前夜のことだ。
自宅で入浴しているときに客人が来られたようだ。
何かを伝えようとした男性は住まいする地元自治会住民のFさん。
何事かと思って、電話をすれば、是非行って見てほしい家があるという。
その家は国の登録有形文化財に指定されている葉本邸である。
Fさんの話しによれば、蔵を整理したら古いものが出てきたという。
それらはあまりにも多い数々の宝物。
何度かは入れ替えて展示をしているから見たほうがいいと云うのである。
私の名前を告げて紹介したそうだ。
大和郡山市観音寺町の筋に入って、すぐの処に建つ葉本邸は「大和な雛まつり」会場の一つ。
平成24年の3月初旬に訪れていた。
その晩に電話をするにはご迷惑をかけると思って翌朝にした。
朝、と云っても午前10時ぐらいだ。
久しぶりの訪問願いに電話した葉本家。
訪問の件を伝えたら、「是非、来てください」だ。
葉本邸が建つ街道はかつてのバス通り。
奈良交通バスのボンネットバスが運行していたと聞く。
今では懐かしいボンネットバスは走っていないが、乗用車や運搬車は頻繁に通過する北行き一方通行の街道である。
待っておられたのは母親と当家で生まれた娘さんの現当主婦人。
嫁ぐ前から生まれ育った大和郡山の暮らし一筋の生活だと云う。
ほぼ4年ぶりにおとずれた葉本邸。
当主は用事で外出中。
不在であったが、当主婦人と母親が迎えてくれた。
煙出し付きの瓦屋根をもつ切妻造りの2階建て。
分銅を象った文様を中央に配した細長の虫籠窓が見られる。
葉本邸の目玉は明治初期だとされる屋形造りの雛人形。
それ以外にもたくさんのモノモノのお宝がある。
玄関を開けて拝見した本日の飾り物は黒塗り、朱塗りの脚膳付の椀。
懐かしい瀬戸物の椀もあって目はキョロキョロと動き回る。
これらは最近になって蔵出ししたモノだそうだ。
椀を解説していた二人の婦人がふっと吐いた「フクガユ」。
何のことである。「フクガユ」を充てる漢字は「福粥」だ。
一月二日の朝に炊いて作る「フクガユ」は正月祝いの料理。
朱塗りの椀に入れて食べるらしい。
是非とも取材させていただきたいと申し出た。
別称が「福沸かし」の「福粥」については昭和28年4月1日に添上郡帯解町郷土研究会が編集・発行した『解町郷土誌』に書かれてあった。
正月二日は福沸かしの日。
粥の準備や調理は元日同様に、かつては当主がしていた。
最近では少なくなったという表記もあることから、戦後の数年後には衰退の方向に向かっていたようだ。
「福粥」は雑煮と同じように餅を入れる地域もあったが、だいたいが茶粥に小豆を入れて炊いたようだ。
作った「福粥」は神さん(ここでいう神さんは家の神棚であろう)や先祖さん(家の仏壇であろう)に供えていたらしい。
ちなみに、大和郡山市商工会が主催する第5回「大和な雛まつり」は平成28年2月20日(土)から3月6日(日)まで開催される。
この場に、どでーんと、屋形造りの雛飾りが並ぶことだろう。
葉本家はかつて両替商だった。
その後は肥料商を営んでいたという。
当時は田んぼで菜種を栽培していたと思うが、農地解放によって消滅したようだ。
肥料商の営みは「純正菜種油粕」と表記された看板が残されていることで判る。
製造元は堺の吉原製油。葉本肥料店は油を販売していたことを物語る看板だった。
「菜種粕 眞粉粕」の文字がある大阪平野製油会社の特約販売店の看板の看板もある。
肥料商だったころ話しはさておいて、両替商および肥料商にまつわるモノモノがある。
金屏風ならぬ銀屏風の前は引き戸の戸棚。
商売に必須の大福帳は明治36年。
手前に並べた帳簿は右から明治時代の「小作米取場」、天保七年の「□入用帳」、明治31年の「経費日記帳」、明治時代の「金銭日記帳」。
上段に並べた帳簿は明治33年の「経費日記帳」、明治36年の「肥料差引帳」、明治45年の「現品差引帳」、「葉本肥料飼料商店」、天保拾癸卯年(1843)の「田畑名寄帳」がある。
両替商必携の小銭を数える道具の「銭枡」もあれば、目方を量る分銅もある。
「銭枡」のひと枡は正方形ではなく長方形。
ということは古いモノなのか。
江戸時代であれば、二朱銀8枚で1両になるから横一列で8枚並び。
ところがこれは横一列の5枚並び。
近代のモノなのかな。近代であれば間違いなく正方形。
明治6年制定の銅貨は丸型だった。
以降の年代、すべてが丸型。
これは長方形の枡。
明治6年以前の朱銀のような気がする。
ちなみに段重ねした分銅は拾貫、五貫の刻印があった。
葉本邸玄関を入った壁に飾っている諸々の道具がある。
目方を量る天秤もあれば、大きなうねりをもつ弓もある。
なんと、袖搦(そでがらみ)など暴れる犯罪者を捕まえる道具もあれば、鳶口のような出火した際に建物を引き倒す町の火消道具もある。
ここは大和郡山城下の外堀の向こう側。
葉本邸が建つ観音寺町の西側にかつて外堀だった広島池がある。
池の北側に武家屋敷があった。
江戸時代の町名は旧広島丁だった。
ときの城主となった第二次本多家時代より家臣団が増えつつあった。
丁(町)名の広島は、広島からやってきた家臣団の居住地であることからその名がついた。
シンシバリ(伸子張り)が見つかったことから、当時に使っていたであろうと思われる生地を探し出して張ったという。
シンシバリは洗った布や染物を乾かす際に布を張って皺を伸ばす道具だ。
張ったシンシバリは弓なりになる。
糊を刷毛で塗った生地を乾かす。
端っこは一本の紐で結んでいた。
宙ぶらりんになったシンシバリは、空を泳いで「かーぜに揺られてぶーら、ぶら」だ。
私が子供のころ、明治生まれの婆さんはいつもこうしていた。その光景は今でも思いだす。
この日に撮らせていただいた葉本家に残る江戸時代から昭和の時代まで続く数々の品物は広く見ていただこうと一般公開された。
平成28年7月のことだ。
市の広報誌に紹介された個人公開の小さな博物館の「ハモト プチ ミュージアム」。
葉本家の歩みと町屋の生活を知る貴重な史料が拝見できる。
開館日は12月26日から1月15日間の休館日を除く毎週の土曜、日曜と祝祭日だ。
公開時間帯は午前10時から午後の4時までだが、入館は午後3時まで。
入館料は300円をお願いされている。
生憎、個人の民家につき、駐車場やトイレの設備はないのでご留意いただきたい。
(H27.11.28 EOS40D撮影)
自宅で入浴しているときに客人が来られたようだ。
何かを伝えようとした男性は住まいする地元自治会住民のFさん。
何事かと思って、電話をすれば、是非行って見てほしい家があるという。
その家は国の登録有形文化財に指定されている葉本邸である。
Fさんの話しによれば、蔵を整理したら古いものが出てきたという。
それらはあまりにも多い数々の宝物。
何度かは入れ替えて展示をしているから見たほうがいいと云うのである。
私の名前を告げて紹介したそうだ。
大和郡山市観音寺町の筋に入って、すぐの処に建つ葉本邸は「大和な雛まつり」会場の一つ。
平成24年の3月初旬に訪れていた。
その晩に電話をするにはご迷惑をかけると思って翌朝にした。
朝、と云っても午前10時ぐらいだ。
久しぶりの訪問願いに電話した葉本家。
訪問の件を伝えたら、「是非、来てください」だ。
葉本邸が建つ街道はかつてのバス通り。
奈良交通バスのボンネットバスが運行していたと聞く。
今では懐かしいボンネットバスは走っていないが、乗用車や運搬車は頻繁に通過する北行き一方通行の街道である。
待っておられたのは母親と当家で生まれた娘さんの現当主婦人。
嫁ぐ前から生まれ育った大和郡山の暮らし一筋の生活だと云う。
ほぼ4年ぶりにおとずれた葉本邸。
当主は用事で外出中。
不在であったが、当主婦人と母親が迎えてくれた。
煙出し付きの瓦屋根をもつ切妻造りの2階建て。
分銅を象った文様を中央に配した細長の虫籠窓が見られる。
葉本邸の目玉は明治初期だとされる屋形造りの雛人形。
それ以外にもたくさんのモノモノのお宝がある。
玄関を開けて拝見した本日の飾り物は黒塗り、朱塗りの脚膳付の椀。
懐かしい瀬戸物の椀もあって目はキョロキョロと動き回る。
これらは最近になって蔵出ししたモノだそうだ。
椀を解説していた二人の婦人がふっと吐いた「フクガユ」。
何のことである。「フクガユ」を充てる漢字は「福粥」だ。
一月二日の朝に炊いて作る「フクガユ」は正月祝いの料理。
朱塗りの椀に入れて食べるらしい。
是非とも取材させていただきたいと申し出た。
別称が「福沸かし」の「福粥」については昭和28年4月1日に添上郡帯解町郷土研究会が編集・発行した『解町郷土誌』に書かれてあった。
正月二日は福沸かしの日。
粥の準備や調理は元日同様に、かつては当主がしていた。
最近では少なくなったという表記もあることから、戦後の数年後には衰退の方向に向かっていたようだ。
「福粥」は雑煮と同じように餅を入れる地域もあったが、だいたいが茶粥に小豆を入れて炊いたようだ。
作った「福粥」は神さん(ここでいう神さんは家の神棚であろう)や先祖さん(家の仏壇であろう)に供えていたらしい。
ちなみに、大和郡山市商工会が主催する第5回「大和な雛まつり」は平成28年2月20日(土)から3月6日(日)まで開催される。
この場に、どでーんと、屋形造りの雛飾りが並ぶことだろう。
葉本家はかつて両替商だった。
その後は肥料商を営んでいたという。
当時は田んぼで菜種を栽培していたと思うが、農地解放によって消滅したようだ。
肥料商の営みは「純正菜種油粕」と表記された看板が残されていることで判る。
製造元は堺の吉原製油。葉本肥料店は油を販売していたことを物語る看板だった。
「菜種粕 眞粉粕」の文字がある大阪平野製油会社の特約販売店の看板の看板もある。
肥料商だったころ話しはさておいて、両替商および肥料商にまつわるモノモノがある。
金屏風ならぬ銀屏風の前は引き戸の戸棚。
商売に必須の大福帳は明治36年。
手前に並べた帳簿は右から明治時代の「小作米取場」、天保七年の「□入用帳」、明治31年の「経費日記帳」、明治時代の「金銭日記帳」。
上段に並べた帳簿は明治33年の「経費日記帳」、明治36年の「肥料差引帳」、明治45年の「現品差引帳」、「葉本肥料飼料商店」、天保拾癸卯年(1843)の「田畑名寄帳」がある。
両替商必携の小銭を数える道具の「銭枡」もあれば、目方を量る分銅もある。
「銭枡」のひと枡は正方形ではなく長方形。
ということは古いモノなのか。
江戸時代であれば、二朱銀8枚で1両になるから横一列で8枚並び。
ところがこれは横一列の5枚並び。
近代のモノなのかな。近代であれば間違いなく正方形。
明治6年制定の銅貨は丸型だった。
以降の年代、すべてが丸型。
これは長方形の枡。
明治6年以前の朱銀のような気がする。
ちなみに段重ねした分銅は拾貫、五貫の刻印があった。
葉本邸玄関を入った壁に飾っている諸々の道具がある。
目方を量る天秤もあれば、大きなうねりをもつ弓もある。
なんと、袖搦(そでがらみ)など暴れる犯罪者を捕まえる道具もあれば、鳶口のような出火した際に建物を引き倒す町の火消道具もある。
ここは大和郡山城下の外堀の向こう側。
葉本邸が建つ観音寺町の西側にかつて外堀だった広島池がある。
池の北側に武家屋敷があった。
江戸時代の町名は旧広島丁だった。
ときの城主となった第二次本多家時代より家臣団が増えつつあった。
丁(町)名の広島は、広島からやってきた家臣団の居住地であることからその名がついた。
シンシバリ(伸子張り)が見つかったことから、当時に使っていたであろうと思われる生地を探し出して張ったという。
シンシバリは洗った布や染物を乾かす際に布を張って皺を伸ばす道具だ。
張ったシンシバリは弓なりになる。
糊を刷毛で塗った生地を乾かす。
端っこは一本の紐で結んでいた。
宙ぶらりんになったシンシバリは、空を泳いで「かーぜに揺られてぶーら、ぶら」だ。
私が子供のころ、明治生まれの婆さんはいつもこうしていた。その光景は今でも思いだす。
この日に撮らせていただいた葉本家に残る江戸時代から昭和の時代まで続く数々の品物は広く見ていただこうと一般公開された。
平成28年7月のことだ。
市の広報誌に紹介された個人公開の小さな博物館の「ハモト プチ ミュージアム」。
葉本家の歩みと町屋の生活を知る貴重な史料が拝見できる。
開館日は12月26日から1月15日間の休館日を除く毎週の土曜、日曜と祝祭日だ。
公開時間帯は午前10時から午後の4時までだが、入館は午後3時まで。
入館料は300円をお願いされている。
生憎、個人の民家につき、駐車場やトイレの設備はないのでご留意いただきたい。
(H27.11.28 EOS40D撮影)