雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

虚心であること ・ ちょっぴり『老子』 ( 26 )

2015-06-19 14:41:23 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 26 )

               虚心であること

虚心であること

「 孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯怳唯忽。忽兮怳兮、其中有像。怳兮忽兮、其中有物。 」
『老子』第二十一章の冒頭部分です。
読みは、「 孔徳の容は、ただ道是れに従う。道の物たる、ただコウただコツ。コツたりコウたり、其の中像有り。コウたりコツたり、其の中物有り。 」
文意は、「 大きな徳を備えた人の容(スガタ)は、道の容に似ている。その道の有様は、ただコウとして、ただコツとして定め難い。( ただ、虚心で接すれば ) コツたりコウたりとしている中に、ある像が有ることがわかる。コウたりコツたりしている中に、ある物があることがわかる。 」といった感じでしょうか。
なかなか分かりにくい文章です。
なお、孔徳を大きな徳としましたが、他の説もあるようです。また、コウ・コツとカナ書きにしましたが、怳・忽は、恍・惚と同じ意味で、有るがごとく無きがごとく判然としない様子を指します。

第二十一章はこの後にも同程度の文字数の文章が続いています。
文意は、「 奥深く暗い中に、精がある。その精は、間違いなく真実であり、その中に信ずるべきものがある。そのものは、古より今にいたるまで消え去ったことがない。そして、万物生成の始めを統べている。以上の通りで、万物が道より出でていることを私が知ることができたのは、虚心であるからである。 」
といった感じの文章です。
つまり、『道』の存在を見つけるためには、虚心でなくてはならないということらしいのです。

簡単に『道』が見えるとは思えないが

『老子』は、その著書の中で、何度も何度も『道』について説明し、それを修得することで、ある境地に達することができる、と述べているように思われます。
しかし、並の人にとって、『老子』という書物を四苦八苦しながら読んでみたところで、そのような境地に達することができるとも思われません。

まあ、そんなことを言ってしまえばそれまでになってしまいます。『老子』に限らず、古来名著といわれるほどの文献であれば、どれをとっても同じことが言えるのではないでしょうか。
この章では、「虚心坦懐」という言葉もありますように、大事に際しては、虚心で臨むことが大切だということを教えてくれているものと考えたいと思います。

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