雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

極論に過ぎるが ・ ちょっぴり『老子』 ( 25 )

2015-06-19 14:43:50 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 25 )

               極論に過ぎるが

学ばなければ悩みは消えるのか?

「 絶学無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與悪、相去何若。人之所畏、不可不畏、荒兮其未央哉。 」
『老子』第二十章の冒頭部分です。
読みは、「 学を絶てば憂い無し。唯(イ)の阿(ア)と、相去る幾何(イクバク)ぞ。善の悪と、相去る何若(イカン)。人の畏れる所は、畏れざる可(ベ)からざるも、荒(コウ)として其れ未だ央(ツ)きざる哉。 」
文意は、「 学門などやめてしまえば、憂いはなくなる。唯 ( 丁寧な返事 ) と阿 ( 乱暴な返事 ) の間にどれほどの差があるのか。善だ悪だといって、どれほどの相違があるのか。世間の人が畏れている所は、自分も恐れなければならないが、そのようなものは雑然としていて、いちいち気にしていては整理がつかない。 」といった感じでしょうか。但し、最後の部分はいろいろな解釈があるようです。

「学を絶てば憂い無し」といっても、『老子』先生が学問を捨てなさいといっているわけではないのでしょうが、中途半端な知識や行動は『老子』が忌み嫌う部分のようです。
第二十章はこの後も続いていますが、大半は、「俗人はちょっとのことで大騒ぎしたり喜んだり悲しんだりするが、自分は愚か者だから、喜びも悲しみも分からない赤ん坊のようであり、俗人のように潔白でなく塵にまみれている。ただ、自然の懐に抱かれて、母 ( 『道』 ) に養われていることを尊いこととしている」といった文章が並んでいます。
 
極論過ぎますが

「学を絶て」というのは極論過ぎるとしても、「知らぬが仏」程度の意味として取る方法もありますし、おそらく『老子』が伝えようとしているのは、「中途半端な知識を振りかざすのは、鼻持ちならない」ということだと思うのです。
「善と悪」についても同様で、「これ見よがしに正義の味方を演じる」のを、戒めているのでしょうね。

『老子』には、いたるところに極論過ぎるような表現が出てきますが、私たちが理解可能な範囲で、そして実行可能な範囲でその精神を学び取ることができれば、日々の生活の中で、精神的な豊かさを与えてもらえるような気がするのです。
『老子』を、たとえ『ちょっぴり』でも学んでみたいと思った理由は、そこにあります。

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