『 松が枝を結ぶ歌 ・ 万葉集の風景 』
「 有間皇子 自ら傷みて 松が枝を結ぶ歌二首 」
岩代の 浜松が枝を 引き結び
ま幸くあらば またかへり見む
( 巻2-141 )
いはしろの はままつがえを ひきむすび
まさきくあらば またかへりみむ
意訳 「 岩代の 浜の松が枝を 引き結んで祈れば 幸い無事であれば また帰ってきて見ることもあろう 」
岩代は土地の名称で、現在の和歌山県日高郡南郷町。
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕
旅にしあれば 椎の葉に盛る
( 巻2-142 )
いへにあれば けにもるいひを くさまくら
たびにしあれば しひのはにもる
意訳 「 家にいるときには 器に盛る飯だが 草を枕の旅なので 椎の葉に盛るのだなぁ 」
* 有間皇子は、第三十六代孝徳天皇の皇子です。
645 年 6 月 12 日、中大兄皇子と中臣鎌足らが時の権力者蘇我入鹿を暗殺するという大事が起りました。乙巳の変(大化の改新)です。
混乱の中、皇極天皇は退位し、弟の孝徳天皇が 6 月 14 日に即位しました。おそらく、政治の実権は皇太子の中大兄皇子らが握っていたのでしょう。
孝徳天皇は、そうした状況を変えるためもあってか、646 年 1 月に都を難波宮に移しました。こうした事も原因してか、孝徳天皇と中大兄皇子との関係は悪化の一途をたどり、653 年には、都を倭京へ戻すことを求めていた中大兄皇子は、天皇が聞き入れる意志が無いのを知ると、皇族や群臣を引き連れて難波宮を去ってしまいました。皇后までも同行しました。
孝徳天皇は、失意のうちに翌 654 年 11 月に崩御しました。
* その跡は、再び元皇極天皇の姉が斉明天皇として重祚しました。
孝徳天皇が即位するときにも、何人もの皇子が辞退したと伝えられているように、皇位をめぐる争いの激しい時代でした。
有間皇子は、657 年に、紀伊の牟呂の湯(城浜温泉の一部)に向かいました。精神病をよそおっていたと伝えられていますので、皇族間の争いから身を隠そうとしていたのでしょう。帰京後には、伯母でもある斉明天皇にその効能を話したので、翌年の冬には、天皇・皇太子(中大兄皇子)らが牟呂の湯に向かいました。
* その留守中に、有間皇子謀反という事件が勃発しました。蘇我赤兄にそそのかされたため、と伝えられていますが、有間皇子はその蘇我赤兄に捕縛されました。
11 月 9 日に牟呂に護送され、中大兄皇子の尋問を受けました。
その時、有間皇子は、「天と赤兄のみが知る。自分は知らない」と答えたと伝えられています。
許されて帰京するかに見えましたが、11 日、藤白坂(海南市藤白)において、絞首刑に処せられました。享年十九歳でした。
* 掲題の二首の歌は、護送される途上で詠んだものです。
「松が枝を引き結ぶ」ことによって、願いが実現するという風習があったようで、有間皇子は、どのような思いで結んだのでしょうか。
皇子に生れたばかりに、十九年にも満たない生涯は、悼みても悼みきれないものと思われます。
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