『 ともしびの明石大門 ・ 万葉集の風景 』
燈火の 明石大門に 入らむ日や
漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
作者 柿本人麻呂
( 巻3-254 )
ともしびの あかしおほとに いらむひや
こぎわかれなむ いえのあたりみず
意訳 「 灯火がともり始めた 明石海峡に 夕陽が沈んでゆく 大和とも 漕ぎ別れてしまうことになるのだなあ 家の辺りも見えなくなった 」
なお、この意訳では、「燈火」を、「灯火」と受取りましたが、この言葉は「明石にかかる枕詞」でもありますので、まったく意味を持たないと考えると、「入らむ日や」は、沈んでいく夕陽をもっと強く感じ取る歌になるかもしれません。
「漕ぎ別れなむ」も、「大和と別れてきた」と、「今別れようとしている」といった取り方があるようで、比較的分かりやすい歌だと思うのですが、解釈は幾つかあるようです。
* 作者の柿本人麻呂は、万葉集における最高の歌人と言えるでしょう。後世の評価も高く、おそらく、わが国で史上最高の歌人を一人挙げるとすれば、一、二位を争うのではないでしょうか。
* しかし、柿本人麻呂は実に謎の多い人物でもあります。
人麻呂に関する情報は、万葉集に載っている歌や注意書きなどがすべてで、他の文献や正史にはまったく記録がないようです。
そうした条件下でありながらも、伝えられている情報は少なくありません。
* まず、生年も正しく記録されたものはありませんが、( 660? - 724? ) というものがありますが、おそらく、それほど大きく離れていないのではないでしょうか。
伝えられている歌の多くは、持統天皇時代(在位期間 690 - 697 )を中心としたものですし、その皇子の草壁皇子の舎人であったという説もあるようです。
持統天皇時代前後のかなりの長い期間を、宮廷歌人といった立場で活動したのではないでしょうか。
身分についても、貴族であったという説もあるようですが、五位以上の身分であれば、正史のどこかに記録があるはずですが、全くないようなので、六位以下の中下級の官人、あるいは貴族の舎人といった立場の生涯だったのではないでしょうか。
* 人麻呂には、明石を詠み込んだ歌が幾つかあり、掲題歌もその一つです。
当時、万葉人にとって、明石は、いわゆる畿内の最西端で、船で西に進むときには、異国に入るといった感慨があったのかもしれません。
そして、「大門」というのは「海峡」という意味ですが、まったく個人的な勝手な想像ですが、「大門=大橋」と読み替えますと、万葉時代も現在も変らぬ景色かもしれないと、いっそうこの歌に親しみを感じてしまうのです。
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