を取って木の柵を立てた。人がやって来て礼拝し奉る時は、その柵の外において礼拝し、像に近付くことはなかった。また、人が詣でて柵の外において花を取って散じ奉る時、もしその花びらが菩薩の手や臂(ヒジ)に振り懸かると、これを吉事として願い事が叶うことを知る。
その頃のこと、一人の比丘が、外国より仏法を学ぶためにやって来た。その比丘が、この像の前に詣でて、願うところを起請するために様々な花を買って、これに糸を通して花飾りとして、菩薩の像の御許に詣でて、真心を尽くして礼拝して、菩薩に向かってひざまづいて、三つの願いを立てた。
「一つには、この国において仏法を学び終えて本国に帰るつもりですが、平穏無事に帰国できるならば、願わくばこの花飾りが菩薩の御手に留まりますように。二つには、修行による善根(ゼンコン・善果を得るもとになる善行。)によって兜率天(トソツテン・天界の一つで弥勒菩薩の住いがある。)に生まれて、慈氏(ジシ・弥勒の漢訳)菩薩にお会いしたいと願う。もしこの事が叶うならば、願わくばこの花飾り、菩薩の二の臂に留まりますように。三つには、仏の教えを記したものの中に、『衆生の中に、ほんの少しの仏性(ブッショウ・仏になり得る資質)さえ無い者がいる』とあります。もし私に仏性があって、修行により終には無上道(究極の悟り)を得ることが出来るのであれば、願わくばこの花、菩薩の首に留まりますように」と言い終ると、花飾りを遥かには離れた像に投じると、花飾りはことごとく願う所に掛かった。確かに、三つの願が果たされることを知って、感激の心に包まれた。
その時、寺を守っている人がその人のそばにいて、この様子を見て不思議な思いに打たれて、比丘に話しかけて、「聖人は、きっと将来成仏(仏になること)なさるでしょう。願わくばその時には、今日の仏縁を忘れられることなく、まず私を救済してください」と約束して別れた。
その後、これを見ていた人が、
語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
* 本文中の「比丘」は、他の文献などから、「三蔵法師」らしい。
☆ ☆ ☆
瞑想から覚める ・ 今昔物語 ( 4 - 29 )
今は昔、
天竺に一つの山がある。峰がこの上なく険しい。仏(釈迦)が涅槃に入られた後、その山は落雷により崩れた。
その山の住人がその辺りを通るときに、一人の比丘(僧)を見た。身は痩せ枯れていて、目をふさぎ背を丸めてうつむいて座っていた。頭髪は、肩や顔にまで長く生えて垂れさがっている。住人はこの比丘の様子をみて驚き怪しんで、国王にこの事を申し上げた。
国王はこれを見るために、自ら大臣・百官を率いてその場所に行き、礼拝して供養(仏僧に食事を提供し物品を布施し法事を営むこと。)なさった。そして、「あの人は、見るからにとても尊いお方と思われる。あの人はどなたなのか」とお尋ねになった。すると、そばにいた一人の比丘が申し上げた。「あの方は、出家して阿羅漢果(アラカンカ・最高の修行階位)を証した修行者で、滅尽定(メツジンジョウ・一切の心の働きを断ってひたすら瞑想する境地。)に入られているのです。多くの年月を積んでおり、それ故に、頭髪が長くなっているのです」と。
国王は、「どうすればこの人を瞑想から覚まさせて、我に返らせることが出来るのか」と仰せられた。
比丘は、「断食の身は、瞑想状態から出ると、すぐさまその身は壊れてしまいます。されば、打って覚醒させれば我に返るでしょう」と申し上げた。
そこで、国王は、その言葉により、この人の体に乳(ニュウ・牛乳。チーズ状の物とも。)をそそぎ、槌で打たせた。すると羅漢は、目を見開いて言った。「お前たちは何者だ。姿は賤しいのに(昔の僧に比べて賤しく見えたらしい。)立派な僧服を着ているとは」と。
比丘は、「私は比丘です」と答えた。羅漢は、「我が師の迦葉波如来(カショウハニョライ・迦葉仏に同じ。過去七仏の第六仏。過去七仏は、釈迦とそれ以前にこの世に出現した六仏の総称。)は、今何処におわしますや」と尋ねた。
比丘は、「涅槃に入られて久しくなります」と答えた。
これを聞いて、羅漢は、哀しみ嘆いた。そして、さらに、「釈迦牟尼仏(シャカムニブツ・釈迦の尊称)は、正覚(ショウガク・正しく完全な悟り。成仏(如来になること)することを指している。・・これらから、この羅漢は、菩薩時代の釈迦を見知っていたらしい。)なさったのか」と尋ねた。
比丘は、「すでに正覚成り給いて、多くの衆生を救済して、そのお方も涅槃にお入りになりました」と答えた。
羅漢はその事を聞き終ると、眉を垂れてややしばらくして、手で髻(モトドリ・頭上に結い上げた髪)を挙げて、大空に昇って大神変(ダイシンペン・神通力による壮大な神秘的な所業)を現じて、火を出して自らの身を焼いて骨髄を地に落した。
そこで国王は、諸々の人と共にこの骨(コツ)を集めて、卒塔婆(ソトバ・遺骨を収納奉安する舎利塔)を立てて、礼拝してお帰りになった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
髑髏を売る ・ 今昔物語 ( 4 - 30 )
今は昔、
天竺に一人の婆羅門(バラモン・古代インドの四姓制度の最上位に位置付けられた僧侶階級。)がいた。
その婆羅門が、多くの死人の古い髑髏に紐を通して、王城(オウジョウ・国王の居城がある都)に入って、大声で叫んだ。「わしは、死人の古い髑髏に紐を通して集めて持っている。誰か、わしが持っている髑髏を買わないか」と。
このように叫んで回ったが、一人として買う人はなかった。婆羅門が髑髏が売れないことを嘆いているのを、見物に多くの人が集まって、ののしりあざけり笑った。
その時、一人の信仰心が有る人がやって来て、その髑髏を買い取った。婆羅門は、耳の穴に緒を通して持っていた。これを買う人は、耳の穴に通すことなく持って帰ろうとした。すると婆羅門は買った人に尋ねた。「何ゆえに、耳の穴に緒を通さないのか」と。それに答えて、「法華経を聞いたことのある人の耳の穴に緒を通さないためです」と言って、買い取って持って帰った。
その後、塔を建て、その多くの髑髏を安置して供養した。その時、天人が降って来てその塔を礼拝して去っていった。
婆羅門の願いを満たすために、必要がないのに髑髏を買い取って、塔を建てて髑髏を収納して供養するのを、天人も大変お喜びになって天下って来て礼拝されたのだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
竜の子となる ・ 今昔物語 ( 4 - 31 )
今は昔、
天竺に、ある国王がおいでになった。その国王の心は、極めてねじれ曲がっていて素直でなく、生まれつきふらふらと正気でないかのようであった。ただ、ひたすら寝てばかりいて日を過ごしていた。
されば、常人とは違っていることから、その国の大臣や公卿は、「わが国王は、ふつうの状態ではない。このようにふらふらとしていて、眠ってばかりしているのは、きっと御病気であられるに違いない」と言い合って、当時の名医たちを召して訊ねられると、医師は、「国王は御病気です。乳(ニュウ・牛乳。あるいはその加工品か?)を差し上げるべきです」と言った。
「しからば、すぐに乳を差し上げよう」と決議して、乳を差し上げた。
国王は乳を服すると、極めて気持ちが悪く感じられて、大いに腹を立てて、「これは絶対に薬ではない、とんでもない猛毒だ」と言って、多くの医師が首を切られてしまった。そして国王は、ますます眠っている状態が多くなり、癒えることはなかった。
そうした時、別のある優秀な医師がいた。この医師を召し出して訊ねたところ、その医師は「王がお生まれになった時、母后さまにどのようなことがございましたか」と尋ねた。母后はそれを聞いて、「わたしは夢の中で、『大きな蛇(クチナ)が現れて、わたしは犯された』と思った時、この王を懐妊しました」と答えた。
医師はそれを聞いて、心の中で、「されば、この王は蛇の子なので、このようにふらふらとしていていつも眠ってばかりいるのだ」と納得し、それに合う薬を考えたが、やはり乳以外の薬はなかった。そこで、乳をまた服用させ奉ろうと思ったが、以前の医師は皆殺されてしまったので、乳を服用させることは無益なことだと思った。
さてどうしたものかと思い悩んだ末、乳をそれと分からないように他の物と混ぜ合わせて、「他の薬でございます」と言って奉った。
国王は、それを服したところ、やはり乳の気配が感じられたので、また大いに怒って、「この薬を奉った医師を捕らえ連れて参れ」と命じた。
命じられた役人が行って医師を捕らえようとすると、この医師はきっとこのような事になるだろうと予想していて、薬を奉った後、ただちに駿馬を用意して、それに乗って逃げ去った。
役人が医師が逃げ去ったことを申し上げると、「厳しく追って行って、必ず捕らえよ」との命令が下されたので、役人は後を追い、医師は遥か遠くまで逃げて行ったが、三日目に遂に捕らえた。
そこで、引き立てられる間に医師は、「王はあのような状態であっても、この薬を服用なされば正常な心におなりになるとは思うが、もしかすると治らないということもあるかもしれないので、今この役人と共に参上して、首を切られるのはまことにつまらないことだ」と思って、必ず死に至る毒草を取って、その役人に「これはとても美味な物だ」と言って、まず医師自ら食べた。役人共は、医師が食べるのを見て、毒草とは知らず取って皆が食べた。
すると、役人共はすぐに死んでしまった。医師は、解毒剤を食っていたので死ななかった。役人共は、その解毒剤を食っていなかったので遂に死んでしまった。
その時、医師はうまくやり遂げたと思って、密かに王城に入り、しばらく隠れているうちに、国王は薬の力によって、正常の心に完治なさったので、喜んでその医師を訪ねると、医師は恐る恐る出てきた。
国王はその医師を召して、褒美を与え官位を上げて、感謝の気持ちを伝えられた。世間の人もこれを聞いて、医師を誉めること限りなかった。
これより後は、国王に乳を奉るようになった。この国王は、蛇の子ではなく、竜の子であられたのだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
猛毒転じて妙薬となる ・ 今昔物語 ( 4 - 32 )
今は昔、
震旦(シンダン・古代インドにおける中国の呼称。)の[ 意識的な欠字。時代名が入るが、不詳。]代に国王がおいでになった。
その国王には一人の皇子がいた。姿は端正(タンジョウ・容姿が整っているさまを表現する常套句。)にして心[ 欠字あり。上品とか優雅といった言葉らしい。]也。されば、[ 欠字あるらしいが、不詳。]父の国王は、この皇子を深く愛されること限りなかった。
ところが皇子は、重い病にかかり数か月を経たので、国王はそれを嘆いて、天を仰いで祈請し、薬をもって治療するも、病はますます重くなる一方で、快方に向かうことがなかった。
その頃、大臣でもある名医がいた。ところが国王は、この大臣と極めて仲が悪く、まるで敵(カタキ)のようであった。そのため、この皇子の病についてもその大臣に相談しなかった。
そうとはいえ、この大臣は医術の奥義に精通していたので、国王は皇子の病について相談するために、長年の恨みを心におさめて、丁重に大臣を召した。大臣は喜んで参上した。
国王は大臣に会うと、「長年互いにいがみ合ってきたが、皇子が病気となり苦しんでいるが、多くの医師を召して治療させたが快方に向かわない。それで、長年の恨みを押さえてお前を呼んだ。すぐにこの皇子の病気を治療して完治させてくれ」と言った。大臣は、「まことに、長年勅命を受けることもなく、闇夜をさまよっているようでございました。今、この仰せを承って、夜が明けたようでございます。されば、早速、御子の御病気を見させていただきます」と答えた。
国王は、大臣の答を得て、大臣を呼び入れて皇子の病を見させた。
大臣は御子を見て、「急いで薬をもって治療が必要だ」と言って出て行った。そして、大臣はすぐに薬を持って戻ってきて、「この薬を服用いただければ、御病はすぐに良くなるでしょう」と言った。
国王はそれを聞いて、「この薬の名は何というのか」と訊ねた。
ところが、大臣が前もってたくらんでいたことは、「これは薬ではない。人がこれを服用すれば、たちまち死んでしまう毒を『薬だ』と言って飲ませて、治療のついでに長年の恨みに酬いて皇子を殺そう」と思って毒を持ってきていたが、国王が薬の名前をお訊ねになったので、大臣はあれこれ思案に余って、何か言おうと思ったうえに口から出まかせに、「これは阿竭陀薬(アカダヤク・解毒剤といった意味らしい。)と申します」と答えた。
国王は、阿竭陀薬だと聞くと、「その薬は、服用して人が死ぬことなどないようだ。鼓に塗って打てば、その音を聞く人はみな病が癒えること疑いなしと聞いている。いわんや、服用する人は、どうして病が癒されないことなどあろうか」と深く信じて、皇子に飲ませた。
すると、皇子の病は、たちどころに完治した。
大臣は、すでに家に帰っていて、「御子はすぐに死ぬだろう」と思っていたところ、「すぐに完治した」と聞こえてきたので、不思議なことだと思うこと限りなかった。
国王は大臣のおかげで皇子の病が癒えたことを嬉しく思われた。
やがて日が暮れて夜になった頃、国王の御座所の戸を叩く者があった。国王は怪しんで、「いかなる者か、戸を叩くのは」と訊ねられると、「阿竭陀薬が参りました」と言う。国王は不思議に思いながらも、叩く戸を開けてみると、端正な若い男女がやって来ていた。
若い男女は、国王の御前において語った。「我らは阿竭陀薬である。今日、大臣が持って参って服用させた薬は、猛毒である。飲んだ人はたちまち命を失う物である。大臣は、皇子を殺さんがために、毒を『薬だ』と名付けて飲ませようとしたが、王がこの薬の名を『何というのか』と訊ねられたところ、大臣は答えようがなく、苦しまぎれに『これは阿竭陀薬です』と申し上げたので、王はそれを深く信じて服用させようとされた時、『阿竭陀薬だ』と言う声が微かに蓬莱(ホウライ・不老不死の神仙境のこと。)まで聞こえてきたので、『しからば、阿竭陀薬を服用する人はたちまち死んでしまうということを知らないのだ』と思ったので、我らがやって来て毒薬に代わって我らが飲まれたのてある。それで御病は、たちどころに癒えたのである。この事を申すために、我らはやって来たのである」と。
そう言うと、男女はたちまち消えてしまった。
国王はこの事をお聞きになって、肝がつぶれるような思いになった。
すぐに大臣(原本は「大后」となっているが誤写と考えられる。)を召し出して問い質すと、隠しきることが出来ず白状した。そのため、大臣は首を切られた。
その後、御子は病にかかることもなく長生きした。これは、阿竭陀薬を飲んだからである。
されば、何事においても、ひたすら深く信じるべきである。深く信じたことによって、病を癒すことが出来るのはかくのごとくである、
となむ語り伝へたるとや。
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誉めて育てる ・ 今昔物語 ( 4 - 33 )
今は昔、
天竺のことであるが、長者(富豪。大商人。)と婆羅門(バラモン・古代インドの四姓制度の最上位である僧侶(司祭)階層。)が闘牛で競い合った。それぞれが金千両を賭けた。日を定めて、それぞれが牛を引き出して長者・婆羅門ともに見た。また、それ以外の人も大勢やって来て見物する。
長者は、「わが牛はどうも様子がおかしい。角・顔・首・尻を見るとどうも力が弱そうだ」と言った。牛は、長者の言う言葉を聞いて恥じ入り、「我はきっと負けるのだろう」と思ってしまった。そして、組み合わせて角を突き合わせると、長者の牛は簡単に負け伏してしまった。されば長者は、千両の金(コガネ)を婆羅門に渡した。
長者は家に帰ると、牛に向かって恨み言を言った。「お前が今日負けてしまったので、わしは千両の金を取られてしまった。全く頼りがいがない奴だ。全く情けないことだ」と。牛はそれに答えて、「我が今日負けたのは、ご主人が我を謗ったものですから、たちまち闘志を失い力が無くなってしまったのです。それで、負けてしまったのです。もし金を取り返そうとお思いなら、今一度組み合って突きあいをさせてください。その時我を誉めてください」
長者は牛の言うことを聞いて、今一度勝負をするよう頼み込んだ。そして、「今度は三千両の金を賭けて勝負したい」と言った。婆羅門は前回簡単に勝ったので、「今回は三千両を賭けましょう」と言って、長者も承諾した。
その後、牛を引き出して突き合せた。
長者は牛の教えに従って、自分の牛を限りなく誉めまくった。
牛はすぐさま突き合ったが、婆羅門の牛はたちまち負けてしまい、婆羅門は三千両の金を長者に渡した。
されば、何事につけ、褒めることによって才能の花は開き、功徳を得るのである、
となむ語り伝へたるとや。
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財物の災い ・ 今昔物語 ( 4 - 34 )
今は昔、
天竺に二人の兄弟がいた。
一緒に旅をしている間、二人はそれぞれ千両の金(コガネ)を持っていた。山々を通って行く間に、兄は「わしが弟を殺して千両の金を奪い取って、わしの金と合わせて二千両の金を持とう」と思った。弟もまた、「わしが兄を殺して千両の金を奪い取って、わしの金と合わせて二千両の金を持ちたい」と思った。
互いにそのように思っていたが、まだはっきりと意思を決めかねているうちに、山中を通り過ぎて川の辺に出た。
兄は、自分が持っていた千両の金を河に投げ入れた。弟はそれを見て兄に尋ねた。「どうして金を川に投げ入れられたのか」と。兄は、「わしは山中を通っていた時、お前を殺してお前が持っている金を取ろうと思った。お前はたった一人の弟である。もしこの金がなければ、お前を殺そうなどとは思いもしなかっただろう。それで、投げ入れたのだ」と答えた。
すると弟は、「わしもまた、同じように兄者を殺そうと思いました。これはみな、この金によるものだ」と言って、弟も持っていた金を同じように川に投げ入れた。
されば、人は食欲によって命を奪われ、財物によって身を害するのである。財物を持たずして貧しい人は、決して嘆いてはならない。
六道四生(ロクドウシショウ・・六道は欲界の六種の境界で「天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」の総称。四生は生物の四種の生まれ方で「胎生・卵生・湿生・化性」の総称。全体として、輪廻転生することを指している。)を廻ることも、財物を貪ることによって起こるのである、
となむ語り伝へたるとや。
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