急な石段参道を登り切った処に建つ灯籠に「九頭大明神 寛政十二年(1800)八月吉日」の刻印がある。
拝殿前に建つ常夜籠は「文化七年庚午(1810)十一月吉日」だ。
二人が寄進したと思われる當村世話人の名もあった桜井市中白木に鎮座する高龗神社である。
宵宮の翌日はマツリだ。
中白木の氏子たちは朝9時から境内を清掃する。
一番に到着したのは頭屋家夫妻。
二老を務める男性は昭和7年生まれ。
御歳84歳の生業は「空師(そらし)」。
高い木に登って枝を伐採する作業をこなすことから「空師」と呼ばれる専門の仕事人。
空に一番近い場で作業をすることからその名がつく。
これまで頼まれて伐採した処に橿原神宮や長谷寺がある。
隣村の北白木のエドヒガン桜や滝倉の権現桜も手入れをしてきた。
両方とも存じている奈良では有名な古木桜。
何年か前に拝見した北白木のエドヒガン桜はヤドリギが取りついて衰弱気味だった。
木に登ってそれらを取り除いたと話す二老は境内に積もった落ち葉をブロワーで吹き飛ばしていた。
軽やかに動き回る姿は80歳半ばに見えない。
氏子たちは昨年に架けた注連縄などは外して新しく懸けなおす。
古い注連縄はトンドで燃やしていた。
御供を調製しだした頭屋。
木製の台にススンボの竹を穴に挿して立てる。
心棒にあたる部分だ。
そこに3個のユウを挿し通す。
ユウの正式名称はユズだ。
尻尾部分を藁で括った三尾の生の丸サバがある。
この藁部分をススンボの竹串に通す。
本来は魚のエソだった。
エソの魚はエイである。
奈良県内ではエイのことをエソと呼ぶ地域が数か所ある。
中白木のマツリにつきものだった丸太のエソは、入手が困難となり、平成23年から丸サバに切り替えたという。
昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、10日のマツリに七つのユウ、三尾のエソを本社に供えて、本社周りにイワシを七尾ずつ括って七ケ所に立てていた。
都合、イワシは四十九尾で垣をしたようだ。
サバの上にもう三つのユウを挿し通してできあがり、と思いきやそうではなかった。
ウルメイワシのメザシである。
十二尾のメザシを手際よく編んだ藁で括って外れないようにする。
これを二組作って合計で二十四尾にする。
おそらく、であるが、一年の月の数であろうと思うが、何故に二本なのか説明がつかない。
県内では類事例を見たこともないような形態の御供だと思ったが、そうでもない。
ウルメイワシのメザシ御供は隣村の北白木にもある。
数もまったく同じで、地域性が感じられる。
生サバの数量は異なるものの、ほぼ同じように供えている地域に奈良市東山間部の北村町のマツリにもあったことを付記しておく。
なお、三老の足元にあるガニノモチ御供は形が違えども、隣村の北白木や萱森にもあった。
ほぼ形が似ている地域は未見であるが、桜井市の南之郷(吉隠・角柄・柳)にもあるようだ。
前日に結っていた注連縄の数は多い。
架ける処は本殿、小社、神饌所、拝殿、社務所、中の鳥居に下の鳥居などなどだ。
ごく最近になってから始めたとされるご神木のケヤキの幹にも架ける。
足元が不安定なケヤキの根元。
幹回りは4m70cmにもあるという。
本殿正面から御供などを拝見させていただく。
朱塗りが美しい社殿である。
数年前に造営事業をされて美しくなったという。
正面を見て気がついた鳥居の両柱に何かがある。
ススンボ竹に杉材で作ったヤリ(槍)である。
悪病退散を願ったヤリであろうか。
ヤリや山の神御供のカマ、ヨキ、タイは新しくなったものと交替した。
この日まで、一年間を守り続けてきた古い守り神はトンドで燃やされる。
燃やすと云うことは捨てるということだ。
もし良ければと、恐る恐るお願いした捨てる祭り用具はいただけないかと申し出た。
一老、二老が了解すれば・・ということで厚かましくもいただいた。
何をするか、である。
これらは燃やせば消滅する。
役目を終えた用具は貴重な史料になる。
そう思っていただいた用具はいずれ奈良県立民俗博物館に寄贈するつもりだ。
これまでいただいた祭り用具(58行事・78点)を纏めて寄贈したことがある。
入手日、行事日、内容などなど詳しく調査した報告書を添えて寄贈した。
平成26年6月にはその一部を展示公開された。
解説も請け負ったことがある。
中白木の祭り用具も特殊性がある。
類事例も含めて役立ててもらおうと思っていただいた。
祓えの儀、御扉開け、オオーと神さんを呼び出す。
本社は2段の重ねモチ。
末社はコモチを供える。
ハクサイ、ダイコン、サツマイモ、コカブダイコン、ニンジン、ハヤトウリ、カキ、ヒナノなど神饌を献じて祝詞を奏上される今西宮司。
次に2本のススンボ竹を括りつけた御幣を持って奉幣振り。
左右に振って後ずさり。
またもや振って下がる。
三度も振られた奉幣振りの作法である。
その次は玉串奉奠、奉幣下げ、撤饌、閉扉で終える。
お供えのほとんどは下げられるが、末社のお供えはそのままにしておくという。
それは山に生息する鳥獣たちに捧げる食べ物なのであろう。
マツリを終えた中白木の村人達。
社務所に参籠する直会の料理は、この日もまた頭屋家のもてなしである。
胡麻を振りかけたセキハンにブリ照り焼き、コンニャクやゴボウ、シイタケの煮しめ、コーヤドーフにたまご焼き、ニヌキタマゴに香物は前日の宵宮祭においてもだされた手料理だ。
取材してくれたあなたも食べてや、と云われてお相伴に預かる。
氏子たちがいただくのは、初瀬街道にある仕出し料理店「太寅」のパック詰めの会席料理だ。
手料理を作るのは婦人たち。
手間がかかるという意見がでて、何年か前よりパック詰め料理に替えたそうだ。
汁椀は麩に三つ葉を散らしたソーメンのすまし汁。
そして、出されたウルメイワシのメザシ。
山の神に供えたメザシはコンロで焼く。
香ばしいメザシが旨いのである。
その奥にあるのはダイコンやニンジンを和えたナマス。
これもまた旨かった頭屋家の手料理。
3月に行われた頭屋のオシメ入り座の膳料理に10月の神明祭のイロゴハンやカントダキもお腹いっぱい味わった手作りのごっつおだった。
前述に挙げた『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、中白木の宮座では長男が座人になると書いてあった。
その年に初めて生まれた長男が座を受けるのだ。
11月9日の宵宮では座人を呼んで御供搗きをする。
10日にお供えをするモチはカニノモチと呼び、蟹の形をしたモチを神社本殿と小社の春日大明神と金比羅大明神の三神に供える。
これらの行事は頭屋家の行事でもある。
負担がかかっていたことから頭屋家行事は3月のオシメ入りと11月の宵宮とマツリに絞ったという。
直会の場は神社社務所であるが、村人曰く、かつては安楽寺だった。
まばゆき輝く本尊佛像を安置している。
お寺の痕跡は社務所前の花立てにある。
「慶應元年(1865)丙寅八月吉日」の年号を刻んでいた。
本尊厨子に立てかけていた棟札がある。
墨書の一部は黒ずんで読み難い。
判読できる範囲で記録した文字は「奉建 極楽寺一宇□二世安楽 天下泰平 五穀豊穣 □年三月十五日」だった。
時間的に余裕があればもう少し詳しく判読できたかも知れない。
片隅に置かれた真っ黒な箱も気になる。
尤も驚いたのはごーさんの宝印である。
無造作に置いてあった宝印は虫に喰われて穴ぼこ状態だ。
時代的にはそうとう古いものだと思った。
宝印があるということはかつてオコナイがあったということだ。
中白木では1月14日にオコナイの弓打ちがあると聞いている。
桜の木で作った弓。
矢はススンボ(ススダケ)の竹で七本作る。
弓打ちするのは一老。
天・地・東・西・南・北に向けて矢を放つ。
最後は鬼の的を目がけて射貫く。
今では名ばかりのオコナイ。
いつの時代か判らないがごーさん札を刷って宝印を押していたに違いない。
そのお札はたぶんに田植えの際に豊作を願って祭っていたと思われるが、記憶する人はだれもいない。
(H27.11.10 EOS40D撮影)
拝殿前に建つ常夜籠は「文化七年庚午(1810)十一月吉日」だ。
二人が寄進したと思われる當村世話人の名もあった桜井市中白木に鎮座する高龗神社である。
宵宮の翌日はマツリだ。
中白木の氏子たちは朝9時から境内を清掃する。
一番に到着したのは頭屋家夫妻。
二老を務める男性は昭和7年生まれ。
御歳84歳の生業は「空師(そらし)」。
高い木に登って枝を伐採する作業をこなすことから「空師」と呼ばれる専門の仕事人。
空に一番近い場で作業をすることからその名がつく。
これまで頼まれて伐採した処に橿原神宮や長谷寺がある。
隣村の北白木のエドヒガン桜や滝倉の権現桜も手入れをしてきた。
両方とも存じている奈良では有名な古木桜。
何年か前に拝見した北白木のエドヒガン桜はヤドリギが取りついて衰弱気味だった。
木に登ってそれらを取り除いたと話す二老は境内に積もった落ち葉をブロワーで吹き飛ばしていた。
軽やかに動き回る姿は80歳半ばに見えない。
氏子たちは昨年に架けた注連縄などは外して新しく懸けなおす。
古い注連縄はトンドで燃やしていた。
御供を調製しだした頭屋。
木製の台にススンボの竹を穴に挿して立てる。
心棒にあたる部分だ。
そこに3個のユウを挿し通す。
ユウの正式名称はユズだ。
尻尾部分を藁で括った三尾の生の丸サバがある。
この藁部分をススンボの竹串に通す。
本来は魚のエソだった。
エソの魚はエイである。
奈良県内ではエイのことをエソと呼ぶ地域が数か所ある。
中白木のマツリにつきものだった丸太のエソは、入手が困難となり、平成23年から丸サバに切り替えたという。
昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、10日のマツリに七つのユウ、三尾のエソを本社に供えて、本社周りにイワシを七尾ずつ括って七ケ所に立てていた。
都合、イワシは四十九尾で垣をしたようだ。
サバの上にもう三つのユウを挿し通してできあがり、と思いきやそうではなかった。
ウルメイワシのメザシである。
十二尾のメザシを手際よく編んだ藁で括って外れないようにする。
これを二組作って合計で二十四尾にする。
おそらく、であるが、一年の月の数であろうと思うが、何故に二本なのか説明がつかない。
県内では類事例を見たこともないような形態の御供だと思ったが、そうでもない。
ウルメイワシのメザシ御供は隣村の北白木にもある。
数もまったく同じで、地域性が感じられる。
生サバの数量は異なるものの、ほぼ同じように供えている地域に奈良市東山間部の北村町のマツリにもあったことを付記しておく。
なお、三老の足元にあるガニノモチ御供は形が違えども、隣村の北白木や萱森にもあった。
ほぼ形が似ている地域は未見であるが、桜井市の南之郷(吉隠・角柄・柳)にもあるようだ。
前日に結っていた注連縄の数は多い。
架ける処は本殿、小社、神饌所、拝殿、社務所、中の鳥居に下の鳥居などなどだ。
ごく最近になってから始めたとされるご神木のケヤキの幹にも架ける。
足元が不安定なケヤキの根元。
幹回りは4m70cmにもあるという。
本殿正面から御供などを拝見させていただく。
朱塗りが美しい社殿である。
数年前に造営事業をされて美しくなったという。
正面を見て気がついた鳥居の両柱に何かがある。
ススンボ竹に杉材で作ったヤリ(槍)である。
悪病退散を願ったヤリであろうか。
ヤリや山の神御供のカマ、ヨキ、タイは新しくなったものと交替した。
この日まで、一年間を守り続けてきた古い守り神はトンドで燃やされる。
燃やすと云うことは捨てるということだ。
もし良ければと、恐る恐るお願いした捨てる祭り用具はいただけないかと申し出た。
一老、二老が了解すれば・・ということで厚かましくもいただいた。
何をするか、である。
これらは燃やせば消滅する。
役目を終えた用具は貴重な史料になる。
そう思っていただいた用具はいずれ奈良県立民俗博物館に寄贈するつもりだ。
これまでいただいた祭り用具(58行事・78点)を纏めて寄贈したことがある。
入手日、行事日、内容などなど詳しく調査した報告書を添えて寄贈した。
平成26年6月にはその一部を展示公開された。
解説も請け負ったことがある。
中白木の祭り用具も特殊性がある。
類事例も含めて役立ててもらおうと思っていただいた。
祓えの儀、御扉開け、オオーと神さんを呼び出す。
本社は2段の重ねモチ。
末社はコモチを供える。
ハクサイ、ダイコン、サツマイモ、コカブダイコン、ニンジン、ハヤトウリ、カキ、ヒナノなど神饌を献じて祝詞を奏上される今西宮司。
次に2本のススンボ竹を括りつけた御幣を持って奉幣振り。
左右に振って後ずさり。
またもや振って下がる。
三度も振られた奉幣振りの作法である。
その次は玉串奉奠、奉幣下げ、撤饌、閉扉で終える。
お供えのほとんどは下げられるが、末社のお供えはそのままにしておくという。
それは山に生息する鳥獣たちに捧げる食べ物なのであろう。
マツリを終えた中白木の村人達。
社務所に参籠する直会の料理は、この日もまた頭屋家のもてなしである。
胡麻を振りかけたセキハンにブリ照り焼き、コンニャクやゴボウ、シイタケの煮しめ、コーヤドーフにたまご焼き、ニヌキタマゴに香物は前日の宵宮祭においてもだされた手料理だ。
取材してくれたあなたも食べてや、と云われてお相伴に預かる。
氏子たちがいただくのは、初瀬街道にある仕出し料理店「太寅」のパック詰めの会席料理だ。
手料理を作るのは婦人たち。
手間がかかるという意見がでて、何年か前よりパック詰め料理に替えたそうだ。
汁椀は麩に三つ葉を散らしたソーメンのすまし汁。
そして、出されたウルメイワシのメザシ。
山の神に供えたメザシはコンロで焼く。
香ばしいメザシが旨いのである。
その奥にあるのはダイコンやニンジンを和えたナマス。
これもまた旨かった頭屋家の手料理。
3月に行われた頭屋のオシメ入り座の膳料理に10月の神明祭のイロゴハンやカントダキもお腹いっぱい味わった手作りのごっつおだった。
前述に挙げた『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、中白木の宮座では長男が座人になると書いてあった。
その年に初めて生まれた長男が座を受けるのだ。
11月9日の宵宮では座人を呼んで御供搗きをする。
10日にお供えをするモチはカニノモチと呼び、蟹の形をしたモチを神社本殿と小社の春日大明神と金比羅大明神の三神に供える。
これらの行事は頭屋家の行事でもある。
負担がかかっていたことから頭屋家行事は3月のオシメ入りと11月の宵宮とマツリに絞ったという。
直会の場は神社社務所であるが、村人曰く、かつては安楽寺だった。
まばゆき輝く本尊佛像を安置している。
お寺の痕跡は社務所前の花立てにある。
「慶應元年(1865)丙寅八月吉日」の年号を刻んでいた。
本尊厨子に立てかけていた棟札がある。
墨書の一部は黒ずんで読み難い。
判読できる範囲で記録した文字は「奉建 極楽寺一宇□二世安楽 天下泰平 五穀豊穣 □年三月十五日」だった。
時間的に余裕があればもう少し詳しく判読できたかも知れない。
片隅に置かれた真っ黒な箱も気になる。
尤も驚いたのはごーさんの宝印である。
無造作に置いてあった宝印は虫に喰われて穴ぼこ状態だ。
時代的にはそうとう古いものだと思った。
宝印があるということはかつてオコナイがあったということだ。
中白木では1月14日にオコナイの弓打ちがあると聞いている。
桜の木で作った弓。
矢はススンボ(ススダケ)の竹で七本作る。
弓打ちするのは一老。
天・地・東・西・南・北に向けて矢を放つ。
最後は鬼の的を目がけて射貫く。
今では名ばかりのオコナイ。
いつの時代か判らないがごーさん札を刷って宝印を押していたに違いない。
そのお札はたぶんに田植えの際に豊作を願って祭っていたと思われるが、記憶する人はだれもいない。
(H27.11.10 EOS40D撮影)